心の扉

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「詩織さんはスイーツも好きでしたよね。そばの粉のクレープもおいしいと評判ですが、どうしますか?」 「クレープ……食べたいです」  緊張がほぐれたせいか、空腹を感じるようになった。スイーツという言葉に思わず反応してしまう。 (普通に食べられる料理でよかった)  オーダーを聞き取ったスタッフが厨房へと消え、詩織は胸をなで下ろした。 「初めて連れてこられたのは十一歳の秋でした。今でもそばを食べるとそのときのことを思い出します」  穏やかな笑顔だ。彼が祖父との思い出を語るときはいつもそうだ。 たぶん、自分は彼のように笑えていない。  内に秘めた苦痛は、周囲にも伝わると彼は言っていた。知られたくなかった苦しみを、まわりのみんなは本当に気づいていたのだろうか。伯父たちがしきりに故郷へ戻るように勧める理由もそこにあったのでは……少しだけ視野が広がった。 (わたしは全然ダメだ)  自分だけが悲嘆に暮れて、周囲と壁を作っていた。  彼は、いつでもその壁を壊す用意があるのだ。だが詩織の気持ちを優先してそばにいてくれる。  少しして運ばれてきたそばに詩織は舌鼓を打った。 「おいしい……えっ、今までのそばとちがう!」 「そうなんですよ。市販のそばとは全然ちがうんです。お店のものともちがうし、これなら何枚でも食べられるんです」  そばだから喉越しがいいのは基本だが、とくに香りがよかった。  天ぷらは衣に無駄がない。最小限の厚さなのに食感はサクッとしている。具材は夏野菜やきのこ。詩織の好きな食材ばかりだった。 「詩織さんは、本当においしそうに食べますよね」 「あ、当たり前です。ブスっとした顔で食べていたらせっかくのごはんもマズくなるじゃないですか」  まずいものをおいしいとも偽るわけにはいかない。  詩織はすねているのに、彼は逆にご機嫌だ。 「わたしが怒っているのが面白いですか?」  佳人は詩織の指摘を受けて、彼は笑いをかみ殺した。 「面白がっているわけじゃないですよ。このホテルでも詩織さんとの思い出が更新されたなーと思ったんです♪」  彼は食事中でも鼻歌を歌い出しそうだ。  たしかに彼がいなければ、自ら軽井沢へ戻ってくることはなかった。両親との思い出が重すぎて、それに勝るものがなかったからだ。  だが、今はそれを巡って心をさらけ出せという佳人の言葉に振りまわされている。 「これでも僕たちの婚前旅行ですからね。素敵な思い出を作っておきたいじゃないですか」 「こ、婚前……っ」  文字どおり結婚していないのだから表現としては間違ってはいない。異性と旅行なんて経験のなかった詩織は、その響きだけで赤面ものだ。気恥ずかしくてそばをすすっていたら、あっという間に食べ終わってしまった。
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