報復

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 後から考えると、それほどまでに許せない行為だったとは思えない気がしてくる。  その時は確かに、絶対に許さない、と思った。だが時間が経過した今となっては、果たして自分は何のためにその車を追い、車間距離を詰め、同じ車線変更を執拗に繰り返しているのか、既に分からなくなっている。  惰性か、単に後には引けないだけか。  牧口琴美の運転するプロボックスは、前を行く白いコンパクトカーを追ってインターチェンジを降りた。 「ただ単純に、自販機の在庫を切らさないでくれればそれでいいんですよ。何で出来ないかなあ、そんな簡単なこと…。」  OA機器のリース会社の支店で総務を担当する三十代の社員が、琴美と、先輩社員の河合を打ち合わせブースの椅子に座らせ、かれこれ三十分は同じ内容の苦情を繰り返している。 「あなたに担当が代わってからですよ、こんなことが頻発するようになったのは…。」  申し訳ありません…。  琴美はそう言って頭を下げる。きょう何度目だろう。そうしないと目の前の総務担当社員はさらに同じ台詞を繰り返す。 「私からもお詫び申し上げます。前任者として今まで以上にしっかりと指導しますので…。」  お前ももう一度頭を下げろ、視線で河合がそう告げ、琴美はそれに従った。  営業担当としての責任は自分にあるが、納品ミスをしたのは運送ドライバーだ。しかも常に同じ人間。まるで琴美に嫌がらせをしているのではないかと思うくらい彼女の担当するエリアばかりで納品遅れや間違いを繰り返す。だからドライバーの担当地区を替えてくれと上司に訴えたものの、なぜか他のエリアでのミスは殆ど発生しておらず、お前のオーダーの仕方が悪いんじゃないか、と逆に小言を食らった。 「俺さ、今日は直帰するから。そこの駅から電車に乗れば二駅で自宅。」  助手席に座る河合は、先ほどまでの神妙な表情が嘘のようなお気楽な様子で、シートにふんぞり返っている。 「ほら、ここ曲がんないと遠回りになるだろ。もうちょっと道、覚えろよ…。」  覚えるも何もその駅に来るのは初めてだ。だが材料などは何でも良いのだろう。河合は琴美を無能扱いできるネタが転がっていれば、全く理屈が通らなくてもすぐに飛びつく。  礼すら言わずに河合が駅前のロータリーで車を降りる。琴美はサイドブレーキを外し、アクセルを踏んで一人営業所への帰途に就く。  フロントガラスを雨粒が叩き始める。市の中心部を抜けるのには渋滞が伴うので短い区間だが有料道路に乗る。そのため右側へ車線変更をしようとしたらウィンカーを出すのが直前になったためか、後ろの車両からクラクションを鳴らされた。  不意にフロントガラスからの景色がそれまで以上に歪んで見えた。左手をハンドルから離し、両目を拭う。 「みんな、馬鹿にして…。」  同期の新入社員とはLINEや電話で時々連絡を取り合うが、皆それなりに楽しく働いているようにみえる。自分だけが常に叱責や苦情を毎日のように浴び、特別に無能な社員であるかのような扱いを受けているような気がする。 「もう嫌だ。いいことなんて、何もないじゃない…。」  営業車の中は一人の空間だ。事務所では吐けない弱音を誰にも気にせず何度も繰り返すことができる。それだけでも救いだった。  一つ先のインターの手前で渋滞に捕まった。入口から進入してくる車両が列をなし、合流地点の先端で走行車線側の車両と交互の流入を行っている。琴美の車の前にシルバーのワゴンが車体を差し入れ、進路を譲るとハザードランプを二度点滅させた。そのままワゴンについて速度を上げようとした瞬間、後続する合流車線側の白いコンパクトカーが強引に琴美の前に割り込んできた。 「危なっ!」  急ブレーキを踏んで接触を回避する。琴美の鳴らしたクラクションに驚いたのか、相手も停止したので構わず走り出そうとした。 「順番に入れっての。」  ところが相手もクラクションを鳴らし返すと、再度琴美の前に割り込もうとする。琴美はハンドル操作で衝突を回避すると同時に、先方の運転席を睨みつけた。 「何考えてんの…!」  だが運転手の男は琴美の表情をまるで無視するかの如く、三度目の割り込みを試みた。その様子に琴美が怯んだのを見逃さず、白い車は急発進で走行車線に車体を差し入れ、あっけにとられる彼女の目の前で堂々とポジションを奪い取った。  白い車はハザードを点滅させることすらせず目の前で速度を上げる。走行車線上で停止したままの琴美に対し、後方からクラクションが鳴らされる。  何ボケっとしてんだ、だから割り込みされるんだよ…。  我に返った。そしてその時、これまで形を成していなかった一つの感情が、明確に焦点を結び、琴美の行動を支配した。 「あの車…ぜったいに許さない…!」  合流地点の先で渋滞がばらけると、琴美はその白い車を追った。車線を変えれば自分もそれに付き、車間距離を詰めて追跡を続けた。  やがてその車も追われていることに気づいたのか、速度を上げ引き離しにかかる。