想い託して

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「ヴォクシス様、どうか母上様とお呼びしては頂けませんか?」  無理は承知だった。  それでも侍女は懇願した。  恨まれていることも解っていた。  それでも主がずっと、そう呼ばれることを願っていたことを―――、夢にさえ見ていたことを知っていた。 「…ヴォク…シスっ…ごめんなさい…っ…、ごめんね…っ…」  虚ろに成り行く意識の中、それでも今一分、今一秒だけでもと息子を見つめる。  あの冬の日、出来ることなら産まれたばかりの彼を手放したくなんてなかった。  ずっと側でその成長を見つめていたかった。  求められるがまま、存分に抱き締めてやりたかった。  初めて笑う姿を見たかった。  初めてのご飯を食べさせてあげたかった。  初めて歩き出す瞬間も見たかった。  その手を取って、一緒に歩きたかった。  転んでもすぐに手を差し伸べられるように見守りたかった。  最初のお喋り、最初の悩み―――、沢山の初めてを一緒に喜びたかった。  一緒に考えたかった。  時に慰めたかった。  時に叱って教えたかった。  くだらないことで良いから、時には喧嘩してみたかった。  唯、一緒に居られるだけで良かった。  声を聞けるだけで、元気なその姿を見られるだけで―――…。  母と息子の当たり前を――、刹那で良いから、そんな叶わなかった日々を取り戻せたなら―――…。  「…っ……」  もう声が出せない。  何度でも呼びたかった、その名が呼べない。  もうその姿も霞んで見えない。 「…母上……」  その声が聞こえて来た瞬間、セリカ皇女は閉じ掛けた瞼を見開いた。  そして大粒の涙が溢れた。  その一言で、何もかもが十分だった。  ―――ありがとう。  それが最期の言葉だった。
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