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解ったんだろ。
何とも思っていなかった人を、
ささいなきっかけで意識し始めると。
それまでの相手とのやり取りを思い出し、
随分無防備に気持ちをさらけ出していた
ことに驚愕する。
再び同じように接しようと努力してみた
ところで、一度意識してしまえばそれは
難しく、どんどん相手との心理的距離は
離れて行き。
相手に対しどう接したらいいのか
悩むばかりで、思いは募る一方。
恋をする楽しさなんて感じられるはずもなく、
やがて抱えられなくなった挙句、
相手を心の中で罵り、軽蔑し、
所詮縁が無かったのだと無我夢中で諦める
ことを繰り返す。
川瀬由貴との関係も、
似たようなものだと思っている。
コンビを組んだその瞬間に、
それまで仲のいい友達であったことを忘れ、
ずっとわざとよそを向こうとしていたのだから。
あの日も、こんな雨の日だった。
珍しくオフの日に、彼からLINEが届いた。
『今から出てこられるか?』
シンプルな文面を不審に思い、
新宿の書店で本を物色し始めたところ
だったが、早々に会計を済ませて、
LINEではなく電話をかけた。
「はい」
予想以上に感情の揺れが感じられない
彼の声を聞いて、途端にぎこちなくなった。
「あ。僕だけど・・・どうした?
休みの日に連絡してくるなんて」
「たまには、な。で、今どこにいる」
「新宿、だけど」
「俺も」
「そうなの?偶然」
平然を装っていたが、彼の様子に
違和感を抱いた。
極度の緊張が、自分の声から
にじみ始めていた。
「どこで、待ち合わせする?」
新宿のどの辺りにいる?とストレートに
訊く事ができず、返事を待つと。
「そうだな。とりあえず、俺んちに来て
欲しいから、東口かな」
「俺んち?」
彼とコンビを組んで3年経つが、
自宅に来いと言われたのはこれが初めてだった。
戸惑いの余り二の句を告げない僕に、
電話の向こうで少しいらだった彼の声が響いた。
「誰にも聞かれたくないんだ」
「わ、わかった・・・東口に着いたら、
電話する」
慌ててそう返事したのと同時に、
一方的に電話は切れた。
「・・・何」
如何ともしがたい思いを抱きながら、
フロアを早足で歩き始める。
エレベーターを降り、
店の出入口の前まで来ると、
外はすっかり土砂降りの雨で。
本を包む紙袋を濡れないように
身体と上着の間に挟みこみ、
目の前の信号が青になるのを待った。
これから彼に何を言われるのか。
そんな不安からなのか、唇が震えている。
青になったのを確認してから、
数十メートル先の目的地を目指して走った。
視界を遮る雨の矢と格闘しながら、
やっとの思いで駅ビルの軒下に潜り込むと
声をかけられた。
「こっちだ」
はっと顔を上げると、
帽子を目深に被った彼と一瞬だけ目が合った。
「あ」
彼の名を呼びかけたのもつかの間、
彼はそのまま背中を向けて僕から離れて行く。
いったい何があると言うんだ?
そう訊けないまま、
元来た道を傘もささずに歩く彼を追いかけた。
再び雨の中に飛び込み、
すっかり濡れねずみになった僕に、
彼は目もくれずタクシー乗り場へ向かう。
「すみません。雨で濡れてますが、
乗せてください」
礼儀正しく運転手にそう頭を下げ、
タクシーに乗り込んだ彼の後に続いて
シートに滑り込んだ僕は、
彼が自宅のある街の名前をはっきり言うのを
聞いてから、口を開いた。
「なあ」
「ん」
「何で、突然」
呼び出したんだと言いたかったのに、
彼の鋭い視線に射すくめられて沈黙する。
「着いてからでいいか」
それっきり、彼の自宅マンションに着くまで、
鬱蒼とした空気を取り払うことができないまま、
タクシーの後部座席で小さくなるしかなかった。
新宿駅東口から、車で15分。
こんなことがなければ、
きっと来る事がなかったであろうその場所を、
雨を避けながら見つめている。
休みの日、街を散策したついでに
彼の住処を探した事があったが、
僕が想像していたものとは大きく違っていた。
「エレベーターはないんだ。・・・こっち」
派手好みの彼らしく、
きらびやかな高層マンションかと思いきや、
エントランスこそオートロックだが、
低層のシンプルな作りのマンション。
僕の方がよっぽど「それっぽい」所に
住んでいると思った。
規模としてはたぶん10戸に満たないだろう、
細長い絨毯敷きの廊下を通った先。
3階の角部屋が、彼の部屋だった。
「どうぞ」
開け放たれた黒い玄関ドアの向こう側には、
廊下と独り住まいにしてはかなりの広さの
リビングが見えた。
一歩中に入るとキレイ好きな彼らしく、
玄関からして余計な物が一切置かれていない。
「お邪魔します」
おずおずと靴を脱ぎ、
濡れている靴下のままで上がっていいのか
迷っていたら、背後から彼の言葉が降って来た。
「靴下、脱いだら」
「う、うん」
何気ない一言だというのに敏感に反応して
しまった僕は、彼に言われるままその場で
靴下を脱いだ。
その間に彼は僕の横をすり抜けて、
洗面所らしき場所へ消える。
しばらくして水音が聴こえたかと思うと、
堅く絞ったタオルを持って彼が戻って来た。
「これ。使って」
「あ、ありがと・・・」
座りこみ、お湯で濡らしたタオルの心地よさを
感じながら丁寧に足を拭いた僕は、
傍らで同じように座りこんで足を拭いている
彼に改めて目をやった。
彼は僕が見ていることに気づかず、
すねまで拭く事に集中している。
本当にキレイ好きだなあと感心しながら、
膝立ちの姿勢で彼に近づいた。
「これ、返すよ」
「うん。ちょうだい」
タオルを渡す僕の指が、
タオルを受け取る彼の指に触れる。
その瞬間、彼は僕の差し出したタオルを
あっけなく落とした。
「え」
いつもの自信満々の笑顔は消え、
遠くを見るようなそして少しだけ惚けたような
彼の表情が、全てを物語っていた。
僕は取り繕うことなく無防備に
僕を見つめる彼から目を離す事ができずに、
固まった。
「川瀬・・・?」
何故、そんな表情で僕を見るんだと訊くのは、
野暮というものなのか。
しかしそれを口にしなければ、
僕は錯覚してしまうと思った。
彼が僕を思っているだなんて、
信じてはいけない。
僕が彼を思っているのと同じように。
「どうして、そ」
言いかけた言葉は、
彼の荒々しいまでの抱擁でかき消された。
「解ったんだろ」
耳元でそう囁かれ、
僕は言葉を失ったままうなずいた。
玄関先で男が2人抱き合っているなんて、
傍から見れば滑稽な図かも知れないと
思ったのは、一瞬だけ。
それからは彼に突然嵐のように
奪い去られた自分の身体の熱さだけしか、
感じることができなかった。
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