=出会い=

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 今年五十歳になる大原悠人はどこにでもいるしがないサラリーマンだ。 妻の万里とは結婚して今年で二十六年になる。一人娘の唯衣は今年の春に大学を卒業し、地元の会社に勤め始めた。唯衣は一人暮らしを望まず、自宅から通勤することを選択した。娘を愛してやまない悠人にとっては、ある意味願っていたことでもあったが、いつまでも家にいることについては否定的な考えを持っていた。  悠人と万里は大学時代の同級生であり、二人とも学生アパートでそれぞれ親元を離れた生活をしていた。その時代に出会った二人は出身も学部も違ったが、同じサークルで意気投合した二人だった。  大学四年生のとき、万里は悠人に「大阪で就職する」そう宣言して就職活動を行った。悠人は大阪の泉北出身、万里は和歌山紀南の出身である。万里の宣言は、結婚を前提にしているようなものに聞こえるし、事実、万里の方ではそのつもりであったのだろう。但し、おおよそ和歌山県民が大学を卒業後、大阪に就職するのはごく普通のことでもあるし、悠人としてはそんなに神妙に構えてはいなかった。  しかし、大学を卒業して二年後、二人は予定通り結婚することとなった。万里が妊娠してしまったのだから否応もなし。双方の両親からはこっぴどく叱られたが、だからといって特におとがめはなく、普通に多くの人々に祝福されながら結婚式を挙げ、悠人の実家近くに新居を構えて、二人の生活がスタートした。  万里の実家は農家であったが、兄が家業を継いでおり、またすでに子供もあったので、万里夫婦については深すぎる関心がなく助かっていた。しかし悠人はサラリーマンの家庭であったが、三人兄弟の長男であり、孫に対する関心は尋常ではなかった。特に悠人の母においては、初孫に対しての過分な可愛がりようであり、悠人も万里も辟易していた。洋裁が得意な悠人の母はことあるごとに唯衣の服や小物をこさえてはやってきた。月に一度くらいなら我慢したのだが、実家から近くに住んでいることもあり、週に一度から二度もやってきては唯衣をかわいがるのである。  さらには、二人目はまだか、次は男の子をなどと勝手なことをしゃべりだしたからたまらない。ついにはそれがストレスとなり、とうとう万里は不妊症になってしまった。そんな万里を気遣ってか、悠人は北河内方面への引っ越しを決行した。それからというもの、悠人母の訪問回数は格段に減り、以降は数カ月に一度の割合で悠人一家が実家を訪問するというパターンに変わった。  悠人にとって万里や唯衣との生活は満足できる時間だった。二人目についてはあきらめることとしたが、特に男の子を強く望んでいたわけでもない悠人にとっては、かわいい唯衣がいるだけで十分だった。  しかし、そこが女の子である。唯衣も人並みに思春期を迎えた。彼女が中学二年生になったころから明らかにその兆候が現れた。日に日に父娘の会話が減っていくのが明白になっていた。さらに、夫婦の会話は普段通りにあるものの、夫婦の営みについてはある日を境に全くなくなってしまった。それどころか普段のスキンシップすら叶わないでいる。  そんなある日、悠人は仕事仲間に連れられて夜の店に行った。ごく仲間内の忘年会だった。悠人の仕事はイベント企画の会社で、主に各地の名物や名産品といったものを主役にフェアを提案していた。その日は、あるイベント企画のコンペが終わり、無事に契約にたどり着いた祝賀会の意味を持っていた。  参加したのは班長の石神重雄チーフ、悠人と同期の橋本良平主任、そして後輩の谷口英哉と北島仁の五人であった。軽く居酒屋で祝杯を挙げた五人は、酒の勢いそのままで二次会へと繰り出した。ホルモンを軽くつまんだ後は、金曜日ということもあり、三次会へと羽目を外したがる夜。