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どこまでも行こう。
雨の日に始まった2人の恋は、
甘すぎるときめきとけだるいくらいの
余韻を残して、突然終わりを告げた。
あれから3ヶ月。
僕はまだ雨に濡れたまま、
その場に立ちすくんでいる。
テレビ局の仕事が終わり、
ひとりタクシーに乗り込むと、
いつものようにそっと目を閉じた。
瞼の裏に、
彼のさまざまな表情を貼りつかせて。
多忙を極める中で息をつけるわずかな時間に
思い浮かべる物事で唯一心地よさを感じる
ことができるのは、
あんな事があったとはいえ、彼の存在だけだ。
僕は、自分がとても愚かな生き物だと
解っている。
裏切りを許し、そっと彼を見守り続けている
なんて、いったい誰が賛同してくれるのだろう。
それでも僕は、どんなに恋焦がれても
決して手が届かないと思っていた人に
手が届いて、それどころかしっかり繋がる
ことができて、言葉で表す事のできない
喜びの日々を得ることができた。
たとえその幸せは長く続かずに、
繋がれた手を容赦なく払いのけられる事が
判っていたとしても、
今のように代えがたい日々だと思うに違いない。
どうしてそこまで思えるのかと
問われたのなら、僕は彼の言葉を借りて
こう答える。
「それが、恋してるって事でしょ」
僕は彼をまだ「自粛」と称して、
表舞台に出ない仕事を淡々とこなしているのを
陰ながら応援していた。
決してビジネスパートナーとしての関係を
崩すことなく、他人のいる前では
今も優しく微笑んでくれる彼の側に
いられるだけで、とても幸せだった。
自宅マンションの近くでタクシーを降り、
少しだけ歩くというのがいつもの癖だ。
敷地の中に小さな公園があって、
ベンチに座ってぼんやり夜空を見上げると、
また明日も頑張ろうという気持ちになれる。
今夜は生憎の雨模様でベンチには
座れそうにもないが、何となく足は
その公園に向かっていた。
不意に数メートル先に傘を差す人の
気配がして、足を止めた。
暗がりかつ傘の陰でどんな人物が
立っているのかはっきりせず、
ひとつ咳払いをすると。
「・・・岸野さん?」
相手の自分を呼ぶ声がして、驚いた。
傘が少しずつ近づいてきて露わになった
その姿は、マネージャーだった。
「どうしたんですか」
そう訊かれて、ぎこちなく微笑んだ。
「それはこっちのセリフですよ。
僕はここに住んでるんですから。
何か用事があって来たんですか」
「まあ・・・それよりも、こんな夜遅くに
公園に立ち寄る理由が」
「まっすぐ家に帰らずにここでぼんやり
するのが、僕の癖なんです」
「そうですか。実は私、岸野さんにお伝え
することがあって、ちょうど電話をしようと
思っていたんです」
マネージャーの右手にはスマホが握られて
いた。
「何ですか?」
「川瀬さんのことです。・・・良ければ、
お部屋の中に入れていただけませんか」
「あ、はい」
有無を言わさぬ言い方に反射的に返事を
してしまったが、仕事を離れてまで彼のことを
話しに来るなんて、いったい何があった?と
眉をひそめた。
腕時計は、23時を指している。
一筋縄ではいかない話が始まるのだと思った。
1時間後、マネージャーが帰り、
広いリビングにひとり残された僕は、
迷うことなく彼の携帯番号に電話をかけた。
鞄を下ろす間もなく始まったその話は、
予想を遥かに超える衝撃的なもので、
ただ話の展開に付いていけず、
おろおろとするばかりだったが。
僕の頭の中で留まっていた、
彼を巡るすべての謎が解けかけている
ことだけは解った。
スマホを耳に当て呼出し音を聞きながら、
彼に何から話せばいいのかと考える。
数秒後、僕の耳に賑やかなBGMとともに
癖のある甘い声が響いた。
「はい」
「・・・由貴。僕だよ」
「何?珍しいね」
「あ、うん」
それっきり黙ってしまった僕に、
彼は小さく息をつく。
それでもそっけない言葉の中に、
僕を気遣ってくれようとしていると思った。
声がかき消されてしまうんじゃないかと
いうくらいの後ろの雑音を避け、
彼がその場を離れて少しでも静かな場所を
探している気配がしたのだ。
沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「・・・で?何の用?」
「さっき、うちにマネージャーが来た」
「ふうん、それで」
「由貴のことで話があるっていうから、
家に上げた」
「俺のこと?」
「そう。僕はあの日、由貴が何を考えて
あんな態度になったのか、判らなかった。
だけど、マネージャーの話で辻褄が
合った。あれは、すべて僕のためだったんでしょ」
「何を言ってるんだか。
長話は好きじゃないから、切るよ」
「待って。もう隠さなくてもいいんだ。
これから、逢わないか」
「今更、逢って何を話すの。終わった話でしょ」
頑なな彼の言葉にめげることなく、
食い下がった。
「嫌だ。こんな話を聞かされて、
過去の話やって流せる訳ないじゃん。
逢ってくれないんなら、
これから別のとこに行くよ」
「どこに行くんだよ」
「TV局。もう夜中だけど、
制作の人ひとりくらいはいるだろ」
「TV局?」
「話をしに行って、今度は僕が記者会見
するよ。『狙われてたのは、川瀬じゃなくて
僕でした』って」
僕の言葉に、
電話の向こう側で彼が黙り込んだ。
彼の反応を待つ時間が、長く感じられる。
「マネージャーはそこまで話したのか・・・
まったく、無駄な心配をさせるなっつーの」
「由貴」
「明日の仕事は、夕方からだっけ?
