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一流料亭で出されるような立派な昼食なのに、静江は半分程しか手を付けなかった。エプロン姿の恵理は、トレーを下げながら静江にそっと囁いた。
「今日も行きますか?」
困ったようにもじもじとしていた静江の顔にぱっと花が咲いた。
「あなた、連れて行ってくださる? 助かるわ。今日、八幡様で二時に約束してるのよ」
静江は声をひそめてそう言うと、目を輝かせた。
「わかりました。では身支度を整えましょうか」
恵理が車椅子を用意している間、静江はいそいそとお気に入りの薄紫色のスカーフを何度も巻き直したりして、落ち着かない様子だった。
いつの間にかすっかり黄色に変わった老人ホームの前の街路樹に沿って、恵理は静江の車椅子を押しながらゆっくりと歩いた。
八幡様の境内につくと、静江はあたりをきょろきょろと見まわした。
「ほら、あの人、背が高いでしょ? スラっとしているから目立つはずよ」
何かを思い出したようにはにかんだ静江を、恵理は心から可愛らしいと思った。十五分ほど待ったのだが、とうとう待ち人は現れなかった。
「そろそろ帰りましょうか。きっと都合で来れなくなったんですよ」
恵理は静江のひざ掛けを直しながら言った。
しょんぼりとした静江とともに、ホームの玄関ホールまで戻ってきたところで、彼女の名を呼ぶ声がした。
「静江」
受付カウンターの前から駆け寄ってきたのは静江の夫の栄作だった。
「どなた様?」
静江は低い声で答えると訝し気に栄作を見上げた。
「今、丁度お散歩から戻ったところなんです」
恵理は努めて明るく答えた。「いつもありがとうございます」
小柄だががっしりとした体躯に、ピカピカに禿げ上がった頭は、やり手の社長だったという栄作の経歴にぴったり合致した。
「今日はお前の好きなモンブランを買ってきたよ」
栄作は嬉しそうにケーキの箱を掲げて静江に見せた。
「よかったですね。三時のおやつにぴったりですよ」
二人の声をよそに、静江はさっきまでの浮足立った表情が嘘のように、身じろぎもせずただじっと前を見つめていた。
「ここ数か月で、私や息子のこともすっかりわからなくなってしまって。このままどんどん症状は進んでいくのですかね」
ため息交じりの栄作の問いかけに、恵理は一瞬戸惑った。
「今日は昼食の後に、ご自分からお散歩に行きたいとおっしゃったんですよ」
「静江はなぜか恵理さんにだけは話をするんだな」
寂しそうに微笑んだ栄作に、恵理は苦笑いでうなずくしかなかった。
その日、恵理は家に帰るとまず洗濯物を取り込んだ。子供たちは部活が終わるとまっ直ぐ帰宅するし、夫も判で押したように六時半に会社から帰ってくる。それまでに夕飯の支度を終わらせなければならない。
家族に不自由をかけないことを条件に、パートに出ることを夫に許してもらったのは三年前のことだ。やっと見つけた近所の高級老人ホームのへルパーの仕事は、もともと世話好きな恵理に向いていたようだった。
手早く野菜を炒めていた恵理の手がふと止まった。
静江の症状は随分と進んできた。昨日のことも思い出せない。全て忘れていくのだ。今はもう栄作や息子のことも分からない。なのに、「あの人」のことだけは覚えている。「あの人」に会うために、静江は何度でも約束の場所に向かう。
「もし私が何もかも忘れてしまったら……」
恵理は胸の中にはっきりと浮かんだ「あの人」の面影を振り払うように、再び大きくフライパンをゆすり始めた。
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