石神主任がいきつけのキャバクラへ行こうと仲間を誘った。それに同調したのが北島であり、反論したのが橋本主任と谷口であった。  それぞれになじみの店があるようで、各派閥に分かれての悠人争奪戦が始まった。悠人は仲間内でも“お堅い人物”で知られており、最後までつきあうことがほとんどなく、『大奥担当大臣』などと揶揄されたこともあった。しかし、最近は娘の反抗期と同じくして、悠人もある意味の反抗期を迎えていたのかもしれない。 「大原クン、たまにはあっちの方で遊ぼうやないか」  石神チーフが懸命に誘うが、 「今日の大臣はこちらへ同行するのが決まってるんですよ」  と強引に悠人の腕を話さずに引っ張る谷口英哉。 「チーフ、ヒデやんが離してくれそうにないんで、今日はこっちで羽目を外してきます。又お誘いください」  実は悠人と英哉は相当仲がいい。いわゆる普段からの飲み仲間なのである。悠人の考えでは、断る理由のあるうちに、断りにくい方を断っておきたかった。同期や後輩の誘いなどは後からどうにでもなる。そう思っていた。 「仕方ないなあ、今日のところはヒデに免じて明け渡すが、次はこっちやぞ」  石神チーフはさも残念そうな口ぶりだったが、一旦踵を返して背中を向けると、今までからずっと二人だけで飲んでいたような足取りで、なじみの店へと向かって行った。  残った橋本と英哉は、今宵こそは逃すものかと、ガッツリと悠人の両腕を抱え込み、まさに拿捕しているといった状態だった。特に英哉の如くには、 「今日こそは逃しませんよ」  そう言って抱えた腕にしがみついていた。 「いったい、ボクをどこへ連れて行こうっていうのさ。キャバクラやったら、チーフと一緒に行けばよかったやんか」 「ところがねえ、ちゃいまんねん。もっとええとこでんがな」 「まさかチョンの間とかやないなろな。それともピンサロ系か」 「どっちもちゃいます。橋本主任に連れてってもろたんですが、なかなか女の子の質がよくて、すぐにお気に入りになること間違いなしですわ」 「そうやで、ヒデやんなんか毎週かよてるらしいで。なっ、たまにはそういう店も経験しとけって」  同期の橋本も、今日はやたら乗り気だ。 「記念にな、最初のセットはオレが奢ったるさかい。先週の阪神のメインレース、ちょっと儲かったさかいにな」 「それやったら、次の飲み会のために貯金しとき。ヘソクリはナンボあっても足りんことはないぞ」 「せやさかい、こういう時に使うんやんか。その店で大奥大臣がどんな風に変わるんか見てみたいやん」  ともあれ、二人はどうにかしてでも悠人を連れて行く気マンマンである。抱えられた腕にはますます力が入っている。  悠人もここへ来てとうとう根負けせざるを得なくなった。というより、ぞろぞろ歩きながら、すでに店の前に到着しているのだから仕方がない。表には『ピンクキャロット』という文字の看板がピカピカと光っていた。 「わかったわかった。そやけど、こんな店初めてやから、ちゃんと教えてや」 するとヒデやん、手慣れたもので、スイスイと手続きを終わらせて、 「ボクはミスズちゃん、この人は・・・誰でしたっけ」 「オレはアキさん」 「そう、それで。ほんでこちらの先生はパネルから」  そう言って手渡されたのがこの店の女の子の一覧が掲載されたボード。六名ほどの名前があり、それぞれのボディサイズが記載されているが、写真は顔の半分から下だけが写っている。  悠人は何もわからないまま、ミクという女の子を選んだ。そのときにはすでに橋本主任や英哉の姿はなく、お楽しみタイムが始まっていたようだ。悠人もボーイが案内するに任せてホールの中へ入った。そこは薄暗い照明とやや紫色にコーディネートされた壁紙が印象的な部屋だった。個室ではなく、二人がけのシートにはカーテンのような仕切りもなくて、あけすけにオープンだ。  