第一章 恋の逆光

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第一章 恋の逆光

一  道路に面した大きなガラス窓から見える景色は、オレンジ色の光を纏い始めている。  視界の隅を何かが横切ったような気がする。 「最近どうなの」  桧山萌乃は大学時代の友人の川口琴音と広瀬愛美と久しぶりに会って表参道の喫茶店でお茶をしている。お互いの仕事の愚痴が一段落したところで、琴音が萌乃に向かって言った。 「何がよ」  もちろん、萌乃は琴音の質問の意味はわかっていたけれど、答えたくなかったというのが本当のところ。だって、あまりうまくいってるとはいえなかったので。 「あっちのほうに決まってるじゃない」  要するに恋バナをしようという合図だ。25歳の独身女が3人集まれば恋バナは欠かせないのだ。 「まあまあというところかな」  曖昧な答えになってしまったけど、それが事実だった。 「ふ~ん。ちなみに、その彼って、前会った時に聞いた人だよね?」  今度は愛美が顔いっぱいに興味を張り付けて訊いてきた。みんな自分のことよりも他人の恋バナには人一倍関心があるのだ。 「ううん。別の人」  あまり聞かれたくなかったことなので自然に小声になる。 「ええー、前の彼と結婚したいとか言ってなかったっけ」 琴音が大袈裟といえるほど驚いてみせた。  でも、確かにその通りなのだ。当時付き合っていた彼氏のことは大好きで、萌乃はひそかに結婚も考えていた。なので、およそ1年ほど前に3人で会った時、嬉しくてつい口走ってしまった。ところが、当の彼氏はまだぜんぜん結婚の意思などなかった。結局、その彼とは考え方の違いで別れてしまった。 「そうなんだけど、いろいろあって」  感情が定まらないまま、どこか上の空に答えた。 「そうかあ。まあ、いろいろあるよね」  『いろいろ』について、それ以上詮索してこないのはありがたい。 「琴音はどうなの?」  自分の話題を早々に終わらせるために、萌乃は琴音に振った。  この3人の中では琴音が一番モテる。アイドルのような可愛い顔立ちとモデルのようなスタイルをしているのだから当然だ。大学時代からボーイフレンドはいっぱいいたし、彼氏が途切れることはなかった。きっと今もそうなのだろう。 「私? 私は相変わらずよ」  端然と微笑みながら言う琴音の横顔は妬けるほど美しい。 「琴音って、いつでも、どこでも女王様だもんね」  愛美がやや呆れ顔をしながら言った。  琴音はたとえ恋愛相手に虜になることがあったとしても、自分が女王様でいるために、手のひらでそれを握りつぶすことができる強い女だ。 「そういうことでもないけど」  一応否定した琴音だったが、すぐに愛美がツッコんだ。 「そういうことでしょう」  これには思わず3人とも笑ってしまった。 「そういう愛美は今でもあの彼と同棲してるの?}  3年前くらいに彼氏と同棲を始めたと愛美が言っていたのを萌乃は覚えていた。 「そうよ」  事もなげに言う愛美には以前から人生を達観したような心地よい軽さがあって、萌乃には羨ましかった。 「長いよね」   琴音が飲みかけのコーヒーに目を落としながら言った。 「そうね。でも、いつ別れてもいいんだけどね」 「どういうこと?」  思わずツッコんでいた。  萌乃の価値観からすれば信じられない。 「私たち、同棲して4年目に入ってるんだけど、二人とも結婚願望はないのよね」 「それは前にも聞いた気がするけど」 「そうかもね。だから、お互い拘束するつもりはなくて、もし好きな人が出来たら自由に恋愛もするし、場合によっては別れもあるだろうし、住まいを出て行くのも自由なわけ」 「変わってるよね、愛美たちって」  萌乃にはまったく理解できない。 「変わってる?」 「うん」 「そうかなあ。そうもしれないね。でも、私たち無理のない生き方をしているだけだよ。ただ、結果的にお互いまだ好きだから一緒にいるけどね」  愛美には見えて、自分には見えない『幸せ』があるのかもしれないと、萌乃は思う。  いつでもサラサラと力を抜いた生き方ができている愛美に尊敬のまなざしを向けていると琴音が言い放った。 「結局ノロケてるわけ?」 「いや、そうじゃないんだけど」  ちょっとだけ愛美が慌てたのがおもしろかった。 「どうかな」  琴音はあくまでも冷静だ。  まるで背中合わせのように三人三洋なところが、いつまでも友達でいられる理由なのかもしれない。 「私にはよくわかんないや」  萌乃がそう言うと、琴音が毎度のごとく萌乃にツッコミを入れた。 「萌乃が生真面目過ぎるのよ」  毎回会う度に必ず琴音から言われる言葉だ。 「そうそう」  愛美も賛同する。  でも、それは自分でもわかっている。 「萌乃ってさあ、もし彼氏とか結婚した旦那に浮気でもされたらどうなるんだろうね」  どうせ答えはわかっているという顔をしながら。琴音が萌乃ではなく愛美のほうを見ながら言った。 「どうなの?」  愛美が訊いてくる。 「絶対許せない」  萌乃は求められている通りの答えを言った。  でも、本心でそう思っているのだからしょうがない。  その言い方があまりに強かったせいで琴音と愛美が顔を見合わせた。 「萌乃がうまくいかないのは、そういう重いところよね」  もともと恋愛経験の少ない萌乃は、ひとたび恋愛が始まると一生懸命になり過ぎて、不必要なまでに神経を尖らせてしまう。それが結果的に、相手にとっては重くなってしまうのだろう。それは自分でも十分わかっている。だから、重くならないようにしているつもりなのだけど、自然にそうなってしまっているみたいなのだ。自分にはそういう意識はないのだけど…  性格というか、自分の根本的なところだから、そう簡単には変えられない。でも、会う度に指摘して気づかせてくれる友達はありがたい。  いつの間にか降り始めていた雨の水滴のせいで、窓から見える街は滲んでいた。 二  彼氏の磯貝秀哉から電話があった。 「明日うちに来ないか」  なぜだろう。  心が微かに揺れた。  これまでデートの時でも秀哉はいつも1週間くらい前に予定を訊いてくれていた。それなのに、この時は突然だった。 「えっ、急な話ね。どうしたの?」  リビングでテレビを観ながら寛いでいた萌乃は、立ち上がって携帯電話を持ち換えて耳に強く当てた。  しかし、どうしたの?と理由を訊いたのに、秀哉はそれには答えてくれなかった。 「ダメなわけ」  思わず冷たい壁にもたれかかる。  棘のある言い方をされ、暗がりに飲み込まれそうな感覚になる。 「大丈夫だけど…」  突然の電話。棘のある言い方。今までの秀哉にはない態度に、萌乃は底の知れない不安に襲われる。これまでも付き合っている男から突然別れを切り出された経験があるせいか、萌乃は男のちょっとした変化にも敏感になってしまう。 「ならいいじゃないか。俺のほうは8時には帰っていると思うから、適当な時間に来てくれればいいよ」  秀哉の感情を押し殺したような硬い言葉のせいで胸のあたりが重くなる。  携帯を持っているほうの手が縮んでいくようだ。 「わかった」  リビングのソフアーに倒れ込むようにしながら、そうは答えたものの、胸の動悸は収まらなかった。  翌日、萌乃は仕事中も前日の秀哉からの電話のことが気になって、目の前の仕事になかなか集中できないでいた。なんとか無事に仕事を終え、いったん自宅に戻って着替えてから秀哉のマンションに向かった。  なんか覚悟がいる話のような気がして、わざわざ着替えたのだ。 「入って」  萌乃を迎えた秀哉はなぜか自分と視線を合わせようとはせず、萌乃の足元を見て言った。そのぎこちなさが余計に萌乃の不安を煽る。 「部屋きれいになってない?」  部屋に入った時からずっと感じていた息苦しさから逃れたいという思いもあって、できるだけ明るく、軽く言ったつもりだ。  実際のところ、いつもはどこかが散らかっている秀哉の部屋が妙に片付いていた。 「ああ。予定より早く帰れたのはいいけど、時間が余っちゃってさあ」  秀哉の言葉もなんか浮ついている。  『さあ』なんて言葉、今まで使ったこともない。 「それで掃除したの?」 「うん」  本当だろうか?  違和感だらけの中で、思考は悪いほう悪いほうに向かう。 「ふ~ん。