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「これからは法律の知識も必要です。詩織さんにはまだピンとこないかもしれませんが、法律も、人の良心も逆手にとられる場合があります。悪用されるんです。会長はその駆け引きに長けた人だと言っておきます」
「本当に若宮会長が怖いんですね」
「ちがいます」
佳人が詩織の頬に手を添えた。その感触を確かめるようにそっとなでる。
「でも、さっき怖いって……」
「怖いのは詩織さんが僕のまえからいなくなってしまうことです。どれだけ心配したと思っているんですか……!」
彼は詩織を抱き寄せた。切羽詰まった彼の声に、詩織は罪悪感を覚えた。
「ごめんなさい。佳人さんが助けに来てくれて、うれしかったです。本当に……本当にうれしかったんです」
詩織は彼を抱きしめ返した。少しばかり早く脈打つ彼の鼓動が心地よかった。
優しいぬくもりに浸っていると、時間の感覚が麻痺してしまいそうだ。彼に促されてリビングに移動するまで夢見心地だった。
「それでは話してもらえますか?」
「えっ、何を?」
ソファーに座った佳人はネクタイを外し、襟元を緩めた。
「今日、マンションを飛び出した理由です。あなたの警護をしていた社員からも報告を受けています。マンションを出たその足で区役所に向かったとか」
「それは……!」
それこそが、今から詩織が話そうと思った内容だ。だが、うまく言葉にまとまらない。
「事情を話すと長くなりますけど」
「話を聞く時間はたっぷりありますよ」
これはもう「話せ」と言っているのと同じだ。
仕方なく詩織は、昼間友人から電話を受けた件を話した。地元軽井沢では、詩織は婚約し見事玉の輿に乗ったと噂されていることも含めて。
「友達から見たらわたしたちは幸せそうだって言われたんです。実際、佳人さんと一緒にいると楽しいし、安心できます」
「うん?」
相槌の語尾があがった。まだ詩織の意図を酌めていないのだろう。
「わかったんです。客観的に見たわたしは十分幸せなんだって。それを失うのが怖くて、まえに進めなくて……だから父親の言葉に従うことにしました」
「それは、『自分がなりたい自分に近づく努力』ですか?」
詩織は小さくうなずいた。
「佳人さんの気持ちが大きすぎて、わたしはずっと自信が持てませんでした」
「それは、僕の気持ちが重いってことですか?」
「違います。わたしが佳人さんの気持ちに応える勇気がなかっただけです。これ以上幸せになったら失うリスクのほうが大きくて……怖かったんです」
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