琴美も同じようにスピードを上げ、再びその車に追いつく。少しでも減速すればさらに車間距離を詰め、そいつが焦ってアクセルを踏み込めば同じようにアクセルを踏んで迫った。  そんなことが十分ほど続いたのち、白い車はインターから一般道に降りるそぶりを見せた。  琴美も同じインターから一般道へ降りるべく車線を左に変えた。  一般道に降りてからは他の車両に交じってその車を追った。後ろにピタッと付けていては、例えば信号で連なって停止した時、降りてきて怒鳴りつけられるかもしれないと思ったからだ。もっともその車の行く方向と琴美の帰社ルートがほぼ同じだったということもある。この頃になると、琴美の怒りも少し冷めてきて、自分はいったい何をやっているのかと、不思議な気分になった。 「私のやってることって、もしかしてあおり運転じゃない…。」  あまり執拗に追いすぎると警察に届けられるかもしれない。それに今頃思い出したが運転しているのは営業車だ。前方の車から側面の社名は見えないと思うが、それでも知られたら会社に連絡が行くかもしれない。まあ、もとはといえば相手が悪いのだから、簡単に連絡してくるとも思えないが…。  そう思っていた矢先、白い車は突然アクセルをふかし、速度を上げて走り去ろうとした。琴美が全く反応できないくらいの急加速で、その車は見る見るうちに視界から消えていこうとする。  まあいいか、このくらいで勘弁してやろう…。  車内で少しだけ笑い、気が済んだとドリンクホルダーにあったペットボトルの微糖紅茶を初めて口にする。自社製品ながら、あまり好きではない味だった。  営業所までもうすぐという地点で幹線道路を外れ、片側一車線の市道に入る。今日は車を返して早々に退社しよう。残業しているのはおそらく六歳年上の男性社員一人。河合より先輩だが慎重で口下手な性格が災いし、上司からは割の合わない仕事を振られたり河合のミスなのに何故か叱責を受けたりする。 「悪い人じゃないんだけど、なんかトロいんだよな…。」  自分のことを棚に上げて、琴美は狭い市道を法定速度で進んでいく。  前方にハザードランプを点滅させ停止している車両を発見したのは、営業所まで数百メートルの地点だった。カーブの連続する、時々事故の発生する場所だ。琴美は脇を通過すべく減速しようとしたところで、その車に見覚えがあることに気づいた。 「うそ。」  ヘッドライトに映る車は、片側車線を遮るような不自然な停止の仕方で、目を凝らすと電柱にも接触しているようにも見えた。  どうしよう…。  それは先ほどまで琴美が追跡していた白い車に違いなかった。そいつが速度を上げて走り去った後、ここで事故を起こしたというのか。  琴美は白い車の十メートルほど手前で停車し、どういう行動に出たらよいのか考えを巡らせる。だが、その必要は無かった。  電柱に突っ込んだ車両のドアが開き、男が降りてこちらに向かってくる。  眼鏡をかけた細身の若い男が、琴美の車を認識して足を速める。  琴美は反射的に全てのドアをロックした。 「お前かあ…。」  男の手にはバールが握られている。浸水時の脱出用に使う道具だが、男がそれを何に使おうとしているのか、すぐに分かった。 「お前があおり運転を仕掛けたせいで俺が事故った。ぜってえ許さねえ…。」  そう言うと男は、琴美の車のフロントガラスに向けてバールを振り下ろした。  両手で顔を覆い悲鳴を上げる。指の隙間から前方を見ると、蜘蛛の巣のようなヒビが走っていた。 「出て来いよ、おらあ…。」  男はさらにバールを振り下ろす。ガラスの一部が砕け散り外気が侵入してくる。男があと一、二回それを叩きつければフロントガラスの全面が崩れ落ち、その後は何が起こるのか、琴美には全く想像できなかった。  男が両手で振りかぶる。琴美がフットブレーキを外しアクセルを踏む。男の叫び声と衝突音が頭上を通り過ぎる。  そのまま走り去ろうとして、反対車線を通りかかった車の運転手が慌てて降りてきた。 「災難だったとは思いますが、ひき逃げは許されることではないんでね…。」  中年の警官は気の毒そうに琴美を見ながら、まずは署に来て話を聞きます、と横付けされたパトカーの後部座席に入るように促した。  救急車が到着するまで、白い車の男は辺り構わず喚き散らしていた。 「そいつが、そいつが全部悪いんだよ。俺を殺そうとしたんだよ。見てくれよこの足を…。」  どうやら足の骨折だけで済んだらしい。命には全く別状なさそうな様子で他の警官に囲まれている。  パトカーの中から景色を見るのは初めてだった。許さないと思ったから、許されないことをしてしまった。でもあの男だって…。  じゃあどうして私はあの男を許さないと思ってしまったのだろうか。私は本当は誰を、なぜ許せなかったのか…。  よく分からない、琴美はそう思いながら、車窓にぼんやりと視線を向けていた。
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