やがて女の子が現れて悠人の隣に座った。清楚な感じのミクは薄い化粧に黒い髪。香水も控えめだった。  彼女はおしゃべりも軽快だった。自己紹介のようなお互いの身の上話だけで、あっという間に最初のセットが終わってしまった。 「あら、ごめんなさい。これやったら何しに来たかわからんね。今度はうんとサービスするさかい、延長してみる?」  さすがにウブな悠人でも、ワンセット四十分もいると、ここがどんな店だか、次第に理解できてくる。 「ここって、もしかしてそういうところなの?」 「そういうって、どういう?大丈夫、エッチなことはできないから」  とはいいながら、ミクは悠人の膝に跨っては熱い唇の攻撃を仕掛けてくる。悠人も久しぶりの感触に言葉を失う。夫婦の語らいは無くなったが、男を失った訳ではない。若干の後ろめたさを感じながらも、若い女の柔肌が心地よかった。悠人は残りの時間、ずっとミクを腕の中で抱きしめていた。何かを思い出すかのように。  そして夢のような時間が終わろうとしたとき、悠人はようやく現実の世界を思い出す。 「もう今夜はおしまいやって。また来てな」  ミクはまさに女の子が書いたとわかる丸文字で記された名刺を渡し、 「また来てな」  もう一度、別れ際のキスを残して悠人をドアの向こうへと見送った。  心地よい経験だった。悠人が店の外へ出ると、英哉が待ち構えていた。 「このタイミングで出てくるやろなとおもてました。そんなに深入りはせんやろなと」  なんだか見透かされたような感じで、少しイラッとしたが、当たっているのだからしかたがない。 「悠さんについた女の子、可愛かったですね」 「ああ、ええ子やったよ」 「どうです、たまにはこういうのもいいでしょっ?」 「ああ、でもやっぱり若い女の子には緊張するな」 「そうでしたか、でも楽しんでもらえましたよね」 「ああ」  どう表現して良いかわからぬ今の心境。言葉は少なめになっていく。 「じゃあオイラは次に行きますので、悠さんとはここでお別れです」 「まだこの先へいくんかいな?」 「なんなら一緒にいきますか?少しディープですけど」 「いや、それは遠慮しとくわ。今でさえまだドキドキしてるから」 「悠さんはわかりやすいですね。それじゃまた月曜日」  英哉はクルリと背を向けて次の店へと歩き出した。それを見送った悠人は先ほどもらった名刺を取り出し、丁寧に財布の奥へと忍び込ませた。 「確かにええ子やったなあ」  ボソッとつぶやいたが、そのときの一歩が新たな世界へ踏み出した一歩目となっていたことは、このときの悠人自身は、まだ気づいていなかった。  あの夜以来、新しい温もりを覚えた悠人は、月に一度から二度のペースでミクに会いに行った。彼女の匂いが悠人にとっての最大の理由だった。  元来、悠人は化粧や香水の匂いが大嫌いだった。長い髪もあまり好きではない。そんな悠人の趣味を満たしてくれた彼女との甘い時間を過ごすために、適度なペースを保って通った。  その理由は、第一にあまり公に知られたくないこと。特に同期の橋本主任や英哉には知られたくなかった。だから常に彼らの動向には注意を払っていたし、彼らが絶対にあの店に行かない日を選んでいた。悠人もチーフとほぼ同等の権限を与えられていたので、橋本主任や英哉のスケジュールを管理することは可能だったのである。  第二にはやはり妻への遠慮もあった。いかに夫婦の語らいがないとはいえ、潔白という意識はなかった。  それでも新しく覚えた遊びは麻薬のようだった。どんどんはまっていく自分に危機感を覚えたこともあったが、あの香りが漂う空間への誘いにあらがうことはできなかった。  そうして半年が過ぎた頃、ミクから別れの言葉を告げられる。何も付き合っていたわけでもないのだから、少々おおげさだか、悠人にとってはショックだった。