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不穏な展開
2人の間に阻むものは何もないと
信じていた。
誰にも言えない恋だったけど、
2人が望む関係ならそれでいいとさえ
思っていた。
だから突然起こった予測しようもない
出来事の前に、
ただ流れに飲まれてしまうのを待つしか
なかった。
もし時間が巻き戻ったとして、
僕はその時こそ彼の手を離さずに
いられるのだろうか。
スタジオでの収録が終わり、
控室で帰り支度をしていた僕に、
彼は声をかけてきた。
「葵、あのさ」
「うん?」
彼に背を向けて椅子に座っていたが、
鞄の整理をする手を止め振り返る。
「今夜は、この後ちょっと用事があるんだ。
・・・だから、家には行けない」
「そうなんだ。わかった」
彼の言葉に何の疑問を抱かず
笑顔で返事をしたが、
彼は僕に笑いかける事もなく、
鞄を持ってドアに向かって歩き始める。
「由貴?どうした?」
彼の腕を取り、顔を覗き込んだ。
その表情は、曇ったままだ。
明らかな違和感を抱き、
腕を掴む力を強めた僕に、
彼はわずかに首を振る。
「ごめん、行かないと」
「・・・どこに行くの」
「言いたくない」
「もしかして、昨夜の僕がピンで
出た番組、観た?」
「観た」
もういいでしょとばかりに、
腕を振り払おうとする彼をそっと引き寄せた。
「嫉妬したの?」
「知らない」
僕の胸の中にすんなり収まっても、
彼は唇を尖らせ横を向いている。
「あれは、ああいう演出だよ」
「解ってるよ」
「じゃあ、何で」
言葉はそこで、不意に切れた。
それまでそっぽを向いていた彼が
振り向いたかと思うと、
僕の唇にキスを落としてきたから。
数秒後、切なさを僕に残したまま、
彼は僕から離れた。
そしてうっすら頬に赤みを浮かべ、
ちらりと視線をこちらに投げて、
こう言い放った。
「それが、恋してるって事でしょ」
「・・・っ」
思わず口元を押さえて、
心の動揺を閉じ込めた。
そんなストレートな愛情表現、反則だ。
言葉を失ったまま立ち尽くす僕に、
彼は完全に背を向けたまま言葉を続ける。
「葵。俺はね、そういう男だから。
受け止めるのしんどいかも知れない。
覚悟しておいた方がいいよ。
長い間伝えられなかったから、
コントロールが利かないんだ」
ひとつ咳払いをしてから、彼は沈黙した。
きっと、それ以上紡ぐべき言葉はないと
感じたのだろう。
僕はそっと、僕の反応を待っているで
あろう彼の背中を抱きしめ、囁いた。
「・・・そんな覚悟なら、喜んでするよ」
返事の代わりなのか、
彼の胸の辺りで重なっていた自分の腕に、
彼の手が重なる。
僕は彼の短く切り揃えられた襟足に
顔を埋め、目を閉じた。
この時間が、永遠に続けばいいのに。
彼がいて僕がいる、たったそれだけで
すべて完結してしまうそんな時間が。
それは心を許せる人が日々減っていく
ことに強烈に虚しさを感じる僕の、
ささやかでありながら唯一の願いに
なっていた。
本当に用事があった彼と控室で別れた僕は、
寂しさを持て余しながらタクシーに
乗り込んだ。
ここ数年、タクシーでの移動は
格段に多くなり、こうしてひとりで
何をする訳でもない時間は、
ひたすら目を瞑るだけと決めていた。
眠る時間が欲しい、
そんな風に自覚していた訳ではなかったが、
心身ともに疲れは感じていた。
それが突然彼と思いが通じ合って、
少しだけこの忙しさが心地よくなった。
僕と同じように慌ただしく過ごす、
相棒であり恋人である彼を思えば、
頑張れる。
これからも一緒に、
公私ともに歩んでいける事を
心から信じようと思った。
不意にポケットに入れていたスマホが震えた。
手に取り、LINEの受信画面を開くと、
愛しい彼からのメッセージが
目に飛び込んできた。
『さっきはありがとう。明日は一緒の
仕事じゃないけど、必ず夜に連絡するよ』
たった2行のLINEに心が癒され、
思わず微笑んだ。
僕は決して、孤独なんかじゃない。
顔を上げ、力強く歩んでいける力を
与えてくれる彼に早く逢いたい。
こんなに思いを馳せてしまうのは、
彼の言葉通り「それが、恋してるって事」
なんだろう。
胸を苦しめる切ない程の思いに浸りながら、
僕は僕の心を捉えて離すことのない彼が
見せる、さまざまな表情を思い出していた。
その時は、容赦なく忍び寄る、
鬱蒼とした影の存在に気づくことなく。
何かが派手に壊れる音で、目が覚めた。
音のしたリビングへと足を運んでみると、
ガラス製の時計が棚からこぼれ落ち、
床の上で木端微塵になっていた。
「何で?」
誰に聞かせる訳でもないつぶやきをもらした後、
玄関そばの収納スペースに入っている
掃除機を取りに部屋を出る。
掃除機を手に再びリビングへと戻りかけた時、
先程までいたベッドルームの窓が見えた。
「・・・由貴?」
そんな馬鹿なここは12階だしとツッコミを
入れつつ、掃除機を床に置きその前まで
足早に向かった。
彼が、窓際に立っているように見えた。
とても寂しそうな顔で、
僕を見ていたような気がしたのだ。
鍵を解き、窓を迷わず開く。
外気に触れ、いつもと同じ星ひとつ見えない
空を見上げてから、彼の幻を見てしまった
ことに苦笑いした。
「惚れ過ぎだって」
やれやれとベッドルームを後にしようと
窓を閉めたその時、僕の背後で滅多に
鳴ることのない音が聞こえ始めた。
息を飲み、逡巡する足を何とか進ませる。
そして、ベッド横のチェストに置かれた
電話の子機を取り上げた。
「もしもし」
発した声は、予想よりも遥かに震えていた。
いたずら電話であったらと、心から願ったが。
電話に出た瞬間、僕はこれが俗に言う
「虫の知らせ」というものなのだと
痛感してしまった。
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