きれいなのは気持ちいいよね」  膨らみそうになる不安を押さえたつもりだったが、声が少し上ずった。  なんか、さっきから二人ともへん。  少し冷静になった萌乃はそう思う。 「そうだろう。ともかく、食事しよう。俺お腹ペコペコなんだ」 「私も。じゃあ、出すね」  萌乃は事前に秀哉に頼まれていたピザを買ってきていた。  箱から取り出してダイニングテーブルに広げる。 「萌乃、何飲む?」  台所にある冷蔵庫の前で秀哉がこちらを見ている。 「ワインがいいかな」 「了解」  向かい合って食べ始めるが、この頃にはいつもの秀哉に戻っていて、少し安心した。食事後もいつものようにソファーに並んで座ってテレビを観ているが何も起こらない。秀哉から電話をもらった時、なんとなく不安を感じたのは自分の思い過ごしだったのだろうか?  そうであってほしい。  安心したせいで睡魔が襲い、身体が揺れた。 「ねえ、萌乃」  秀哉が萌乃のほうではなく、テレビ画面を見ながら言った。 「ん? 何?」  眠りの意識から戻された萌乃は、秀哉の横顔を見ながら答えた。  秀哉の顔からは何の感情も読み取れない。 「俺、この2カ月くらいずっと考えていたんだけど…」  秀哉の声が一段と硬くなったような気がする。  テレビ画面からは若い女優の声が聞こえるけれど、萌乃は秀哉の言葉の意味を探ろうとした。  一度は安心したけれど、やはり今日自分は別れを切り出される。それは間違いないことのように思えた。  嫌、嫌、嫌。 「ごめん、秀哉。私、その先は聞きたくない」  自分の感覚のすべてが吸いあげられ指先が冷え切る前に、萌乃は唇に力を込めて自分の思いを伝えた。 「どうして? それより萌乃、顔が真っ青だよ。大丈夫?」  この期に及んで優しい言葉なんてかけないで。 「大丈夫なわけないでしょう」 「どうしたらいい? あったかいお茶でも飲む?」  秀哉がオロオロしはじめた。 「そういうことじゃないから」 「じゃあ、何?」 「あなたの言葉のせいよ。もう、嫌…」  秀哉から聞かされるのも嫌だけど、だからといって自分から別れを告げるのも嫌。 「ん? ひっょっとして萌乃、勘違いしてない?」  秀哉が何かに気づいたか、急に笑顔を作ったが、萌乃はそのことの意味もわからなかった。 「勘違い?」 「俺は萌乃と結婚の相談をしようと思ってたんだけど」  あまりの予想外の言葉に萌乃は軽いめまいをおこした。  こんな嬉しい勘違いって、ある? 「えっ、結婚? 私と?」 「他に誰とするって言うんだよ」  胸の内にひたひたと静かに喜びが溢れてきた。 「そ、そうだけど…。信じられなくて、私」  嬉し過ぎて自然に涙が零れた。 「泣かないでよ。改めて訊くけど、俺と結婚してくれる?」  あまりにストレートなプロポーズだった。本当はもう少しロマンチックなシチュエーションを考えてほしかったけど、それは贅沢というもの。 「もちろん、OKよ。本当に嬉しい。私はずっとずっと秀哉との結婚を夢見ていたんだから」 「えっ、そうなの。ここ数か月、萌乃、何だか思い詰めたような顔をしていることが多かったから、もしかして俺のことが嫌いになったんじゃないかとか思ってもいた。些細なことで喧嘩もしていたしね」 「ごめん。私は私で不安でつい…」 「そうか。お互い勘違いしていたんだね。今日思い切って告白して良かったよ。でもさあ、本当はもっともっとロマンチックな告白を考えていたんだけど、萌乃がへんな反応するからドストレートに言うことになっちゃったじゃないか」 「ええー、そうなの。ごめん。じゃあ、その用意していたっていうロマンチックなのでもう一回やってくれない」 「そんなの、今さら恥ずかしくってできないよ」  秀哉がどんな告白を用意してくれていたのか知りたかったけど、照れ屋の秀哉にそれを求めるのは酷だと諦めた。 「そうよね。ごめんね」 「謝らないでよ。俺が妙に緊張してたせいもあるんだろうから」 「そうよ、そうよ。絶対にそうよ」  ほんとうにそう思ったから、少し口を尖らせて言った。  もちろん、怒っているわけではなかったが。 「そんなに強調しないでよ」  ちょっといじけている秀哉が可愛い。 「ごめん。でも、ほんとに嬉しい」 「良かった。幸せになろうな、萌乃」  そう言って秀哉が萌乃の肩を抱き寄せた。  空気が柔らかな熱をもって身体を包んでくれる。 三 「お待ちしておりました」  銀行の本店の地下にこんな部屋があるとは知らなかった。  関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアをいくつもくぐり抜けてようやく到着した部屋は、中世の宮廷の中の部屋のように豪華で煌びやかだった。  いったいどこへ連れて行かれるのかと、途中は不安でいっぱいだったけれど、部屋で待ち構えていた人物が、絵にかいたような柔和な顔をした紳士だったので、自分の思いは閉じ込めた。  萌乃が立ったまま部屋全体を見回していると、その紳士が部屋の真ん中にあるソファーを指した。 「どうぞ、そちらにお座りください」  いかにも高そうなソファーに、萌乃はそおっと越しを下す。 「桧山萌乃様で間違いないですね」  紳士が笑顔を向けながら念を押してきた。 「はい」 「私は高坂信彦と言います。この銀行の総務部に席を置いていますが、特別職のため名刺は差し上げられませんのでご容赦ください」  高坂の声は黒いビロードのように滑らかであった。 「そうですか。わかりました」 「桧山様、この度は宝くじ1等ご当選おめでとうございます」  そう。  萌乃は宝くじの1等に当選したのだ。いろいろむしゃくしゃしたことが続いていたある日の帰り道、ふと目に入ったのが宝くじ売り場だった。吸い寄せられるように近づき、気づいたら20枚買っていた。とはいえ、たったの20枚。当たるなんて思ってもいなかった。ところが、そのうちの1枚がまさかの1等に当選していた。 「ありがとうございます。でも、1等だと、こんな秘密の部屋みたいなところに通されるんですね」 「そうです。まさにここは秘密の部屋です」  萌乃が秘密の部屋と言ったのが気に入ったみたいで、高坂がニヤリとしたが、その顔の中の瞳が不気味に光っていて怖かった。 「なんかちょっと怖いです」  思いがそのまま言葉になった。  萌乃は不安とかに襲われると、へんに饒舌になってしまう癖があった。 「怖い? ですか? 初めて言われましたね」  心外という感じだったが、目の前に座る高坂は、あくまで先ほどと変わらず紳士然としていた。ただ、萌乃にとっては、得体の知れぬ圧迫感をずっと感じていた。 「すみません。私、こういう雰囲気初めてなもので…」 「なるほどですね。でも、その心配はご無用ですよ。怖いことなど何一つありませんから。ちなみに、私は桧山様に1等の内容を説明させていただくだけです」 「そうですか…」 「ええ。じゃあ、さっそく始めましょうか。大谷君準備を」 「はい」  銀行の受付からこの部屋まで萌乃を案内してくれた男が返事と同時に壁面のスイッチを押した。すると、萌乃の正面に大きなスクリーンが降りてきた。 「まずは桧山様にこのスクリーンに映し出される映像をご覧いただきます」  いったい何が始まるのだろう。  再び不安に襲われる。  本当は質問したいことがいっぱいあったけど、質問できる雰囲気ではなかった。 「映像ですか…」 「そうです。ちなみに、その映像は私も含めたここにいる職員たちには何も見えません。ですので、ご安心ください」 「わかりました…」 「では、映像を流します」  小さな女の子が画面に映し出された。  どこかの家の庭で遊んでいる。  女の子は時々傍にいる母親と思われる女性に向かって何か話しかけながら走り回っている。だが、無音のためにどんな会話をしてるのかはわからない。  カメラを回しているのは、きっと父親だろう。幸せな家族のように見える。  でも、自分はいったい何を見せられているのだろう。  この親子に見覚えはないが、もしかしてどこかで会ったことがあるのだろうか。必死に考えてみるが思い浮かばない。  その後もその女の子と家族の映像が続いた。  中学生になった女の子と家族。  高校生になった女の子と家族。  平凡な家族の風景が流され続けたが、当然ながら萌乃には何の感情も湧かず、どうしていいかわからなかった。  