俺はオフだけど。
いいよ、今からお前ん家に行く」
「・・・うん。待ってる」
電話を切り、携帯電話を目の前の
テーブルに置いた。
これから彼は、
あの日の件をどう話してくれるのだろう。
途切れたと思った2人の絆が、
今また繋がり始めようとしていた。
「早かったね」
「ああ。渋谷で仕事があって、
そこで軽く食事してたから」
「そうなんだ」
インターフォンが鳴り、
彼を部屋の中に引き入れてからも、
彼の顔色を窺う余りぎこちない反応しか
できずにいた。
玄関先で彼のジャケットを預かり、
寝室のクローゼットにしまってから
リビングのソファに座る彼のそばに
戻って来ても、その場に立ちすくんだまま
何て声をかけたらいいのか戸惑ってしまう。
「とりあえず、座ったら」
「その前に何か飲み物を入れるけど、
何がいい?」
「何でもいいよ」
真顔の彼にそう言われ、
僕は反射的にキッチンに向かった。
戸棚からカップを取り出し、
別の戸棚に入っていた紅茶のティーバッグを
素早く開けて、電気ポットのお湯を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
テーブルに置かれたカップを持ち上げ、
彼は紅茶をひとくち飲んで微笑んだ。
久し振りに見る素の笑顔に、
思わず胸が詰まった。
僕の心境が伝わったのか、
彼が僕に身体を向けてそっと僕の肩に
手を置いた。
「今まで、ごめんな」
「ううん・・・ずっと、信じてたし。
これから・・・本当のことを、
話してくれるんでしょ?」
「ああ。でも、どこから話していいのか、
頭が混乱して判らなくなる」
「僕がマネージャーから聞いたのは、
あの事故は偶然ではなかったっていうことだよ」
「そうだよ。女性が撥ねられたのは、
仕組まれたものだった」
彼が深夜の交差点で信号待ちをしていた時に
起こったあの事故は、
僕たちの活躍を妬んだ一部の業界人の策略。
そして当初のターゲットは彼ではなく、
僕だった。
「そのことを知ったのは、いつのことなの?
それなのに、慰謝料を支払おうなんて
いったい」
「順を追って話すよ。警察で事情聴取された
あの夜に、マネージャーから聞いた。
既に警察は、被害者の女性が代理人を立てて
話したいっていうスタンスを、
場離れしていて怪しいって睨んでたんだ。
一方で、事故の直前には、
事務所にある週刊誌の編集部から
1通のFAXが届いたらしい。
『今、芸人としてだけではなく、
文化人としても評価が高い岸野葵の
女性スキャンダルを掴んでいます』って」
「・・・ええっ」
「全く、身に覚えがなさそうで良かったよ。
俺とは違って、叩いても全く埃が出ない
奴だもんな・・・。
でも事務所としては、打たれ弱いお前に
そんなことを聞かせたくはなかった訳。
で、上層部でどうするか話し合ってた時に、
俺がトラブルに巻き込まれた。
最初はもちろんショックだったし、
コンビの存続は大丈夫かってすごく
不安だった。俺ひとりのことで、
お前までダメージを受けるのは
とても辛かった・・・だから、俺は、
マネージャーに相談した。
『最小限の被害で食い止めたい。
この事故が僕たちを潰すために
仕組まれたものだとしたら、
岸野は全力で守りたい』って。
数日経って、やっぱり警察はこの事故を
当たり屋による仕業だと判断して
調べ始めることをマネージャーから聞いた。
でも、俺は正体が見えない奴らとの戦いは、
ここからなんだと思った。
マネージャーでさえも、どこまで味方で
いてくれるかなんて判らないし、
こんなあからさまなやり方で攻撃してくる
相手だ。まだまだお前を狙おうとするかも
知れないって思ったんだ。
だから俺は・・・お前を守るために、
お前を騙すことにした」
「そこだよ!そこだけが判らない。
ちゃんと言ってくれれば、
僕は由貴を支えてあげられたかも
知れないのに」
「ごめんな。でも、もしもあの記者会見での
筋書きをお前が知ってたら、
違和感なく演じてくれてたか?」
「それは、一応・・・信じて欲しかった」
「それでもきっと、お前は葛藤しただろ?
