第1章 サディスティック

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第1章 サディスティック

 とある夏の暑い夜のこと...... 「麗羅(れいら)様......大丈夫でしょうか? やはり今日のところは、適当な理由をつけて参加をご辞退された方が宜しいのでは......」  鎮痛な表情を浮かべ、そのように語った黒スーツ男は、刃すらも弾く鋼のような身体を持ち合わせていた。寛骨粒々、黒スーツと言えば、凡そボディガードと相場は決まっている。目つきの鋭さを見てもそれは明らかだった。 「大丈夫......私は忌みじくも加賀武雄(かがたけお)の妻。主人が病の床に伏している以上、その妻たる私が代役を果たさずして、誰が加賀の面目を保ち得ましょうか。安心してそこで待っていなさい。あなたが危惧しているような事には決してなりませんから」  純日本の象徴たる和服を完璧なまでに着こなした加賀麗羅(かがれいら)は、今発した勇敢なる言葉とは裏腹に、悲壮感漂う表情を浮かべていた。これから自分の身に降り掛かる災いが、如何に卑劣で残酷なものなのか......それを知らぬ麗羅でも無かろう。  人生の石段を40ほど上り詰めたその年齢とは言え、全身から放たれる怪しきフェロモンは、未だ衰えるところを見せない。真冬に桜を開花させ、真夏に池を凍らせるだけの美貌を持ち合わせたその者は、愛しくもあり、憎くもあり......  財産、権力と言う名の泉で、優雅に泳ぎ続ける悪しき政治家の煩悩は、そんな麗羅の透き通る肌にロックオンしていた事は間違い無い。  日本庭園に囲まれた料亭の駐車場に、7台の卑しきリムジンが整然と停められている。それは日本国政界を自由に操る『華政会(かせいかい)』重臣の7人が、紅一点たる人妻、麗羅の到着を今か今かと待ち構えている事の証とも言えた。 『華政会』......それは与党『民自党』を牛耳る左派的思想を持った権力集団。財界からの圧倒的支持を武器に、ここ数十年威風を放ち続けていた訳である。長く政治家を続けたければ、まずは『華政会』にご挨拶......いつしかそのような風潮が、民自党内に蔓延していた事も事実だった。  そんな『華政会』が不定期に行う『唄の会』には、常に中心人物の8人が顔を揃える。『唄の会』......それは名ばかりであって、実際は何か不祥事が起きた際、その顛末を行う魔女狩りの場として長きの歴史を継承していた。  本日、これから開催される『唄の会』の主役は他でも無い。『華政会』の運用資金を個人流用していた麗羅の夫......その者だったのである。  そんな憂うべき状況下に置かれているにも関わらず、危機感無き言葉を述べる麗羅に対し、従者は遂に垣根を越えた発言を繰り出してしまう。 「麗羅様......ご主人様の病は仮病に他なりません。それはあなた様もお分かりの筈です。それと麗羅様は、お酒を全く受け付けないご体質、それだけでも私は不安でなりません。それと、非常に申し上げ難いのですが......加賀様が起こした今回の不祥事。それを手打ちにするが為の『返礼品』があなた様、そんな噂も聞き及んでいます。そこまでして加賀様に尽くす価値が一体どこに......」  従者が止まらなくなった口を、更に横へひん曲げようとしたその時だった。 サッ!  突然麗羅は、驚く程に白くそして細長い人差し指を、未だ震えが止まらぬ従者の口に当てる。そして一言、 「ありがとう」  それだけだった。  その時、従者の目に映った麗羅の顔は美しく、そしてガラス細工のように透き通っていた。薄っすらと、エクボすら浮かべたその微笑みは、一体何の意味があったのだろうか......最後の晩餐に酔いしれているのか? 十字架を背負う罪人に、自身の姿を当てはめたのか? それとも、これから火破りの刑に処される魔女が自分である事に、今更のように気付いたのか? それは、本人に聞いてみなければ分からないことだ。  やがて麗羅は従者に背を向けると、野獣が待ち受ける修羅の場へと向かって一歩、そしてまた一歩......貪欲色に染まったレッドカーペットの上をゆっくりと歩み進んで行く。ザッ、ザッ、ザッ......静寂仕切ったその空間に、麗羅の草履が奏でるワルツが鳴り響いていく。 「麗羅様! あなた様には私が付いております。何かあれば、直ぐに声を張り上げて下さい! 刺し違えてでも、必ずやあなた様をお守り申し上げます。約束ですぞ!」  霞に包まれて行く夫人の背中に、そんな言葉を投げ掛けたところで、心の霞が晴れる訳も無かった。麗羅の人差し指が僅かに触れた唇は、今更のように熱を帯び始め、まるで焼印を押されたかのような感触に囚われていく。恐らくその熱は、万年を費やしたところで、決して冷める事は無いのだろう。その者を未だ想い続けるが故に。  ザッ、ザッ、ザッ......やがて麗羅の背中は、7人の野獣が待ち受ける料亭の中へと、吸い込まれていったのである。
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