第1話

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 ようやく帰宅した佳織は、重い足取りのままリビングに顔を出した。 「ただいま」  おかえり、といつものように夫が振り向く。  めずらしいことに、ソファではなく床に直に座っている。その手には缶ビールではなく数葉の懐かしい写真があった。 「どうしたの、それ」 「ちょっと整理しようと思って。しばらく貯め込んでいたから」  おそらく、仕事が行き詰まっているのだろう。フリーのライターを生業としている(こう)()は、原稿が進まなくなると部屋の片付けをはじめようとする癖がある。 「あ、それ……」  彼が手にしていたのは、夕焼けに照らされた海辺の写真だ。 「覚えてる?」 「もちろん。忘れるわけないじゃない。幸喜がプロポーズしてくれた場所だもの」  佳織は、夫の隣に腰をおろすと下がり気味の肩に頭を寄せた。  ふたりが出会ったのは大学時代、同じサークルに所属していたことがきっかけだ。  彼の第一印象は、よくいえば「落ちついた人」。もっと率直にいえば「地味そうな人」。そのせいか、最初の2年間はほとんど口をきくことがなかった。  それが、3年生でお互いサークルの幹部になったことから少しずつ会話をするようになり、幸喜からの告白で交際がはじまった。  それから6年間の交際を経て結婚。特に迷いはなかった。ここまで長く付き合ったのだから、結婚するのが当たり前に思えたのだ。 「懐かしい」  佳織は、夫の手から写真を取りあげた。 「プロポーズするときの幸喜、すごく声が震えてた」 「そりゃ、一世一代の大勝負だったから」 「なにそれ、大げさすぎでしょ」  6年もあった交際期間のなかで、危機的状況が訪れたことなど一度もない。なのにプロポーズを断るなど、どう考えても有り得ないだろう。 (他に好きな人がいるなら、まだしも……) ──『なんで? 俺と出会えなかったから?』  耳奥に、少年の言葉がよみがえる。 ──『俺が生まれてくるのが遅かったせい?』 ──『だからサクラは結婚しちゃったの!?』  違う、あの子は関係ない。  あの子はおかしな勘違いをしているだけだし、百歩譲って先に亨と出会っていたとしても、夫となる相手は変わらない。 (変わる、はずがない……) 「佳織? どうかした?」  顔をのぞきこまれて、我に返る。 「なんでもない。ちょっと思い出に浸っていただけ」  寄りかかっていた身体を起こすと、佳織は素早く立ち上がった。 「ごはん、あっちで食べるね」 「ああ、ごめん。今、片付けて……」 「いいよ。それより整理するの任せてごめん」 「いや、好きでやっていることだから」  夫は、メガネの奥の目をやわらかく細める。いつもの、穏やかな微笑み。それなのに、なぜか別の熱が佳織の身体によみがえる。  二の腕、背中、強い力──まだ完成されていない骨張った腕の感触。  汗と混ざり合った、日だまりのにおい。
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