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幼いころ、自分は「誰か」を探していた。
まだ出会ったことのない誰か。
自分の「対」となるはずの誰か。
その「誰か」と出会った瞬間、すべてがカチリとハマる気がしていた。
欠けていたピースがきっちり埋まって、そのときようやく「自分」が完成するのだ、と。
なのに、いざ欠けていたものを手に入れた今、佳織の心は驚くほど重い。
(幸喜に、ちゃんと話さなくちゃ)
この恋を認め、受け入れてしまったのだ。このまま、何食わぬ顔で夫と暮らすことなどできるはずがない。
玄関をくぐると、リビングからいつものニュースキャスターの声が聞こえてくる。今日も、彼はビールを片手にテレビを観ているのだろう。
そっと、ドアを開けた。
真っ先に飛び込んできたのは、ソファに座る夫の、くたびれた部屋着姿だ。
それを微笑ましく思う気持ちは、今もこの胸にある。ただ、それが「恋」なのかと問われたら、佳織はためらいながらも、首を横に振るだろう。
「ただいま」
「おかえり」
幸喜は、テレビに目を向けたまま振り返らない。
いつもなら、このあと佳織は髪の毛をまとめていたバレッタを外し、部屋着に着替えるべく寝室に向かったはずだ。
けれど、今日はそのままソファの後ろに立った。一瞬、彼の目の前に立つべきか迷ったものの、堂々と対峙する自信はまだ持てそうになかった。
「あのね、幸喜……話があるの」
「ん……何?」
夫は、まだ振り向かない。
いつもどおりの光景──なのに、佳織の口のなかはすでにカラカラに干からびている。
一瞬、このまま寝室に向かおうかとも考えた。「ごめん、なんでもない」と微笑んで、寝室のドアを開ければ、昨日までと同じ日常を過ごすことができるはずだ。
迷い、うつむいたそのとき、自分の左手首が目に入った。そのとたん、数時間前の熱が一気によみがえってきた。
亨に手首を捕まれたときの、今にも焦げてしまいそうなあの熱さ。
そして、かちりとパズルのピースが嵌まったようなあの感覚。
(──ダメだ)
誤魔化さずに、伝えなくては。
佳織は、意を決すると、振り絞るように声を出した。
「あのね私、好きな人ができたの」
あなたよりも、好きな人が。
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