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ようやく帰宅した佳織は、重い足取りのままリビングに顔を出した。
「ただいま」
おかえり、といつものように夫が振り向く。
めずらしいことに、ソファではなく床に直に座っている。その手には缶ビールではなく数葉の懐かしい写真があった。
「どうしたの、それ」
「ちょっと整理しようと思って。しばらく貯め込んでいたから」
おそらく、仕事が行き詰まっているのだろう。フリーのライターを生業としている幸喜は、原稿が進まなくなると部屋の片付けをはじめようとする癖がある。
「あ、それ……」
彼が手にしていたのは、夕焼けに照らされた海辺の写真だ。
「覚えてる?」
「もちろん。忘れるわけないじゃない。幸喜がプロポーズしてくれた場所だもの」
佳織は、夫の隣に腰をおろすと下がり気味の肩に頭を寄せた。
ふたりが出会ったのは大学時代、同じサークルに所属していたことがきっかけだ。
彼の第一印象は、よくいえば「落ちついた人」。もっと率直にいえば「地味そうな人」。そのせいか、最初の2年間はほとんど口をきくことがなかった。
それが、3年生でお互いサークルの幹部になったことから少しずつ会話をするようになり、幸喜からの告白で交際がはじまった。
それから6年間の交際を経て結婚。特に迷いはなかった。ここまで長く付き合ったのだから、結婚するのが当たり前に思えたのだ。
「懐かしい」
佳織は、夫の手から写真を取りあげた。
「プロポーズするときの幸喜、すごく声が震えてた」
「そりゃ、一世一代の大勝負だったから」
「なにそれ、大げさすぎでしょ」
6年もあった交際期間のなかで、危機的状況が訪れたことなど一度もない。なのにプロポーズを断るなど、どう考えても有り得ないだろう。
(他に好きな人がいるなら、まだしも……)
──『なんで? 俺と出会えなかったから?』
耳奥に、少年の言葉がよみがえる。
──『俺が生まれてくるのが遅かったせい?』
──『だからサクラは結婚しちゃったの!?』
違う、あの子は関係ない。
あの子はおかしな勘違いをしているだけだし、百歩譲って先に亨と出会っていたとしても、夫となる相手は変わらない。
(変わる、はずがない……)
「佳織? どうかした?」
顔をのぞきこまれて、我に返る。
「なんでもない。ちょっと思い出に浸っていただけ」
寄りかかっていた身体を起こすと、佳織は素早く立ち上がった。
「ごはん、あっちで食べるね」
「ああ、ごめん。今、片付けて……」
「いいよ。それより整理するの任せてごめん」
「いや、好きでやっていることだから」
夫は、メガネの奥の目をやわらかく細める。いつもの、穏やかな微笑み。それなのに、なぜか別の熱が佳織の身体によみがえる。
二の腕、背中、強い力──まだ完成されていない骨張った腕の感触。
汗と混ざり合った、日だまりのにおい。
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