しばらくすると画面が変わった。  大学のキャンパスと思われる場所を歩いている一人の女性。  もちろん、ずっと見せられてきていた彼女。  授業を受けるために教室に向かっているのだろうか。いくつもの建物が見える。右側にはテニスコートがあり、練習をしている学生の姿が見えた。  何人かの学生が女性の横を足早に通り過ぎていく。 「りほ」  彼女の後ろ姿に、突然男性が声をかけた。  しかし、彼女はそれに気づかない。  男性の姿は見えないけれど…、どこかで聞いたことがあるような声だった。 「りほ」  もう一度男性の声がした時、彼女が振り返った。  彼女の視線の先に、一人の男性が立っていた。  萌乃は思わず大声を出しそうになった。  その男性は、自分が初めて本気で恋をした相手の有村雅樹だった。  結局うまくいかなかったけれど、当時の甘くやるせない思いが胸にせりあがってきた。  萌乃は、混乱する頭の中ですべてを悟った。今自分が見せられているのは、前世の自分の姿だった。  前世では自分は前川里穂という名前だったと気づく。  でも、なぜもっと早くに気づかなかったのだろう。  画面に映る自分。 『りほ』  ひとり言のような細い声で自分で自分に呼びかけた。  自然に涙が零れた。 「気づかれましたね」。私たちは映像は見えませんが、あなたの心の動きは見え」  いつの間にか高坂が萌乃の横に立っていた。 「はい」  そう答えたものの、映像は見えないはずの高坂が、なぜ、映像の中の女性が自分だと萌乃が理解したことをわかったのだろう。そんな自分の疑問を、高坂はまるで聞こえていたかのように言った。 「私たちには映像は見えませんが、あなたの心の動きは見えるのです」  そんなことってある? そう思ったけど…  自分の心の中の疑問をわかっていた高坂ならあり得ると思った。 「そうなんですか…」 「とにかく、良かったです。あなたが気づくまで映像は流れることになっていましたが、わりと早くお気づきになりましたね。人によっては、だいぶ遅い方もいらっしゃいます」 「そうですか。でも、これはどういうことなんでしょうか」 「それをこれから私がご説明いたします。では、まずは映像を止めましょう。大谷君、停止して」 「はい」  大谷が壁面のスイッチに手を触れると画像が消え、スクリーンが上にあがった。  萌乃の中では、映像の続きが見たいという思いと見たくないという思いが交錯していたけれど、ものの見事にプツンと切れた。  高坂が再び萌乃の前に座る。 「桧山萌乃様。あなたが今回当選された宝くじの1等の賞品というのは、あなたが前世の人生の中でやり残したことの中から1つだけやり直すことができる権利なのです」 「そうだったんですね…」 「はい。まずは、その権利を使うか使わないかを決めてください。どちらもあなたの自由です」  確かにやり残したことはいっぱいある。当然やり直せるのであればやり直したいこともある。でも、やり直すことでその後の前世の人生が変わってしまうのではないかという怖さもある。急に判断を求められて、萌乃は戸惑っていた。 「あのお、もし権利を使わないとお答えしたら、私はどうなるんでしょう」 「あなたが宝くじの1等に当たった事実と記憶を消します」  『消す』という言葉と言い方の強さから、まるで自分の存在そのものを消されてしまう怖さを感じた。 「消す、と言いますと?」 「不安になられたのですね。怯えた顔をされていますよ。でも安心してください。この場所で約30分ほど寝ていただくだけです。30分後、あなたは自宅で目を覚まし、宝くじが当たる前日のあなたに戻っています」  良かった。  秀哉から告白された2日後に戻るのだ。  もし、秀哉から告白を受けるより前の日に戻るのであれば、権利を使うことは考えられない。ひょっとして、秀哉の告白を受けられなくなるかもしれないからだ。 「そういうことなんですね」 「それを踏まえた上で決めてください」 「わかりました。では権利を使わせてください」 「了解しました。では次に、あなたの人生の中のどの部分の何をやり直したいのかを決めてください」 「1つなんですよね」 「そうです。選べますか」  萌乃の頭の中でいくつかの場面が浮かんだけど、すでに決まっていた。 「はい。もう決まっています」 「ほう。ここで悩まれる方が多いのですけどね」 「大丈夫です」 「そうですか。それでは、最後にこの誓約書に、あなたがやり直したい内容を書いていただいた上でサインしてください。内容は簡単で結構です。自動的にその『時』に戻りますから」  自動的に戻る?  きっと気づいたらその『時』に戻っているということだろう。 「そうですか」 「ただし、一番重要なことは、もしあなたが、書かれた内容と違ったことをやり直してしまった場合、二度とこちらの世界には戻れなくなるということです。これは脅しではありません。厳然たる事実です。不幸なことに、これまで数人の方が戻れなくなっています。もっとも、それが不幸とは言い切れないですがね。ただ、せっかくこちらで始めることができた新たな人生を捨てることになります。ですから、よく考えてください。もし考える時間が必要ならおっしゃってください。この場で、その時間を作ります。桧山萌乃様、どうされますか?」  一瞬心が揺らいだ。実際に前世に戻った場合、その時の感情で違う行動を取ってしまうかもしれないと思ったからだ。でも、こちらの世界に戻れないという高坂の言葉に疑いの余地はなかったことも確かだ。  宝くじが当たる2日前に萌乃は秀哉から結婚の申し込みを受けた。だから、絶対にこちらに戻る必要があった。というより、だからこそ、あのことにケリをつけたいとも思った。 「ありがとうございます。でも、大丈夫です。私には迷いはありません」  高坂がじっと萌乃の目を見つめて言った。  この人の目には人の真実を見抜く迫力があると思った。 「意思の強い方とお見受けいたしました。では、書類を書き終えたら私を呼んでください」  誓約書に内容を書いているうちに当時の情景とともに当時の感情が蘇ってきて苦しくなったが、何とか書き終えた。早速、高坂を呼ぶ。 「お疲れ様です」 「この後、私はどうすれば?」 「このままここに居てください。あのスクリーンに再び映像が流れます。その時、あなたの身体は空になり、映像の中に入っています。つまり、前世のあなたに戻っています。ただし、あなたはそのことに気づくという意識すらないと思います。そして、映像は今あなたが誓約書に書いていただいた内容に応じて必要な『時』だけが流れます。なお、私は先ほどから『映像』という言葉を使っていますが、もう桧山様もお気づきのとおり、その中の世界は決して虚構の世界ではありません。前世そのものです。そのことを決してお忘れなく」 「はい。わかりました」 「心の準備はよろしいでしょうか」 「はい」 「ではまた私はこの場を離れますね。あっ、私としたことが、一番大事なことをお伝えするのを忘れておりました」 「はい?」 「桧山萌乃様、あなたの場合、やり直しが済んだ当日の午後5時59分までに、この本店の横にある行員専用の出入口から入ってください。もし間に合わなかった場合、戻りたくともこちらには戻れなくなります。よろしいでしょうか?」  高坂から念を押されたが、萌乃にとってそれは難しいことには思えなかった。 「はい、わかりました」 「そうですか。では、行ってらっしゃい」  そう言って高坂が去り、再びスクリーンがするすると降りてきた。  次第に緊張が高まってくる。  スクリーンが止まり、再び映像が流れ始めた…。 四  透明な静けさの中、窓の外の闇は薄く柔らかかった。 「今日も残業?」  部長室から出てきた稲垣徹が前川里穂の横に立って言った。 「はい」  少し前までは、里穂以外にも3人残業していたが皆帰り、今は里穂一人になっている。というより、里穂はみんなが帰るのを待っていた。 「あんまり無理しないで」  稲垣の声が甘やかに聞こえてしまう。 「はい。でも、もう少しですから」  本当は今日やるべき仕事はすでに終わっていた。 「そう。じゃあ、終わったら声かけて」 「わかりました」  今自分は稲垣と同じフロアに二人きりだ。そう思っただけでドキドキした。  