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佳織は、半ば反射的にそのコピー用紙をひったくった。数週間前、地元の駅で繰り広げられた亨とのやりとりが、彼女の手のなかでぐしゃりと握りつぶされる。
「どうして、これを?」
「郵便受けに入っていたよ」
夫の返答は、ひどく淡々としていた。
「夕方、打ち合わせから帰ってきたら『真田様』って封筒が入っていてね。開けてみたら、中身がそれだった。住所は書いていなかったら、たぶん直接届けてくれたんじゃないかな」
そんなことはどうでもいい──いや、実際はまったく「どうでもよくない」ことなのだが、今の佳織にとってはさして重要なことではない。
(知られた)
夫に、知られてしまった。
ああ、喉がひどく乾いている。カラカラで、息をするのも痛いくらい。
それでも、最低限の誤解は解かなければいけない。
「聞いて幸喜、その写真は違うの。それは──」
「知ってるよ。この子が、君を待ち伏せしたんだよね」
佳織は、目をみひらいた。たしかに彼の言葉は耳に届いたはずなのに、脳がそれをうまく処理できていない。
「どういうこと? どうしてそのことを、幸喜が『知っている』の?」
「この目で見たからだよ。電車に乗ろうとした君の腕を、この子が引いたところを」
見た──その意味するところは?
それを、確かめるのは怖い。けれど、訊ねないわけにはいかない。
「どうして見ていたの? あの日、幸喜も──駅に用事があったってこと?」
薄々答えがわかっていながらも言葉を変えたのは、佳織なりの心遣いだ。
けれど、幸喜はそれを容易く踏みつけた。「君のあとをつけたんだよ」と、あっさり答えることによって。
「前の日の君の様子がおかしかったから、気になって後をつけたんだ。そうしたら、彼が君を待ち伏せしていたから」
「そう……だったんだ」
佳織は、視線を落とした。正直なところ、自宅に写真を送りつけられたこと以上に、今の幸喜の告白のほうがショックだった。
(疑われていた……)
前日の時点で、彼は佳織に何かあったことに気づいていた。
その上であとをつけて、亨との一幕を目にし、それでもなお今の今まで指摘することなく「これまでと変わらぬ夫」を演じていたのだ。
そのことに、おそらく自分は感謝するべきなのだろう。もちろん、そうした気持ちもある。けれど、それと同じくらいのうすら寒さが、佳織を覆いはじめている。
ただ、それを口にする権利が自分にあるのか。夫がそのような行動に出る原因を作ったのは、自分ではないのか。
迷い、次の言葉を発せずにいる佳織に、幸喜は「それで?」と訊ねてきた。
「君は『好きな人ができた』と僕に打ち明けて、いったいどうしたいの?」
夫の声は、普段どおり落ち着いている。けれど、その穏やかさこそが、今の佳織をよけいに不安にさせる。
たしかに、自分は古川亨に心惹かれている。けれど、生徒である彼に、この気持ちを伝えるつもりはない。
それでも幸喜に打ち明けると決めたのは、この想いを抱えたまま、何食わぬ顔で夫婦でい続けることは不誠実に思えたからだ。
それならば、一度ちゃんと打ち明けたい。
その上で、今後どうするのか、幸喜に判断を委ねたい。
途中で何度かつっかえながらも、なんとかそう伝えた佳織に、夫は「そう」と目を伏せた。
「君が言いたいことはわかった。それなら僕の要望も言わせてもらうよ」
幸喜の唇が、やわらかくたわんだ。そのことに、なぜか佳織は、かえって不穏なものを覚えた。
「僕は、君と別れるつもりはない。君がいなければ、生きていけないからね」
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