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決断のとき
東京に帰ってきた翌朝から、佳人は軽快なフットワークで仕事へと出かけていった。軽井沢旅行の最中でさえ肌を重ねていたのに、彼は疲れをまったく感じさせない。
詩織はといえば、軽井沢旅行に出発する以前と変わらない日々を繰り返している。
しかし、変化の兆しは表れ始めていた。
「えっ……どういうこと?」
洗濯物を干し終えた詩織は、リビングで声を上げた。着信の入ったばかりのスマホを手に立ち尽くす。
『詩織、婚約おめでとう!』
SNSで自分宛のメッセージを見た詩織は目を疑った。
送信者は、軽井沢に住む高校時代の友人(同性の友達)からだった。レスをたどると、軽井沢滞在の最終日、友人は勤務先で有名企業の社長にエスコートされる詩織の姿を目撃したというのだ。
場所は、遅いランチにそばを食べた例のホテル。友人は地元の大学を卒業後にあのホテルに就職していたのだ。大学在学中に地元のリゾート・宿泊施設に就職の内定が決まったとは聞いていたが、まさかあのホテルだったとは。
当然、有名企業の社長とは佳人を指している。彼が支配人たちに詩織をパートナーと言っていたのがスタッフたちの間で広まったらしい。だが婚約というのは飛躍している。
詩織が「正式に婚約したわけじゃないの」と返信したところ、友人からすぐに次のメッセージが届いた。
『会計のときに彼氏さんが詩織を婚約者だって言っていたから、みんな疑ってもいないよ』と。
「いつの間に……」
彼と一緒にいたのに、そんな場面に居合わせた覚えがない。
「きっと化粧室に行っていた間だ」
食後に詩織が化粧室でメイクを直して戻ってみると、佳人はすでに支払いを済ませていた。ホテルの人間と話していたとすればその時間くらいだ。
彼の発言は、大きな波紋を招いていた。地元の友人たちからのお祝いムードたっぷりのメッセージに詩織は頭を抱えた。
佳人がレストランに予約を入れた直後から、ホテル内は上を下への大騒ぎだったとう。祖父の代から贔屓にしてくれた淀川家への対応は、ホテル全体に緊張を強いていたようだ。入口で支配人らが迎えに出てきたほどの待遇を考えるとうなずける。
軽井沢の友人たちの間では、詩織が玉の輿に乗ったという話で持ち切りだったという。そこで直接お祝いを言っていなかった友人からのメッセージが届いたわけだ。
「これじゃ地元に帰れないよ……」
友人でなくとも、婚約の噂を聞いているものはお祝いの言葉をかけてくるだろうし、馴れ初めや夫婦事情を聞きたがる者も出てくるに違いない。
ぴこん、と友人からさらに追加のメッセージが届いた。
『勤務中で声をかけられなかったけど、詩織が幸せそうでよかった! 素敵な彼氏さんと末永くお幸せに!』
幸せそう――友人から見た自分は、そんな風に見えていたのか。高級なレストランに怖気づいていたが、佳人がそばを注文したときから一気に緊張が解れた。
「幸せ……」
幸せになりたい。
土産物をぶら下げて手をつないだあの時間は、本当に楽しかった。佳人が一緒で本当によかったと心からそう思ったのに。
今ある幸せはいつか逃げていく……だが、逃げているのは自分のほうかもしれない。
スマホを両手で包み込み、詩織はうつむく。
「このままじゃ、幸せになんてなれない」
そう思ったとたん、いてもたってもいられなくなった。
スマホをカバンに詰め込むと、詩織はマンションを飛び出した。
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