気がついた時には稲垣のことが好きになってしまっていた。何か好きになるきっかけの出来事があったはずだけど、それすら思い出せない。  今はとにかく稲垣の傍にいて、顔を見たり会話できるだけで十分だった。いや、同じ空間にいられるだけで幸せだ。だから、それ以上のことは望んでもいない、つもりだった。自分には付き合っている彼氏がいたし、部長の稲垣は既婚者だったから。  それでも、心のどこかに踏み込みたいという思いがあったのかもしれない。不倫なんてカッコ悪いとずっと思っていたくせに…。  1時間ほど経って部長室のドアをノックする。 「前川です。終わりました」  外から声をかけた。  なぜか中には入れない。 「了解。ちょっと待ってて、すぐ行くから」  仕事のチェックをするということだろうと思って自席に戻る。約5分後、すっかり帰り支度を終えた稲垣が部屋から出てきた。 「お待たせ」  お待たせ?  どういう意味?  きょとんとしている里穂に稲垣がにこやかな顔を向けた。 「もう時間も時間だし、軽く食事でもして帰らないか。もちろん、何か予定があるのなら断ってもらってもいいんだけど」  無理な誘いはパワハラになりかねないので配慮したのだろう。  もちろん、里穂に断ることなどできるはずもなかった。 「ご一緒させてください」 「そう。良かった。今日は僕がおごるから、おいしいものを食べに行こう」  わざわざ『僕のおごり』と言ってくれたことでプライベート感があって嬉しかった。  稲垣が連れて行ってくれたのは、青山にあるしゃぶしゃぶ店だった。高級店の個室だったことで特別感があった。  席に着くなり稲垣は開口一番にこう言った。 「迷惑じゃなかった?」  過去に部下の女性からパワハラと言われた経験でもあるのか、稲垣は先ほどから相当に気を遣っている。 「部長、そんなに気になさらないでください」 「そう。でも、本当は断りたかったけど断れなかったんだとしたら申し訳ないと思って」 「大丈夫です。私、こう見えて案外はっきりしているタイプなんです。ですから、嫌な時はちゃんと断ります」 「それを聞いて安心したよ。僕の立場としてはパワハラにならないよう最善を尽くさなければならないからね」 「部長も大変ですね」 「いや。今のご時世当然のことだよ。ということで、何を食べようか」  スタンドに挟まっていたメニューを取り出し、里穂の前に広げながら言った。 「私、嫌いなものないですから」 「そう。じゃあ、とりあえずは僕が選ぶね。前川さんが頼みたいものがあったらなんでも追加してね」 「はい」  おつまみの刺身盛り合わせや枝豆やサラダ、その他複数の一品料理と日本酒の熱燗を頼んだ。 「前川君って、結構いける口なんだね」  会食を初めて1時間半ほど経ったところで稲垣が里穂の飲みっぷりを楽しそうに眺めて言った。 「実は私の家、お酒飲みの家系なんです」 「あっ、そう。うちと同じだ」 「へえー、部長のところもそうなんですか」 「そうそう。でも、どうやら前川君のほうが僕より強そうだな」 「さあ、どうでしょう」 「そんなこと言うんだったら、酔わせちゃおうかな」  いたずら小僧のような顔の稲垣。  もちろん、そこに何か意味があるとは思っていなかった。だが、里穂もいたずら心でちょっと稲垣を刺激した。 「私を酔わせてどうするの。あっ、ちょっと古かったかな」  子供の頃、父親から聞かされたCMの台詞をまねて見たのだ。自分なりに少し色っぽい表情を加えて。 「確かにちょっと古いかな。でも、そんな顔されたらドキドキしちゃうじゃないか」 「えっ、ドキドキしました?」 「うん、した。あっ、でもこれって、セクハラになるのかな」 「もおー、気にし過ぎですって、部長。私は大丈夫ですから。それに、そう言っていただくのは一人の女性として嬉しいです」  そもそも自分が仕掛けた会話である。かといって、稲垣ではななく他の人から言われたらセクハラと思ったかもしれないが。 「ほんと。じゃあ、思い切って告白しちゃおうかな」  稲垣の瞳の底で水のように透明な炎が揺らぎ立ったのを見逃さなかった。 「えっ、告白って何ですか?」  里穂は期待してはいけないことを期待してしまった。 「実は、前から前川君のことが気になっていたんだ」 「気になっていたって,どういう意味ですか?」  女として、そんな中途半端な言葉は聞きたくないという思いが出てしまった。それを感じたのであろう。酔って赤くなった顔を懸命に引き締めた稲垣が、覚悟を決めたように告白した。 「はっきり言うよ。好きになっていた」  正直言えば嬉しかった。ずっと聞きたかった言葉であり、同時に聞いてはいけない言葉でもあった。 「そんな…」  すんなり受け入れているとは思われたくなかった。  だから、こう言うしかなかった。 「妻子のある身の僕がこんなことを言っちゃいけないってわかっているんだけど、心の中に留めておくことができなくて。ごめん。忘れてもらっていいよ」  稲垣はきっと臆病な人なのだろう。『忘れてもらっていいよ』という言葉をつけ加えることで逃げられるようにしている。  それはズルイ。  そんな言葉は聞きたくなかった。 「忘れられるわけなんてないじゃないですか」  今さら逃げるなんて許さない。  里穂の強い口調に稲垣は怖気づいているように見えた。 「ごめん。傷つけてしまったね」  本気で言っているのだろうか。もしそうだとしたら、ピントがずれていて、ひどくもどかしい。 「そういうことじゃなくて…」 「きっと、前川君には恋人がいるだろうし、その人に対しても申し訳ないと思っているよ」 「いませんよ。今そんな人は」  嘘をついた。  この瞬間に私の人生は歪み始めた。 「そうなんだ」  稲垣は複雑な顔をした。 「それに、部長のこと私もずっと好きでしたから」  タガが外れてしまった。  いや、自ら外した。 「そう。嬉しい。でも、自分には妻子がいるんだ」  自分のほうから里穂の心に火をつけておきながら、積極的になった里穂に鎧を被ってしまった。本来保守的な男なのだろう。 「部長って、案外、臆病なんですね」  元来プライドの高い生き物である男が一番言われたくない言葉をぶつけた。  嘲笑している里穂の顔を見て、さすがにムッとしたような表情を見せたが、すぐに元に戻した。ここらへんは大人だ。 「そうかもしれないね」  唇の端っこを若干噛みながら苦笑いのようなものを浮かべている。 「部長、私は部長に奥様がいらっしゃることは百も承知です。それでも私は部長のことが好きです。だから、お願いですから私と付き合ってください」  一度走り出してしまった列車はもう止められなかった。きっとブレーキも壊れていた。 「前川君……」  冷めてしまったしゃぶしゃぶ鍋の中に目を落としながら稲垣は必至で何かと闘っているようだった。そんな稲垣を見て、里穂はとどめをさした。 「どんな結果になろうと、私は受け止める覚悟を持っています」  そう言った里穂の目を長い間見つめて、ようやく稲垣は決意を表した。 「わかった。君の思いを受け止めることにするよ」  ひどくカッコイイ始まりだったけど、いざ始まってみると、どこにでもあるような不倫の愛憎劇のスタートに過ぎなかった。 五  当時付き合っていた男とは別れ、本格的に始まった不倫劇は底なし沼のようで、抜け出せなくなっていた。ジェットコースターに乗っているかのように、喜びも、苦しみも、悲しみも、すべての感情が縦にも横にも揺れ続ける。辛いけど、ある種の中毒のようで止めるに止められなかった。  そんなある日のこと。  ずっと仕事が忙しくて休みのとれなかった里穂だったが、珍しく土曜日に休めることになった。  飽きるぐらいたっぷり寝たのだけど、それでも飽き足らず、目が覚めても布団の中でぐずぐずしてしまい、結局起きたのは昼近くだった。  このままじゃ自分が腐って腐敗臭でも放っちゃうような気がして、午後になって銀座に出かけた。  特に目的や買いたい物があったわけではない。でも、久しぶりに街を歩きながらウィンドウショッピングをしていると楽しくなった。女なんて単純だと思う。  最近仕事が詰まっていた上に稲垣ともあまりうまくいずイライラしていたので、いい気分転換になりそうだ。  少し歩き疲れたのでビルの2階にある『樹の花』という名の喫茶店に入り一休みする。