ようは店を辞めるということだ。こればかりは悠人に止める権利はなく、彼女にもそれなりの理由があるのだから致し方がない。  彼女の店での最後の夜、悠人は彼女の最後の客となるべく深夜に訪ねた。そして彼女の明るい未来を願いつつ、楽しくて淋しい時間を堪能したのである。 「悠さん、いつも優しくしてくれてありがとう。忘れへんからね、悠さんのこと・・・」 「ボクの方こそありがとう。辞める理由は聞かへんけど、幸せになりや」  やがて蜜月の時を邪魔するようにタイムアップのコールがかかる。夜のしじまへと見送られる悠人の目前で無常にも、ゆっくりとドアが閉まっていく。 割り切った遊びと理解しつつも寂しさが込み上げる。 「さあ、これからはどうやって癒されようかな」  そろそろ桜の花が散り始める四月の始め頃だった。悠人には散りながら風に舞う桜の花びらが、なんとも優雅にそして儚く映っていた。  まもなく悠人の日常は、何の変哲もない日常へと戻っていた。ミクが店を卒業(この業界ではこういうらしい)してからは、次の女の子を求めるでもなく、別の店を探索するでもなく、ひと時、足を洗ったかの状態になっていた。  家庭における妻や娘との会話は、彼女たちが犬を飼い出したことで、ますます減っていった。その犬は悠人がさる知人から譲り受けてきたもので、細君たっての希望だった雑種の大型犬だった。毎日の散歩が面倒なのがわかっていたので、悠人は反対したのだが、娘の強引な要望も加わって、とうとう悠人が折れた形で成立した事柄となった。  もともと動物好きな悠人もペットを飼うことに反対なわけではない。特に自分は犬の生まれ変わりだと自負しているくらいだ。  犬の顔には愛嬌がある。譲り受けた犬には何割かレトリバーの血が混ざっているのか、かなり優しい表情をしている。だからといって甘やかすつもりはなく、犬との間のコミュニケーションは上手く統制がとれている。 「万里や唯衣もこれくらい従順やったらな」  とは、今時の親父連中には贅沢な望みである。特に西高東低ならぬ母高父低の関西の気質ではなおさらであろう。  若い頃からスポーツを嗜む悠人は、五十を超えた今でも草野球を楽しんでいる。最近とみにお腹の具合が気になっており、早朝ジョグを始めた。他には狭いベランダでプランター菜園を楽しむなど、多彩な趣味を持っているのだが、どれも若い時ほど熱中できなくなっていた。  そんな毎日を送っていた日々に、一つの分岐点が訪れた。悠人の転勤である。厳密にいうと提携先への出向であり、勤務先は茨城県だった。国内における農産物生産の宝庫である。一年という期間限定のものだったが、悠人にとっては新しい事業にチャレンジできるよい機会でもあった。上司である島田部長からの通達に二つ返事で了解した身柄は即日異動となる。もちろん仕事を持つ妻が同行するわけもなく、単身赴任となるわけだが、学生時代に一人暮らしを経験済みの悠人にとっては、独身貴族を謳歌できるチャンスでもあった。かといって、出張先で愛人ができるほど器用な性格でもなく、また、遊び心を刺激するほどの都会でもなかったので、農家の仕事を手伝いながら、のんびりと過ごすこととなった。  そして翌年、茨城での生活がようやくなじんできたある冬の日、大阪へ戻る辞令が悠人に下される。多くの生産者と顔見知りになれたこと、色々な職種のバイヤーとの掛橋になれたことは、悠人の今後の仕事において良き財産となるに違いない。  茨城での後始末を終えた三月一日、悠人は無事に大阪の事務所に顔を出した。 「ただいま。みんな元気やったか」 「なにいうてはるん、先月おうたやないですか」  英哉は呆れ顔で悠人のボケにツッコミをいれる。確かに先月、名古屋で開催されたイベントで悠人は多くの仲間と顔を合わせている。 