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「あ、すみません。」
「いや、こちらこそ…。」
え、嘘。嘘だろ、え、なんで。
隣の洗面所、ハンカチを口に咥え手を洗う店員を見ながら僕の思考は大騒ぎを起こしている。
神様、もしや僕の願いを叶えてくれたのでしょうか。
だって僕の隣の洗面所でハンカチを咥えている人は紛れもなく、ろく先輩なのだ。
そうっと怪しまれないように隣を窺う。ろく先輩はマスターのエプロンとは違い、白いシャツに白いエプロンをつけている。
無知な僕でもわかる、それはシェフがつけるものである。
ということはろく先輩はここで、シェフをしているのか。
なんだかとてつもない秘密を知ってしまった気がして、気が引けた。
僕の通う高校はバイト禁止なのだ。なのにろく先輩はここでバイトを。
「あの、何か?」
「え…。」
「いや、あのさっきから見ていられたので、何かありましたか?」
つい、見入っていたようだ。ろく先輩が僕に問いかける。
どうしよう、なんて言えばいい。なんでもありませんと言うべきか、はたまたろく先輩ですよねとはっきり言うべきだろうか。
思いかけてふと気が付いた。僕はろく先輩のことを知っているがろく先輩は僕のことを知らないのだ。
ならば答えは決まっている。ろく先輩の心配を増やすわけにはいかない。
「い、いえ、なんでもありま、せん。」
声が裏返らなかっただろうか。なんだか気持ち悪い言い方になった気がする。
けれど言えた、言い切れたと安心していると、ろく先輩は「そうですか。」とやや不思議そうに返答してくれた。
優しく扉を開けて去っていくのを見送り僕はそのまま、洗面所にへなへなとしなだれかかる。
なんだったんだ、今のは。夢か、夢なのか。
夢だとすればいっそのこと目覚めたくない、目覚めさせないでくれ。
頬をつねる、けれど痛かった。ということは、現実か。
「嘘、だろ…。」
ああ、神様。僕はもう一生分の運を使ってしまったのでしょうか。
ふわふわとした足取りで席に戻ると丁度最後のデザートと紅茶が運ばれてくるところだった。
「郁、どんだけトイレに時間かけてるの。デザート来ちゃったよ?」
「あ、ああ、ごめん。ちょっと。」
姉ちゃんがまた過保護っぷりを発揮して声を掛けてくれたが、もう放っておいてくれとは思わない。
ただただ、目の前のチーズケーキをろく先輩が作ったのか、それだけがとても気になっていた。
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