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心の扉
時間で言えば十五分程度。緑が生い茂る山間の道には住宅が点在した。
(まさか)
とにかく木々が多いのだが、詩織は車窓から見る景色に目的地がどこなのかを悟った。
よく知っている場所だ。
忘れたくても、忘れられない地。
「着きましたよ」
車が止まったのは、「立ち入り禁止」と看板が立てられた更地だった。先の車を降りた佳人が詩織を促す。
目のまえの更地は、かつて父が経営していたカフェ『きこりの住処』が建っていた所だ。早々に土地の買い手がついて店舗は跡かたなく壊された。
それを目にするのも嫌で、詩織はこれまで一度も立ち寄らなかった。
見るのがつらかった。
「詩織さん?」
佳人の言葉を無視できず、仕方なく車から降りた。
「店舗はすでに壊されてしまいましたが、不動産屋の話では、それ以外はほとんど手が入っていないそうです」
まるでついさっき不動産屋から聞いてきような口ぶりだ。
「この土地についても調べたんですか?」
「結論から言うと、今この土地は僕のものなんです」
「ええぇっ?」
詩織は素っ頓狂な声をあげた。なぜこの土地が彼の手に渡ったのか……土地を買った人間の名は、淀川ではなかったはずだ。
「たしか、この土地を買ったのはお父さんみたいにお店をやりたいって人だったはずです!」
不動産屋から伯父、そして詩織は伯父からその話を聞いて土地の売買に承諾したのだ。思い出の土地が駐車場やコインランドリーに変わるよりはましだと思った。
「詩織さんも聞いたとは思いますが、最初にこの土地を購入したのは、とある食品会社の社長です。『きこりの住処』のようなカフェを経営するつもりだったようですね」
佳人が詩織の知らない経緯を話してくれた。
「ところが、業績不振で店を建てるまえに土地を手放す羽目になったんです」
そこで再びもとの不動産屋に仲介を依頼したそうだ。
「調査会社経由で『きこりの住処』の跡地が再び売りに出されていると知って僕が買いました」
「どうしてそこまで……」
「勘違いしないでください」
珍しく佳人が詩織の言葉を遮った。
「あなたのためだけじゃありません。この土地は……『きこりの住処』は、僕の人生を変えてくれた場所でもあるんです。他人に奪われるのは避けたかったんです」
彼は詩織の父親を恩人と呼んだ。店の休憩室に泊めてもらったおかげで自分の進むべき道を定めたと言っていた。いわばターニングポイントだ。だが、まさか店の跡地まで購入するほど思い入れがあるとは……。
「どうしてわたしをここへ連れてきたんですか?」
「詩織さんが、軽井沢での思い出から逃げている気がしたからです」
詩織は佳人の顔を正面から見た。図星だ。
佳人はその視線を真正面から受け止めた。
「僕は、人は生きるためなら思い出に縋ってもいいと思っています。それが生きる活力になるからです。糧と言ってもいいでしょう。ですが、詩織さんはその逆です」
詩織は息をのんだ。今でも自ら進んで家族の話題を持ち出すことはない。
「きっと幸せだったころの話をすると、今の厳しい現実を思い知らされるのがつらいのでしょう。でも、内に秘めた苦しみは、人に伝わってしまうものなんです。苦痛の正体はわからなくても、何かを抱えているのだとわかるものですよ」
最初から、詩織が過去と現実の狭間でもがいていると知っていたというのか。
「仕方ないじゃないですか……そうしなければ、生きていられなかった」
詩織は唇をかんだ。両親を亡くしてまだ二年しか経っていない。思い出を懐かしむには傷口が新しすぎる。
それでも、詩織は現実と向き合ってきたのだ。家族のいない世界で生きていかなければならない事実をまえにして。
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