おいしいケーキを口に運び、コーヒーを飲みながら街行く人々をただ眺めていると不思議に心が安らぐ。土曜日のせいかカップルも多いけれど、一人で颯爽と歩く女性の姿も見える。本当のところはわからないけれど、みんな幸せで、楽しそうに見えてしまう。  突然、世界中で自分だけが取り残されているような感覚に陥り、内臓が空っぽになる。。 「はあ」  思わずため息が漏れる。  嫌なことを忘れるためにここまでやってきたのに、こうして一人になると思い出してしまう。仕事はしんどい思いをしているものの、あと少し頑張れば終わる。やはり、里穂の頭の中を占めているのは稲垣のこと。最近、明らかに様子がおかしい。  テーブルの上に置いた携帯が目に入る。  どうしようか迷ったが、稲垣に電話してみる。  だが、出ない。  数日前に喧嘩をした。  まだ怒っているのか。  しょうがないので、ラインを入れて見る。 ー今何してるの?ー  どうせ返事はないと思っていたが、返事が来た。 ー家で仕事をしてるー ー私、今銀座にいるんだけど出て来れない。この間のこと謝りたいしー ーこの間のことなら、もう気にしてないよ。でも、悪い。今仕事をしているから出られないよー ーわかった。じゃあ、いいー ーすまないー  冷めたコーヒーを一口啜る。  なんでだろう。  ひどく惨めな気持ちになってしまった。  この後、どうしよう。  もう少し街ブラをするつもりだったけど気力が失せた。  家に帰ろう。  そう思ってバッグを手に取り立ち上がって窓の外を見ると、傾いた太陽が真正面位あった。太陽から目を逸らし、ふとく歩道を見下ろすと一組のカップルがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。  女は男にしなだれかかるようにしながら男の腕に自分の手を絡めている。顔には愛されている者の幸せ感が漂っていた。  一度だけ見たことのある稲垣の家族写真の中の妻の顔だった。  もちろん、隣の男は稲垣だった。  稲垣も時々女の顔を見ては楽しそうに笑っている。  心と身体がが冷えた蝋のように固まる。  女から自分のことは見えていないはずだが、女は自分に向かって『見て。私が妻よ。あなたなんかに稲垣は渡さないわよ』と言っているように見える。  一度立ち上がった里穂はへなへなとまた座り込んでしまった。 二人は夫婦なのだから銀座を手を繋いで歩いていても不思議はない。でも、稲垣は私に嘘をついた。ついさっき里穂の電話を受けた時にすでに二人は銀座にいた。  そのことが気に入らなかった?  確かにそれはあった。  でも、里穂の心が乱れたのは、それが大きな要因ではなかった。どうせ、今までも何度も嘘をついていたに違いないから。そうではなくて、二人が夫婦であるという『事実』を見てしまった。いや、見せつけられたからだ。  負の感情が波のように襲ってきた。  女として一番輝いているはずの25歳から29歳までの4年間を稲垣に捧げた結果がこれだったことに、里穂は雑巾のように胃を絞られるような痛みを感じた。  この時、里穂は稲垣と別れる決心をした。  月曜日に稲垣に電話をして、その週の土曜日に会う約束をとった。最初は忙しいから土曜日は無理だと言っていた稲垣だったが、大事な話があるからと言ったら、しぶしぶ了解したのだ。 「なんか久しぶりだね」  里穂の部屋にやってきた稲垣は所在なさげな顔で言った。  後ろめたさでも感じているのだろか。  いや、そんな殊勝なところなどはるはずもない。 「そうね。そっちのせいだけどね」 「何だよ。里穂が突然怒り出したからじゃないか」  顔を合わせると何でこう喧嘩になってしまうのだろう。  このところずっとそうだった。 「もういいわ。とにかく座ってよ」  リビングの端っこで突っ立ったままの稲垣に向かって言う。 「わかった」  稲垣が座ったのを確認して里穂はキッチンに向かった。 「何飲む?」 「コーヒーにしてくれる」  いつもならビールと言うところだけど、稲垣もそういう空気じゃないと思っているようだ。 「わかったわ」  付き合って間もない頃、六本木の骨董市で買ったお揃いのマグカップにコーヒーを注ぎ稲垣の前と自分のところに置く。  稲垣は複雑な顔でマグカップを手にして一口コーヒーを飲んだ。緊張のためか、ゴクリと喉を鳴らした。里穂は、その喉仏を見つめた。 「話って何?」  早く用件を済ませたいという思いがあるのだろう、稲垣が勢い込んで言った。 「先週の土曜日のことなんだけど」 「先週の土曜日?」  怪訝な顔を里穂に向けている。 「そう。土曜日」 「で?」  何を問われているのか稲垣にはわからないのだろう。 「あの日の午後何してた?」 「ん?」  ひどい男だ。  何もかも忘れているのだ。 「私、電話したじゃん」  そう言われて稲垣は必死に記憶を呼び戻していた。 「ああ。確かに電話もらったね。あの日は、そう、家で仕事をしていたよ」  そう答えたことを思い出したのだ。 「嘘よね。私、銀座であなたたちを見たもの」 「……」  事実を言われ、言葉に窮した稲垣はだんまりを決め込んだ。 「何で黙ってるわけ?」  それでも宙を見つめたまま黙り続けている稲垣に、里穂はただ呆れる。 「嘘をついたわけ?」  止む終えず畳み込む。 「いや…」  ようやく答える気になったらしいが、稲垣に生気はない。 「いや?} 「本当に仕事をしていたんだ。ただ、妻が急に出かけたいと言い出して…」  何とかこの場を逃れたいという思いだけで、へんな言い訳をし始めた。男の弱さとズルさから出た言葉だろうが、そんな言葉でごまかされない。 「そんな常葉で言い逃れできると思ってるの」  うつむき加減の稲垣に、裏切られた女の強い言葉を浴びせた。 「何だよ」  強い言葉に反発するように稲垣の言葉が大きくなった。 「何だよって、開き直るわけ」  負の連鎖はおうおうにして悪い結果をもたらす。 「あのさあ、別れてくれないか。俺、そういうの、無理だから」  稲垣が突然別れを切り出した。  あまりの不意打ちに、今度は里穂が言葉を失った。 「なんで……」され、この数か月の時間の流れが特殊な道筋を持った。 「もういいだろう」  稲垣に諭すように言われ、里穂はこの数カ月の時間の流れが特殊な道筋を持ってものであることを理解した。 「い」  いいわ、と言おうとした。いや、その時はいいわと言ってしまった。だが、いいわと言ってしまったら稲垣の書いたいたシナリオ通りにコトが運び、ほくそ笑むのは稲垣だけ。自分はここをやり直すためにこの場に戻ってきのだ。 「いやよ。私、別れないから」  だが、こういうことも稲垣にとっては想定内のことだったのかもしれない。 「そんなこと言わないでくれよ。もう、俺たち無理なの、君だってわかっているだろう」  一語一語を慎重に塊りの中に滑り込ませるようにしながら説得を始めた。  どんな手を使ってでも別れたいという稲垣の一方的な思いが伝わってくる。 「勝手なこと言わないで。奥さんとはうまくいってない。もう少しで別れることになると思うからってずっと言ってたのを、私は信じてたのよ」 「確かにそういう時期もあったけど、俺、君と一緒に過ごすの疲れちゃったんだ」  稲垣の言うこともわからないことはなかった。  里穂自身も稲垣との生活に疲れていた。  しかし、ここで同意することなどできない。 「ひどい。そんな言葉で終わらせようというの。私が黙って受け入れるとでも思った?」  なんだかんだといって里穂は別れてくれると、稲垣は高をくくっていたはずだ。 「君なら理解してくれるかなと」  男は時として理屈に合わない理屈を女に向ける。それでやり過ごすことができると思われているほど、バカにされていた。 「理解? 冗談じゃないわ。私を見くびらないでね。もしあなたが一方的に別れようとするつもりなら、私はあなたに不都合な行動を取らざるを得なくなるけど、それでもいいの?」  役員候補一番手の稲垣にとって、部下との不倫の発覚ほど都合の悪いことはない。誰よりも稲垣がそのことをわかっているはずだ。情事の時の写真を始めとした二人の関係を証明する証拠物が里穂の手元に山ほどあることも稲垣はわかっている。 「そんなことしたら、君だって傷つくんだぞ」  自分に向けられた刃を相手に向け直した。