「で、お土産はメロンでっか、それともあん肝でっか」 「まずは報告書かな。その後に旅費の精算、部長に顔出して小言を聞いて、やっと戻って来てため息吐いて、それからやな」 「長い長い、そんなん全部後回しや、もったいぶらんとはよ出して下さいな」  悠人はニッと笑ってスーツケースから三つ四つと箱を取り出して、 「残念やけど、全部せんべいやで。みんなで分け分けして食べや。ほな、経理に行ってくるわ」  ちょうどその時、タイミングよく島田部長がやってきた。 「いやあ大原くん、ご苦労さんやったな。おかげでオレの面目も立ったわ。今夜はお疲れ会するから、すぐに帰るなよ」 「いや、まだ家に帰ってないんですが」 「わかってる。その代わり、明日は休みにしたるさかい、ヨメはん説得しとけ」 「もう、無茶苦茶やな。それが離婚の原因になったら恨みまっせ」 「何やったら、オレが説得したろか?」  島田部長は、悠人らの結婚式にも参加しており、また社員旅行などでも一緒になったこともあるので、万里ともそれなりの面識があった。 「わかりました、連絡しておきます。それより旅費の精算を」 「わかったわかった、すぐ行ってこい。ああ、それから帰りに総務によって井上部長に顔を見せといで。なんや話があるらしいで」 「わかりました」  切符の領収書を片手に、廊下へ飛び出した悠人は経理に行って、旅費の精算をしたのち、総務の井上部長を訪ねた。普段から、あまりなじみのない部署なだけに妙な緊張感が背中を走る。  井上部長とは、奇しくも高校の先輩後輩にあたり、入社当時からよく面倒を見てもらった。もちろん、万里とも面識がある。悠人が総務部の部屋に入ったとき、井上部長は、自分のデスクでパソコンとにらめっこしていたようだが、悠人の訪問に気がついて、応接セットのソファーに移動した。 「ああ、聞いてるかも知れんが、今日付けでキミは企画部の部長として辞令がおりることとなった。あとはよろしく頼むとの社長のお言葉や」 「えっ、聞いてませんが。それに島田部長がおられるやないですか。ボクは主任のままでええんですがねえ。その方が自由がきくし、楽なんですがねえ」 「情けないこといいな。おまいさんももう五十や、そろそろちゃんとした責任者になってもらわんと後がつかえとるし、それに島田クンは八代専務がご勇退やから、その後釜にならはんねん。それと一緒に主任をやってた橋本クンは制作部へ行ってもろた。そこで部長をしてもらう。前部長の岡部クンが家の都合で退職されてな、それに石神くんは九州へ出向になった。ほんで急きょの人事異動や。なんや、島田クンから聞いてなかったか」 「はい、井上さんのとこへ行けとしか」 「なんしかそうなったから、あとはたのむで。おまいさんやったら、今までの実績文句なしや、ええ商品こさえてな」  井上部長は軽く悠人の肩を叩いて、自分のデスクへ戻っていった。  部長推薦の話は以前にもあった。しかし、まだ実行中の企画があったり、やり残したことがあったりで、うやむやにうっちゃらかしていた。確かに給料は上がるかも知れないが、直接手を下す機会は明らかに減少する。それが悠人には不満だった。  不意の宣告で、当惑しながら企画部に戻ると、 「いえーい、新しい部長、おかえりやす」  部署のみんなが一斉に拍手で出迎えた。 「誰から聞いたんや?」 「さっき島田さんから。自分も異動やからって、とっとと出ていかはりましたけど。さあ、この席、空きましたさかい」  英哉はニヤニヤしながら悠人の腕を引っ張った。  渋々ながらも、やや照れながらデスクに辿り着いた悠人は、 「みんな、オレでええねんな。みんなが納得してくれんねやったら、オレもガンバル。そうでないもんは言うてくれ」  そう言ってみんなを見渡した悠人の目前には、新たな上司を迎えて心機一転、キラキラ輝いた目をした連中が悠人のデスクを囲んでいた。  