『川瀬ばっかり辛い思いをさせるのは嫌だ』
とか言って、悩んでしまっただろ?
俺がこういう風に仕事を『自粛』している
ことで、今のところ奴らはお前に手を出して
こない。俺は、何も知らずに自分の仕事の幅を
広げて行くお前を近くで見られることが、
この3ヶ月ずっと嬉しかったんだ」
「・・・どうして、そこまで僕のことを」
「俺はずっとお前のことが好きだったんだ。
『それが、恋してるって事でしょ』?」
「由貴・・・」
「馬鹿、泣くなよ」
肩を震わせ堪えていた涙を溢れさせて、
彼の胸に頭をつけた。
彼に抱きとめられたまま、
心が温かくなるのを感じていく。
「僕だって・・・由貴と一緒の仕事が
減ってしまっても・・・由貴が・・・
本当の笑顔を僕に向けなくなっても、
ずっと由貴が頑張れますようにって、
祈ってた。恋人としての付き合いは終わっても解散せずに、コンビとしての繋がりを・・・
大切にしてくれてるんだからって、それでいいって・・・」
「うん・・・うん・・・そうか」
涙で喉を詰まらせながら言葉を繋ぐ僕の頭を、
彼は優しく撫でてくれた。
「俺もさ、コンビを解散するなんて考えも
しなかったし、お前が『川瀬あってのコンビだ』って言ってくれたこと、すごく嬉しかった」
「僕は、由貴と一緒に、ここまで頑張って
来たんだもん・・・考えられないよ、
これから、ひとりでやってくなんてこと」
「そうだよな。うん、俺も1ミリも考えた
ことないし、これからどんなことがあっても、絶対に」
彼の胸の中で身体を丸めて、目を閉じた。
この甘く癖のある声の響きに、胸の温かさに、
そっと僕の背中に腕を回し擦ってくれる手の
ぬくもりに、心地よさを感じながら。
信じていて良かったと心から思った次の瞬間、
不意に彼が僕の身体を勢いよく離した。
「あー、もう限界っ」
彼と目が合って、何が起こったか判らず
驚きを隠せない僕に、彼はつっけんどんに
こう言った。
「3ヶ月だよ、3ヶ月」
「・・・え?」
言葉の意味が判らずに首をかしげた。
さらに畳みかけるように彼の言葉が続く。
「事情で近づけなかったとはいえ、
禁断症状はMAXです。葵、行くぞ」
「・・・あ、ちょっと待って」
容赦なく手首を掴まれ、
彼に寝室へと引きずられながら、
僕はようやく彼が何に対して
「限界」だと叫んだのか理解した。
赤面しわずかに抵抗したが、
彼の手の力は半端ではなかった。
閉じられていたドアを開け、中に入る瞬間、
背中を向けていた彼がつぶやいた。
「やっぱり、見守るだけの愛じゃ、
物足りない」
「!」
気障なセリフ、それなのに不思議と
いやらしく聴こえなかった。
伊達にプレイボーイとして名を馳せた訳じゃ
ないんだと笑ってしまった。
「・・・何、笑ってんの」
背後で噴き出した僕に、
彼は憮然とした顔で振り返った。
ストレートな言葉に嬉しくなったと
素直に言えずに、返事の代わりに
彼に抱きついた。
「やっと、『葵』って呼んでくれた」
「これから2人きりの時は、いくらでも言うよ。もう、離さないから」
僕も彼と同じく「限界」を感じていた。
一度手にしてしまった、禁断の果実の味。
そう簡単に忘れられる訳はなかった。
雨が降る度に思い出していた、
溶けて流れ落ちてしまいそうな切ないひととき。
もう彼以外の人とは、
こんな思いを分かち合うことは
一生できないだろう。
これだけお互いに心を奪われ、
心を砕き合える人なんて、きっと出会えない。
「行けるところまで行こう」と
囁いたのは彼だった。
でも僕は「どこまでも行こう」と答えたい。
「限界」は、始めから決めてしまえるもの
ではないのだから。
秘密にしなければならない恋には
変わらないけど、今度はきっとうまくいく。
運命の波に呑まれて、
また途方に暮れることが起こったとしても。
手を離さなければ、きっと大丈夫。
同じ方向を向いて、
時々お互いの顔を気にしながら
歩き続けた2人なら。
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