これも男の常套手段。  早い話、逆ギレだ。  そう思われないために稲垣は里穂の良い理解者のような顔を作って見せた。 「それがどうしたって言うのよ」  逆切れには逆ギレで答えた。 「やめろ」  稲垣が鬼のような形相をして睨めつけてきた。  ひょっとして、私、殺される?  一瞬そんな思いが頭を過ったが、稲垣にそんな勇気はないし、それほどバカでもない。 「何よ、そんな大きな声だしても、私なんともないから。いずれにしても、あまりに一方的で突然の申し出を受け入れるつもろはないうこと。私は、あなたにも私と同じようにまだ私に対する愛情が残っていると信じてるから」  もちろん、本気でそんなことなど思っていない。稲垣をかわすだけのために言ったことに過ぎない。 「わかった。君の気持ちは尊重するよ」  あれほど感情をむき出しにしていた稲垣が急に大人しくなった。役員への道を守るためにも、ここは休戦状態に持ち込んだほうがいいと判断したのだろう。もちろん、稲垣の中に自分とよりを戻したいという気持ちなどさらさらないことはわかっていた。  稲垣が帰り、淡いため息をつく。  一人ぽっちになった夜は、悲しみが放物線で落ちてくる。  こんがらがった感情を抱えた里穂の身体をLEDの光が優しく包んでいく。 六  里穂の直属の上司にあたる課長に2週間の有給休暇の申請をした時、一瞬嫌な顔をされたが、OKをもらった。今時、相応の理由がない限り却下はできない。  その日の夜、さっそく稲垣から電話が入った。課長から情報が入ったのだろう。 「どうした?」 「何?」  一応とぼける。 「2週間休暇を取ったって聞いたから」 「ああ。一人旅に行ってくることにした」 「そうか。それもいね。楽しんできて」  理解を示すふりをしているけど、その実、ほっとしているに違いない。 「ありがとう」  そう答えておいた。  翌日、里穂はすでに調べてあった稲垣の妻のまり恵が通うテニスクラブに入会した。まり恵がここ数年テニスにはまっていて、車で30分ほどのところにあるクラブに週2回通っていることは稲垣が口走ったのでわかっていた。 「あっ、どうも。最近入会された方ですか」  女が華やかな風を運んできた。  ロッカーの椅子に座っていた里穂にまり恵が声をかけてきたのだ。  予定通り、獲物が罠にかかった。  まり恵の行動は探偵を雇って調べ尽くしていたので十分わかっていたのだ。  それにしても、改めて見るまり恵は美人だった。  卵形の小さな顔に涼しく切れ長の目。筋の通った、でも嫌味のない鼻。ふっくらとした唇。残念ながら色気では負けている。いかにも稲垣の好みの顔。それに、テニスをやっているだけのことはあってスタイルも抜群だ。 「ええ。実は昨日入会したばかりなんです。私、大島心愛といいます」  もちろん、偽名だ。 「そうですか。よろしく。私は稲垣まり恵といいます。でも、ここあって名前、すごく可愛いですね」  本来は自分の敵といっていい相手だったが、まっすぐな美しい目で見つめられると戦意が弱まる。 「ありがとうございます」 「心愛さんって、多分私と同じ年代ですよね」 「私ですか。私は26歳です」 「じゃあ、2つ下だ。でも、このクラブ私たちの年代の人少ないから嬉しいわ」  40代以上の人が多いと事務所の人から聞いていた。 「なんかそうみたいですね。先輩、ぜひ、いろいろ教えてください」 「先輩だなんて」  そう言いながらもまり恵は嬉しそうな顔を向けてきた。 「だって、そうでしょう」 「まあ、そうね。任せて」  いたずらっぽい笑顔を見せた。それが憎らしいほどきれいだった。 「ありがとうございます。あのお、会ったばかりなんですけど、帰りにお茶しません。いろいろお聞きしたいこともあるし」  自分には2週間しか時間がない。ゆっくり行動している暇はないのだ。 「いいわね。楽しみ」  その日を境に、まり恵と里穂の距離はすぐに縮まった。お互い社交的な性格だったこともあるけれど、里穂が積極的にまり恵にアプローチしたことで時間はかからなかった。そして、 「うちに来ない」  ついに、まり恵から里穂が望んでいた台詞を引き出した。 「ぜひ、ぜひ。噂のご主人のお顔も拝見したいし」  まり恵は純粋に稲垣のことを愛しているようで、これまでにもさんざんノロケのようなものを聞かされてきた。 「ふふ。主人も驚くと思うわ。心愛さんみたいな素敵なお友達を紹介するの初めてだもの」 「そう言っていただくと私も嬉しいわ」  里穂が取った2週間の有給休暇が終わる2日前の日曜日に、里穂は稲垣の家に向かった。以前、稲垣から誕生日プレゼントで贈られたラルフローレンのワンピースを着て、同じく稲垣に買ってもらったネックレスを身に着け、稲垣の好きな香水をつけ、稲垣が好んだコーラルピンクの口紅を塗った。鏡に映った自分の姿を見て、なぜか涙が流れた。 七  太陽が何にも遮られずにまっすぐ降り注ぎ、いやになるほど夏だった。  影を縫うように人々の白いシャツが遠ざかっていく。  駅前で迎えてくれたまり恵と並んで歩きながら稲垣の家を目指す。 「駅からどのくらいなの?」  まり恵は2歳上だが、すでにため口を交わす関係になっていた。 「7分くらいかな」  本当のところ、里穂はすでに稲垣の家の様子を探るために何度もこの道を歩いいて、よく知っている。 「近くていいわね」 「そうね」 「今日、ご主人いらっしゃるのよね」  そうとは聞いていたが、念のため確認する。稲垣がいなかったら何の意味もない。 「もちろんよ。何日も前から里穂さんに会えるの楽しみだって言ってるわよ」 「えー、嬉しい。でも、会ってがっかりされちゃうんじゃない」 「そんなこと絶対ない。だって、里穂さんってすべてが素敵だもの。美人だし、可愛いし、スタイル抜群だし、それに理知的だし」  ここまで褒められると、弄ばれているような或いは試されているような気分になる。 「やめてよ。それって、まり恵さんのことじゃない」 「ううん。そんなことない。里穂さん、素敵よ。私、大好き」 「もう、褒め過ぎ」  嬉しくないわけはなかったが、これから自分が仕掛けることを思うと若干後ろめたかった。 「ほんとだから」  今度は怒るように言われ戸惑う。まり恵は自分のことを予想以上にいい女として稲垣に話しているみたいだ。もともと女好きの稲垣がどんな女を想像しているのかと思うと笑えた。実際に自分のことを見た時の稲垣の反応が今から楽しみだ。  住宅街の一番奥に並ぶ高級住宅街の中に稲垣邸はある。 「あっ、ここ」  まり恵が指さした。 「まあ立派だこと」  立派なのである。里穂が最初にこの家にたどり着いた時、その豪邸さに驚いた。上場企業の部長の家にしても豪華過ぎた。今回の探偵の調査で、稲垣の妻が資産家の娘であると知って納得した。  つまり、自分と関係を持った当初から稲垣は妻と別れる気など、さらさらなかったのだ。 心をすり減らしながら築き上げていたつもりの幸福感は暗く痛い記憶に過ぎなかった。目の前の勝ち誇ったかのようなまり恵の顔に静かな殺意を覚えた。 「そんなことないわよ」  まんざらでもない顔で言われ、築20年の賃貸マンションに住む里穂は内心ムッとする。  まり恵が玄関ドアを開け、中に声をかける。 「あなた、お連れしたわよ~」 「は~い」  これから起こることを何も知らない稲垣の、妙に浮ついた声がこえる。  しばらくして、ジーンズにセーターというラフな姿の稲垣が現れた。 「あなた、噂の心愛さん」  まり恵が自分のことを指しながら言った。そんな自分を見た瞬間の稲垣は、一瞬キツネにつままれたような表情をした後、凍りついた。久しぶりに稲垣の顔を見て、不覚にも胸を締め付けられるような懐かしさを感じてしまった里穂は身体中の体液が波打っているような不思議な感覚になった。  一度凍りついた稲垣の表情が次第に赤みを増し、必死に時間の断片を寄せ集めている様子が伺えた。そんな稲垣の狼狽えぶりを冷ややかに見ているだけで、自分がここに戻って来た意味を感じることができた。 「どうも…、はじめまして」  稲垣が戸惑いの表情のまま言った。  懸命に気持ちを立て直そうとしているのがわかる。  『はじめまして』?  そう言うしかなかったのだろうが、笑える。 「どうもって、あなた。