その様子を見て腹をくくった悠人は、あらためて新任の挨拶を行う。 「まだなりたてほやほやの上司やけど、これからもよろしく」  朝の朝礼はサプライズも含めてにぎやかに華やいだ。 「さあ、そうと決まれば、みんな自分のデスクに戻って、仕事に熱中よろしく」 「はい」  みんなも一斉に声を上げて、蜘蛛の子を散らすように解散した。そこには新たな風が吹いているかのような新鮮な空気が流れていた。  改めて悠人は事の重大さに気づく。今までやってきた期間限定のチーフ職とは訳が違う。  元々座っていたデスクは、一年間の出向のおかげで、キレイに次の人へと継がれていたが、景色の異なるデスクの眺めは、一様に馴染みにくかった。  それでも茨城より持ち帰ったパソコンに電源を入れると、まずは報告書の作成に取り掛かった。  やがて薄紅に染まる空が窓の外に映る頃、新たに役員となった島田専務が悠人のデスクに顔を出した。 「そろそろ終い支度はできてるか。まだそんなにすることはないやろ。オレなんか、書類をひと通り目を通しただけで、今日の仕事は終了や」 「ボクは島田さんみたいに一度で頭に入りませんからね。全体の把握なんかまだぜんぜんできませんよ」 「そんなんオレも一緒や。頭やのうて目が疲れてしもて、もうお終いやていうてんねん。さあ、はよしまい」  するとそばにいた英哉が部署のみんなに聞こえるように号令を送った。 「さあみんな!すぐに仕事を片付けて、専務と部長の昇進パーティにいくぞ!五分後に集合でけんやつらは置いてくからな」  それを聞いた企画部員十五名は、一斉にパソコンを閉じ始めた。企画部は昔からこういう時の結束力はどこにも負けなかった。 「こういう結束力もキミの努力の賜物やないか」 「それって褒めてます?」  えてして企画部員と島田専務は、五時の合図とほぼ同時に会社を出たのである。  宴会はいつもの居酒屋『麦や』と決まっていた。ここに専務の焼酎ボトルがあるからである。キープされていたボトルはもちろんのこと、のんべの多い企画部ではどんどんアルコールが消費されていく。ましてや今日は大人数である。テーブル上のつまみはあっという間に食い尽くされ、追加のボトルもあっさりと空っぽになった。  島田専務のシメで大団円を迎えた宴会であったが、今宵、大盤振る舞いとなった新専務は追加のボトルも料理も全て専務持ちの支払いとなった。 それを気兼ねした悠人であったが、 「これからは、お前たちと飲む機会も少なくなる。最後とは思わへんけど、俺も老い先短いかもしれんからな。ここはオレに払わせろ。あとは頼むぞ。企画部はまだまだ伸びる。期待してるで」  そう言って店を出ると、颯爽と左手を大きく上にかざしながら駅へと向かって行った。  いったい『麦や』でどれくらい飲んでいたのだろう。時計の針はすでに夜の十時を回っていた。  時間の割にはあまり量を飲んでいない悠人と、まるでザルの英哉がグデングデンの連中とそこそこ酔いが回っている輩たちを見送ると、 「悠さん、ちょっと行きませんか」 「どこへ?」 「『ピンクキャロット』ですがな」 「まだあるんその店。前につれてってもらった店やろ」 「悠さん、とぼけたらあきまへんで。オイラのオキニの女の子から聞いてまっせ。悠さんかてなじみの女の子がいてたらしいですやんか。その子とまだ連絡取ってんのとちゃいまんのん」 「その子やったら、とっくに辞めてるで。それ以降行ってないからどうなってんのか知らんがな」 「ほんならちょうどええですやん。お祝いやし、チビっとイチャイチャしにしきまへんか。いや、絶対に連れて行く。どうせ明日は休みでっしゃろ、オイラは家が近いから大丈夫。さあさあ」  英哉にそでを引かれ、否応なく店の表まで連れてこられた悠人は、その店構えに懐かしさを覚えた。  