第5話

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 佳織は、半ば反射的にそのコピー用紙をひったくった。数週間前、地元の駅で繰り広げられた亨とのやりとりが、彼女の手のなかでぐしゃりと握りつぶされる。 「どうして、これを?」 「郵便受けに入っていたよ」  夫の返答は、ひどく淡々としていた。 「夕方、打ち合わせから帰ってきたら『真田様』って封筒が入っていてね。開けてみたら、中身がそれだった。住所は書いていなかったら、たぶん直接届けてくれたんじゃないかな」  そんなことはどうでもいい──いや、実際はまったく「どうでもよくない」ことなのだが、今の佳織にとってはさして重要なことではない。 (知られた)  夫に、知られてしまった。  ああ、喉がひどく乾いている。カラカラで、息をするのも痛いくらい。  それでも、最低限の誤解は解かなければいけない。 「聞いて幸喜、その写真は違うの。それは──」 「知ってるよ。この子が、君を待ち伏せしたんだよね」  佳織は、目をみひらいた。たしかに彼の言葉は耳に届いたはずなのに、脳がそれをうまく処理できていない。 「どういうこと? どうしてそのことを、幸喜が『知っている』の?」 「この目で見たからだよ。電車に乗ろうとした君の腕を、この子が引いたところを」  見た──その意味するところは?  それを、確かめるのは怖い。けれど、訊ねないわけにはいかない。 「どうして見ていたの? あの日、幸喜も──駅に用事があったってこと?」  薄々答えがわかっていながらも言葉を変えたのは、佳織なりの心遣いだ。  けれど、幸喜はそれを容易く踏みつけた。「君のあとをつけたんだよ」と、あっさり答えることによって。 「前の日の君の様子がおかしかったから、気になって後をつけたんだ。そうしたら、彼が君を待ち伏せしていたから」 「そう……だったんだ」  佳織は、視線を落とした。正直なところ、自宅に写真を送りつけられたこと以上に、今の幸喜の告白のほうがショックだった。 (疑われていた……)  前日の時点で、彼は佳織に何かあったことに気づいていた。  その上であとをつけて、亨との一幕を目にし、それでもなお今の今まで指摘することなく「これまでと変わらぬ夫」を演じていたのだ。  そのことに、おそらく自分は感謝するべきなのだろう。もちろん、そうした気持ちもある。けれど、それと同じくらいのうすら寒さが、佳織を覆いはじめている。  ただ、それを口にする権利が自分にあるのか。夫がそのような行動に出る原因を作ったのは、自分ではないのか。  迷い、次の言葉を発せずにいる佳織に、幸喜は「それで?」と訊ねてきた。 「君は『好きな人ができた』と僕に打ち明けて、いったいどうしたいの?」  夫の声は、普段どおり落ち着いている。けれど、その穏やかさこそが、今の佳織をよけいに不安にさせる。  たしかに、自分は古川亨に心惹かれている。けれど、生徒である彼に、この気持ちを伝えるつもりはない。  それでも幸喜に打ち明けると決めたのは、この想いを抱えたまま、何食わぬ顔で夫婦でい続けることは不誠実に思えたからだ。  それならば、一度ちゃんと打ち明けたい。  その上で、今後どうするのか、幸喜に判断を委ねたい。  途中で何度かつっかえながらも、なんとかそう伝えた佳織に、夫は「そう」と目を伏せた。 「君が言いたいことはわかった。それなら僕の要望も言わせてもらうよ」  幸喜の唇が、やわらかくたわんだ。そのことに、なぜか佳織は、かえって不穏なものを覚えた。 「僕は、君と別れるつもりはない。君がいなければ、生きていけないからね」
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