心愛さんがあまりに綺麗なんで上がっちゃったんじゃないの。目がまん丸よ」  目がまん丸な理由は全く違うところにあることをまり恵は知らない。  どこまでも天真爛漫なまり恵が三文芝居の中に出てくるピエロのようでひどく哀れに思える。 「失礼しました。まっ、どうぞお上がりください」  そう言って、自分と目を合わすのを避けるために、用意してあったスリッパに目を落とした。なんとか自分の感情をコントロールしようとしている稲垣だが、心なしかその手が震えて見える。 「あっ、その前に、ここで自己紹介させてください。私、最近奥様と親しくさせていただいております大島心愛と言います」  ちゃんと目を合わせたいがために、心愛(里穂)が仕掛けた。  やむを得ず稲垣も顔をこちらに向けた。だが、その顔には、『どうして、ここに来た』と書いてあった。 「そうですか。妻がお世話になっております。とにかくどうぞお上がりください」  そう言って稲垣はさっさと奥に進んだ。そんな稲垣の後をまり恵と自分が追っていく。15畳はあるかと思われる広いリビングにたどり着く。 「さずが大手企業の部長さんのお宅だけあって立派ですね」  さりげなく周りを見渡しながら心愛(里穂)は言う。 「いや、そんなことないですよ」  そう答えた稲垣の横に、まり恵が、当然のように座った。 「お似合いのご夫婦ですね」  稲垣の顔を見ながら皮肉を込めて言ったが、答えたのはまり恵のほうだった。 「そうかしら」  まり恵が嬉しそうに答える。 「まり恵さん、羨ましいわ。聞いていた通りのイケメンで素敵な旦那様で」 「ほんと? 嬉しいわ」  純粋に喜ぶまり恵が憎らしいが、可愛らしくもある。だが、隣の稲垣は何とも言えない顔をしている。 「馴れ初めはどんなでしたの?」  稲垣が答えるはずもないので、あくまでまり恵に向かって訊く。 「私たち、高校の同級生なの」 「へえー、そうなんだ」  思わず大きな声が出た。稲垣からは社会人になってから知人の紹介で出会ったと聞かされていた。どうでもいいような嘘をつかれていたことに、今更ながらがっかりする。 「そうなの。でも、ちゃんと付き合い始めたのは大学に入ってからよね、あなた」  振られた稲垣は困り切ったような顔をしていた。 「そうだね」 「同じ大学だったの?」 「ううん。大学は違ったけれど、偶然同じサークルに入っていて、試合で再会したってわけ」 「ちなみに、そのサークルって?」 「テニスサークル」  まさか稲垣もテニスをしていたとは。  全く聞いたことがなかった。 「どうりでまり恵さん、うまいわけだ」 「そんなことないわよ。サークルって言っても同好会程度だったから」 「ふ~ん。それで、付き合ってほしいって言ったのは、もちろんご主人のほうからですよね」  まっすぐ稲垣の顔を見て言う。  どうしても、稲垣に答えさせたかったから。  だが、今度も答えたのはまり恵だった。 「そうなの。高校生の頃からずっと好きでしたとか言っちゃって」 当時のことを思い出したのか、まり恵はいかにも楽しそうに言った。  だが、隣で稲垣はなんとも間抜けな顔をしていた。 「あらあ。それからずっと?」 「そうね。途中、それなりにいろいろあったけどね」  そう言ってまり恵は隣の稲垣の方を見た。本当は顔を合わせたかったのだろうが、稲垣は少し俯いていた。 「まあ、長く付き合っていればいろいろあるわよねえ。ところで、ご主人にお聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」  思いっきり笑顔で訊く。もちろん、稲垣が断ることなどできないと知っての上でだ。 「何でしょうか?」  稲垣のほうは警戒心でいっぱいだ。 「奥様のどんなところに惹かれたんですか?」 「やだ心愛さんたら、恥ずかしいじゃないの」  さして恥ずかしそうにも見えないが、ここでも稲垣よりも先にまり恵が反応した。 「私もいずれ結婚すると思うんで参考にしたいじゃない」  まり恵に答えたのだが、あくまで稲垣だけを見て言う。 「ああ、そうよね。ですって、あなた」  『あなた』と言う時の、まり恵の若干鼻にかかった声が苛つく。 「そうですねえ…、性格が可愛らしいところですかね」  ここでようやく稲垣が答えた。  妻に振られ、答えざるを得なかったからだ。  確かにまり恵にはそういう面がある。しかし、性格の可愛らしさを出してくることが姑息だ。 「ええー? 性格ですか。本当は奥様の美貌にやられちゃったんじゃないですか」  せっかくの機会だ。この際、徹底的に稲垣を困らせたい。 「もう、やめてよ心愛さん」  まり恵が両手で自分の頬を挟みながら言う。天性のぶりっ子のように。  さっきからずっと部屋の空気は重く息苦しいくらいだったが、まり恵は何も感じていないようだ。  すると突然稲垣が立ち上がった。 「じゃあ僕はこのへんで失礼します」  あまりの事態にいたたまれなくなったのだろう。稲垣がこの場から逃げようとした。 「何言ってるの、あなた。心愛さんはあなたに会ってお話するのを楽しみにいらっしゃったのよ。だから、ここにいて」  思いのほかまり恵が強めの口調で言いながら、自分の横のソファーを叩いた。 「わかった」  まり恵としては自分の友達に対し失礼な態度をとった夫が許せなかったのだろうが、心愛(里穂)にとっては、ただただおもしろい。 八  逃げることができないとわかって不承不承もう一度ソファーに座った稲垣の顔には諦めのようなものが浮かんでいた。 「そう言えば、この間駅前で田中さんに偶然会ったのよ」  まり恵が同じテニスクラブのメンバーの話を始めた。自分としてはそんな話はどうでも良かったが、乗らないわけにもいかず、しばらくはテニスクラブ関連の話になった。その間、稲垣は庭の外を見たり、腕組みをしながら二人の会話を聞いていたが、心ここにあらずの様子で、足を小刻みに揺らして苛立ちを表していた。 「ご主人飽きちゃったみたいよ。さっきからずっと貧乏ゆすりしていらっしゃるもの」 「えっ、そうなの。あなたって貧乏ゆすりなんかするんだ。驚き。でもごめんなさい」  どうやら稲垣はまり恵の前では貧乏ゆすりをしたことがなかったようだ。  突然自分が現れたことが相当堪えているのだ。 「いや」  稲垣は短く反応しただけだった。 「そうそう、あなた。心愛さんに訊いてみたいことがあるって言ってたじゃない。それを訊いて見れば」  今自分を目の前にして、怨み事を吐くならともかく、訊きたいことなどあろうはずもないのだが。 「う~ん。今どんなお仕事をされているんですか?」  稲垣は突然押しかけて来て自分を困惑の渦に陥れている自分に、腹いせのつもりでこんな質問をしたのだろうか。まさか同じ会社に勤めているとはいえないだろうと高をくくっているのか。確かにそれを言えばその瞬間ゲームセットになってしまうので止めることにする。自分としても、もう少しこの状況を楽しみたい。 「派遣で働いています」 「ほう」  自分も自分だけど、稲垣もおかしな反応をする。 「今はどんな会社に行ってるんですか?」  稲垣も若干おもしろがっている様子が伺える。 「株式会社大山さんです」 「えー、そうなの。確かあなたの会社の子会社よね」  稲垣と自分が勤務するジェイパック社は大手企業で子会社も含め関連会社がたくさんある。そのうちの一社の社名をあげた。思わぬ社名をあげられ、稲垣は自分が仕掛けたことを後悔したようだ。 「そうだったんですか…」  急に声が小さくなる。 「驚きよね。心愛さん、案外あなたの近くにいたのね」 「そうだな…」  もう余計なことは言わないと決めたようだ。 「その会社にいい人はいないの」  何も知らないまり恵が、その余計なことを訊いてきた。ならば乗ってやる。 「残念ながらいないんですよね。ご主人みたいな素敵な人がいればいいんですけどね」 「ふふ。そうよね」  まり恵がまるで自分との競争に勝ったかのような満足げな顔をした。そのことが心愛(里穂)には許せなかった。 「そうなんですよね。これ想像なんだすけど、ご主人て仕事ができそうですし、イケメンだから会社でもモテるんじゃないですか?」 「どうなのかしらねえ」  まり恵は、モテてほしいような、ほしくないような、曖昧な顔をで言った。 「いや、ぜんぜんモテないですよ」  稲垣は強過ぎない程度に否定した。