店に入ると英哉はお気に入りの女の子を即座に指名し、そそくさとフロアの中に消えていく。残された悠人は、どうしようか迷っていると、黒服ボーイがヒントをくれた。 「新しい子でかわいい子いますよ。女子大生風と若妻風と、どっちがお好みですか」  なにやら自分の性癖を探られているようで少し嫌な感じもしたが、どうせなら若い女の子の方が刺激があっていいかなと思い、 「じゃあ女子大生風で」  と指定した。  久しぶりにフロアへと案内され、女の子を待つ間、出されたビールを口に含んで、アルコールを体内に入れた。もう一度気持ちをリセットするためである。ややもすると少しあった緊張感も和らいだころに女の子がやってきた。 「マイです。こんばんわ」  確かにボーイが言ったように女子大生風であった。  悠人は初めて会う彼女を可愛いとは思った。若いのにがんばっているなとも思った。一生懸命肌を露わにサービスこれ勤める。悠人もこういうところと割り切って、それなりの時間を過ごしていた。  この店では、指名した女の子が複数の指名を持っていると、数分おきに指名客渡りをしていくシステムとなっている。悠人が指名したマイという女の子にも悠人の他に二人ほど指名客を持っており、数分経過するごとに席を立つのである。その間に来る女の子をヘルプというが、指名客がないか少ない女の子が順繰りにあてがわれていくシステムでもある。  最初のヘルプは顔見知った嬢であった。かつてミクを目的に通っていた頃にもいたヘルプ専門のお嬢ケイ子であった。 「あら、久しぶりやん」 「はて、まだ覚えられていたとは驚きやな」 「忘れへんで。その帽子が特徴的やもん」  そうなのだ。悠人はいつもカーキ色のハットを被っていた。 「なんや帽子かいな。男前やから覚えてくれてたんとおもたのに」 「自分でいいな。せやけどそれもあるで。あんたウチの好みやもん」 「それやったら、ヘルプばっかり回らんと、ボクには指名さしてくれたらええのに」 「ふふふ、あんたやったらええで。その代わり、客の少ない時にな。他の客に見つかったらうるさいから」 「なら、今度来る時にはお願いするで」 「さて、ホンマにそうなるかな?じゃあまたね」  ケイ子は何かを含んだ笑みを残して去っていった。  そして二人目のヘルプとの出会い。それこそが悠人の運命をも変える出会いとなったのだが、その時、誰が想像できただろう。 「こんばんわ、初めまして美月です」  そう言って名刺を渡し、悠人の隣に座った彼女は悠人にとってまさに衝撃的な出会いであった。 「・・・・・」  受け取った名刺を持ったまま、悠人はしばらく何も言えずに彼女を見ていた。そしてボーイのいう若妻風の嬢というのが彼女の事ではないかと思った。 「どうしたの?」 「いや、こんな素敵な人がいたなんて思わんかったから、びっくりしてしもて」 「これでももう結構な年齢やよ」 「いや、でもボクから見たらまだまだ若いやん。いやホンマに素敵な人やなあ」 「もう三十いってるで」 「今度はキミを指名してくるから、ボクの事覚えといてくれへんかな。趣味で絵を描いたりしてるんやけど、エピソードをいっぱいもらえたら、キミの絵も描きたいな」 「うれしいな、描いて欲しいな」 「ボクのペンネームはハヤテタロウ。なんかメモある?」  美月は急ぎばやに自分の名刺を渡した。それをうけとった悠人はその裏側に手早く『疾風太郎』と書いて渡した。  あっという間の時間だった。彼女のヘルプの時間は終わり、やがて悠人の席を立つ。 「また今度ね」  今現在の指名の女の子に聞こえないような声で囁いた。 彼女の背中を見送ったあとは、何事もなかったかのように女子大生風のマイ嬢と残りの時間を過ごした。但し、脳裏の中には、すでに美月の存在しかなかったのである。  特に粘ることもなく店を出た悠人は、何気に後ろを振り返った。