第2章 マリモ

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第2章 マリモ

  ※ ※ ※  20年前に起きたそんな加賀麗羅死亡事件の事など、すっかり忘れ去られた、とある夏の暑い日のこと。それは全世界を震撼させた『極神島事件』のちょうど2年前に遡る。  ゴゴゴゴゴ......真っ赤な夕日を正面に望みながら、一隻の小さな漁船は、広大な東シナ海を西へ西へと向かって優雅な航行を続けていた。天気は快晴、海は穏やか。それは正にMAXなる航海日和だったと言えよう。  とは言え船内はと言うと、ザブ~ン......船首が波に当たる度、真っ白な漁船は揺りかごの如く船体を上下に揺らし、それはデッキでうずくまる年若き女性の顔に青白い塗料を流し込んでいったのでした。 「ううう、気持ち悪い。もう吐きそう......」  質素なOLスーツで身を固めたその女性は、あまり揺りかごに慣れていないらしい。見ていて気の毒になる。  一方、そんな船酔い女性の事など気にする素振りも見せずに、淡々と舵を握り続ける加山雄三張りの船長は、大層なご機嫌だ。 「草津よいと~こ~一度わぁあおいでぇ~っと」  セーラー帽を被り、パイプを咥えたその者は、先程からずっと同じ鼻歌を披露し続けている。 「船長さん......一つ聞いていい?」  女性は、込み上げて来る胃液を必死に抑えながら、堪らず問い掛ける。 「なんじゃ東京もん?」 「なぜ五島列島で湯もみしてんの?」  まだそんな突っ込みを入れるだけの気力は残っているようだ。顔を船から出して、いつでも吐ける態勢を維持したまま、そんな質問を投げ掛けてみる。  波に揺れる海面に映った女性の顔は、22才とは思えぬ程のあどけなさが存分に残っていた。元々整った顔立ち、ライトブラウンのショートヘアー......そんなルックスが、年齢よりも彼女をちょっとばかり若く見せているのかも知れない。 「おお、いい質問だ......実は去年死んじまった母ちゃんと最後に行った旅行が草津でな。この唄歌ってると、母ちゃんが海の底から現れて、顔を引っ張ってくれるんだわ」 「ゲッ!」  慌てて顔を引っ込めるOLスーツ女性。8月中旬......お盆とも言えるこの時期に、その話はちと信憑性が高い。冗談にしては毒が有り過ぎる。 「ハッ、ハッ、ハッ......冗談じゃよ。まぁ、最後に母ちゃんと草津行ったのは本当だがのう......」  夕日を見詰めながら、黄昏る船長だった。きっと亡くなった奥さんの事を思い出したのだろう。そんな船長には夕日がよく似合う。ザブ~ン、ザブ~ン......  夕刻3時過ぎに五島列島最南端『福江島』から発したこの小さな漁船は、地元では秘境の島と呼ばれる『護摩島(ごまじま)』へと向かって、尚ものんびりのんびりと旅を続けていた。  長崎県五島市『福江島』から更に30キロ西。そんな辺鄙な地に位置するこの『護摩島』は、東西が扇状に広がったその形状より、通称『ひょうたん島』と呼ばれていた。むしろ地元では、後者の呼名の方が慣れ親しまれている感がある。  そんな島へと向かって約10ノットで進むこの漁船。港を出てからかれこれ1時間半が経過している。事前の情報では、目的地たる『ひょうたん島』まで2時間は掛からないらしい。先程から西日が逆光となり、真っ黒に見えるその島が、きっとそれなのであろう。 「俺は梶本金次郎(かじもときんじろう)ってもんだ。お嬢ちゃんは?」  死んだ妻の話を出して重くなってしまった空気を敏感に感じ取ったのかも知れない。突然話題を変える金次郎だった。 「あたしは、津田麻里茂(つだマリモ)。ヤンキー上がりだよ。夜・呂・死・苦(よろしく)ね!」  因みに金次郎は名前を聞いただけ。別にヤンキー上がりかどうかなど聞いてはない。 「マリモちゃんか......面白い名前だな。そんでマリモちゃんは、東京からわざわざ何しにこんな辺鄙な島へ行くんだ?」    こちらの地方では、学校の授業で『ヤンキー』を教えてくれないらしい。軽く流されてしまった。  一方、何しに行くんだ?......その事に関して金次郎が不思議に思うのも当たり前。『ひょうたん島』には、これと言って何が有ると言う訳でも無かった。島民は30人程度。有る物と言えば、古くから残る修道院、既に廃校となった高校校舎、小さな港、深い森......凡そそんな程度。東京からわざわざ足を運ぶだけの仕事となるような要素は皆無と言えた。 「あたし、高校卒業してからずっとプラプラしてて......フリーターなんです。今回も友人の紹介で短期のバイトでやって来ました。このOLスーツは正直、あまり意味が有りません。こう言う時じゃないと着る機会も無いんで」  マリモは、自身の着慣れないスーツ姿を見下ろしながら、恥じらいの表情を浮かべている。その表情はまるで、初めて制服に袖を通した中学生乙女のようにも見えたりする。  夕日に映し出されたそんなマリモの姿を、金次郎は眩しそうな眼差しで見詰めていた。もしかしたら、同じ年頃の孫でも居るのかも知れない。 「人もろくに住んでないあんな島で、一体何の仕事があるんじゃ? まさか危ない仕事とかじゃ無いんだろ?」 「なんか『華政会』って言ってたかな? 有名な政治団体らしくて、将来を約束されたそこの御曹司達が、明日からここで9日間の研修を行うんだって。毎年の恒例行事らしいよ。  あたしは今回、そこの職員として雇われたの。今日を入れてもたったの10日間だし......別に危なくはないよ。でも本当に来て良かった。景色は綺麗だし、海風も気持ちいい......なんだか、いつの間に船酔いも治って来ちゃった」  マリモは、海風になびく前髪を手で押さえながら、目を瞑り、大自然の恵みに感謝した。 「そっかぁ、なら頑張る事だな。東京と違ってのんびりした島じゃから。仕事とは言っても、 結構ゆっくり出来るんじゃないか。まぁ、楽しんで来るがいいよ」  ゴゴゴゴゴ......そんな長閑な会話を嗜んでいるうちにも、 やがて目の前には、『ひょうたん島』が大きく現れてくる。
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