あまり強く否定すればかえって疑われるのがわかっているから。 「そりゃあ奥様の前ではそう言うしかないですよね。でも間違いなくモテますよ、ご主人は。もし私が今働いている職場にご主人がいたら、私、不倫相手になっちゃうと思うもの」  ここが今日のクライマックスシーンだ。さすがに稲垣は顔色を変えた。だが、その稲垣よりもいち早く怒りを口にしたのはまり恵だった。 「やめてよね」  まるで目の前にいる不倫相手に言うような尖った大きな声だった。  確かにいるのだけど… 「あら、どうしちゃったのまり恵さん。冗談に決まってるじゃない。だいいち、ご主人、私の勤務先にいるわけじゃないし」 「そうよね。私ったら、取り乱したりして。ごめんなさい」  自分の言葉に自分でも驚いているようだった。、もしそれが事実だと知ったらまり恵はどうなってしまうのだろう。そう思うと楽しくなった。  一方の稲垣は無言で自分のことを睨めつけてきた。 「もう。ご主人まで怖い顔で私のこと睨むし。どういうこと」 「心愛さん、本当にごめんなさい。あなたも謝って」  稲垣は何で自分が謝らなければならないんだという顔をしている。それに気づいたまり恵が稲垣を促した。 「あなた」 「すみませんでした」  まり恵からそう言われ、やむなく稲垣も謝りの言葉を口にしたものの、目は怒りで充血していた。 「いや、いいんですけどね。もう、こんな話は止めましょう。お二人のラブラブな話でも聞かせてよ、まり恵さん」  自分の振りに応えるようにまり恵は二人で温泉旅行に行った時の話や、話題のケーキ屋に行った時の話などを喜々として始めた。その内容は自分にとっては聞くに堪えないものだったが、稲垣もずっと居心地が悪そうな顔をしていた。  そんな中、ちらっと時計を見ると、そろそろここを出ないといけない時間になっていることに気づく。 「まり恵さん、盛り上がっているところ恐縮ですけど、私、この後ちょっと寄るところがあるの。で、そろそろ失礼させていただこうと思って。まり恵さんのオノロケでお腹いっぱいだし」 「やだー。ごめんなさい。長々と話しちゃって」  言葉とは裏腹にぜんぜん悪いとは思っていない表情で言われる。 「いえいえ」 「今度またゆっくりいらしてね」 「ありがとう」 「じゃあ、あなた。お見送りしましょう」  玄関で靴を履き、振り返るとまり恵と稲垣が並んでこちらを見ていた。 「今日はお世話になりました。おかげでとっても楽しかったです」 「私たちもよ。ね、あなた」  そう言ってまり恵が稲垣のほうを見た瞬間を狙って、稲垣にウィンクをした。おそらく稲垣ははらわたが煮えくり返る思いだったに違いないが、まり恵に見られているせいで無理矢理自分に笑顔を向けた。  私は勝った。  この瞬間にそう思った。   九  外に出ると、午後のまだ強い陽射しが自分を突き刺した。  今日一日の感触がゆっくりと変形していく。  目の前の景色に視線を戻す。  ようやく目的を達成できた里穂の心は爽快だった。つい数分前まで稲垣邸で交わされていた会話を思い出して、悪魔のようにほくそ笑む。  後は約束の時間までに銀行の本店に戻るだけだ。幸い時間的にはまだだいぶ余裕があった。  電車を降り、乗り換えのために地下道を歩いていると稲垣から電話があった。想定内のことだった。 「はい」 「どういうことだ」  稲垣にとって自分が取った行動は訳が分からないというのが本音なのだろう。 「いきなり何でしょうか」 「ふざけるな」  会話を始めたら怒りが沸騰したという感じだ。 「私はぜんぜんふざけてなんかいませんけど。そんなことより、奥様が傍にいらっしゃるんじゃなくて?」  いるはずもないが、敢えてそう口にした。 「外に出た」 「そうですか。それにしても、とんだ 茶番劇を見させていただいて楽しかったです。あなたの顔ったら、ずっとおかしくて見ていられなかったわよ。それにしても、お二人ラブラブなんですね。別れ話が出ているなんておっしゃってたのはどなたかしらね」 「いろいろあるのは本当だ」  稲垣が苦しい言い訳をした。 「いろいろねえ。でも、そんなのどこの家にもあるんじゃない。もうそんな言葉で騙されないわよ」  そう答えたが、稲垣の耳には全く届かなかったようだ。稲垣はずっと溜まっていたであろう怒りを爆発させた。 「こんなことをしてもいいとでも思っているのか。許さんぞ」  周りに人でもいるのか、大きな声ではなく、低く唸るような声だった。それが余計に威圧的に聞こえる。 「許さない? それはこっちの台詞よ。あなたが私にしたことに比べればぜんぜん大したことないわ」 「何だと」  もはや稲垣に語彙力はない。 「言っておきますけど、これで終わりだなんて思わないでね」 「お前…」  稲垣が自分が一番嫌いな言葉を使った。付き合っていた頃には一度もお前と言われたことなどなかった。 「今私のことお前って言ったわよね」 「ああ、言った。それがどうかしたか。お前はお前だ。それより何をしたかを教えろ」 「ふふ。気になるのね。一つは副社長と専務にあなたとのことのすべてを手紙で知らせたわ。証拠の写真付きでね」 「……」  これにはさすがの稲垣も絶句した。  今副社長と専務は時期社長争そいをしている真っ最中であり、それぞれの陣営が相手側の動きの探り合いをしている。稲垣は専務派の中でも中心的役割を果たしている。そんな中、稲垣不倫の情報は専務にとって大きな弱点となり、逆に副社長にとっては有利に働く。なぜなら、ジェイパック社では創業以来、不倫はご法度事項として強く否定されてきた伝統があるからだ。当然人事面でも大きなマイナスとなり、これまでにも不倫のせいで子会社に飛ばされた部長が何人かいる。恐らく、今回のことで稲垣は専務から切り捨てられる。 「それからもう一つ。あなたが一番愛しているであろう奥様にも同じ内容の手紙をお送りしましたから」 「仕返しか」 「あなたにも私が受けた痛みや苦しみや悲しみを味わってほしいと思っただけよ。じゃあ、私はこれから電車に乗るから。元気でね。バイバイ」  そう言って一方的に電話を切った後、すぐに稲垣の電話番号を着信拒否設定にした。案の定、その後稲垣から何度も着信があったが、もはやまったく気にならなかった。もう終ったこと。今の里穂こと萌乃には約束の時間までに銀行に戻ることしか頭になかった。  あちらの世界で秀哉が待っている。自分たちは結婚するのだ。今度こそ本当に幸せになりたい。だから。絶対に時間までに戻る必要があった。  地下道から地上にあがり、JRの改札口に向かう。だが。人の流れがおかしい。嫌な予感がして早足で改札口にたどり着いたところで愕然とした。人身事故の影響で上下線とも電車が止まっていた。駅員に確認したところ、復旧は早くて2時間後ぐらいになるという。   慌てて時計を見ると、約束の時間までに残されて時間は40分だった。振替切符をもらい並行して走っている私鉄駅に向かって走り出した。遠回りになるため、時間的にギリギリだと思われたが、他に考える余裕などなかった。  私鉄の駅は振替乗車の客でごった返していたが、なんとか乗ることができた。  お願いだから間に合って  心の中で祈る  時計で時間を確認したかったが、すし詰め状態の車内ではそれすらできなかった。  銀行本店のある東京駅に着き、すぐに時刻を確かめる。  あと7分  何とか間に合うかもしれない。  人をかき分けるようにしながら改札口を出て地下道を一目散に走り、3番出口で地上にあがると、銀行本店の姿が見えた。すでに正面入り口は閉まっているので、高坂から事前に言われていた通り職員専用の出入り口に向かって走る。途中、足がもつれそうになるが懸命に走る。ちらっと時計を見ると、あと2分だった。  もう少しでたどり着ける。  見えた出入口が…  誰かがその前に立っている。  男性だ  きっと高坂さんだ  確か、あんな服装をしていた  心配して迎えに出てくれたに違いない  全速力で高坂さんを目指す  あと1分  次第に男性の姿がはっきり見えるようになってきた。  「何で…」  そこに立っていたのは高坂が着ていた服とよく似た服を身に纏った稲垣だった。
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