英哉が出てきていないかを確認したのである。  幸いにも彼はまだ中で粘っているようだったので、そのまま帰宅することにした。ややニヤケ面だったのは否めないだろう。  帰宅したのは、午前様より少し前。妻と娘はリビングでテレビを見ていた。 「おかえり。早かったね」  万里にとっては、悠人が何時に帰ってこようが、あまり関心はないらしい。もともと残業も多く飲み会も多い業界である。いちいち気にしては気が持たないのも事実なのだろう。  それにしても出向帰りの身である。もう少し出迎えようもあるのではとも思う。まあ、遅くなる連絡はしてあったのだから、それはそれでいいのかも知れない。特に娘は反抗期が続いており、一年ぶりの帰宅にも全く関心を寄せない。唯衣も子供の頃は可愛かったのにな。などとは遥か昔のことである。逆に悠人は二人が見ているテレビに全く関心がない。  持って帰ったスーツケースを広げると、衣類や書類、そして土産物とを区分けしていく。自宅は3LDKのマンションである。悠人の仕事部屋もあり、デスクに向かって、時折り持ち帰った仕事をこなすこともある。そのデスクの引き出しには、数年前まで使っていた古い携帯電話が入っていた。通話こそできないが、電源さえ入れば、その他の機能は活用できる。  悠人はここに思い出の一枚を保存していた。それは娘の小学校の入学式の写真であった。その写真を見ながら、悠人は深いため息をついた。 「もうこれも昔の話よな。現実は辛いのう」  そして悠人は今宵の時間を思い出す。 「さてもあの人は・・・」  悠人にとって美月に出会ったことは、事のほか衝撃を受けたのは前にも記したが、何故なのか。その時はわからなかったが、つい先ほど思い出した。 悠人は万里と二十六年前に結婚した。その際に、悠人の女性関係が発覚して、 ひと悶着があったのである。  若い頃の冒険や過ちなど、およそ健康な男児なら、そうそうとはいわないまでも、叩けば埃が出るくらいはあるだろう。事実、悠人の親友にも、似たようなエピソードを持ち合わせていた。幸いにもこちらの方は発覚することなくことなきを得たが、悠人の場合ははからずも見つかってしまった。ましてや一夜の関係でもなかったために悠人と万里の親を巻き込んでの大騒動となったのである。  あれは大学卒業後すぐに入った会社で二年が経とうとしていた頃、そろそろ落ち着いた頃合いに、万里との結婚を真剣に考え始めたときだった。  当時の得意先の担当者雪乃と頻繁に会うようになり、やがて一線を超えてしまう。かけ落ちまで考えたこともあったが踏みとどまり、そろそろケリをつけようとした頃、二人でいるところを偶然万里に見つかってしまった。仕事だと言って出かけていた悠人が雪乃と二人で食事をしている現場に鉢合わせし、しかも彼女は泣いているのである。どんな言い訳ができただろう。一切合切を説明して万里を説き伏せ、雪乃と別れたのである。  もちろん、双方の親から罵倒されたことは言うまでもなく、婚約後の出来事であり、万里から訴えられてもおかしくない状況であったが、万里は自重した。雪乃を訴えることもやめた。何より、悠人が戻ってくること、雪乃と別れ話の最中だったことが、万里の行動を控えさせたのである。  美月はその時の女、雪乃に雰囲気がとても良く似ていたのである。  悠人の心は揺らいでいた。はからずも懐かしき女の面影に触れた今、ぶり返す衝動を抑えきれずにいる自分がはっきりとわかっていた。なぜなら、あのときと今では状況が異なるからである。そろそろ結婚というあの頃の時期と、会話の少なくなった倦怠期すら超えた関係の今。悠人の置かれている環境が違い過ぎていた。  そしてこの夜を境に、悠人の心は大きく揺れ動くのである。
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