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「うわぁ!」
そのあまりの距離の近さに、私は思わず身体を仰け反らせた。途端に、私の身体はぐらりとバランスを崩す。
(落ちる……!)
私はぎゅっと目を瞑る。空中に放り出される感覚が身体を包む。私の伸ばした手が、空を切った。
もう終わりだ。私は、迫って来る地面を想像して、絶望する。
「目を開けて」
また、あの声が聞こえる。こんな時に、何を言っているんだ。私は、声の主に心の中で抗議する。私は今、学校の屋上から落下しているんだぞ。
「目を開けなって」
しつこい。今度は耳元で囁くなんて。
(ん? 耳元?)
どうして、この状況でこんなに近くから声が聞こえるのか。それに、いつまで経っても地面に辿り着かない。本当なら、もうとっくに地面にぶつかっているはずだ。何かがおかしい。私は恐る恐る、目を開けた。
「え……?」
不思議なことに、私は落ちていなかった。さっきまでと変わらず、屋上の縁に立っている。どういうことだろう。あの、屋上から落下する感覚は、幻だったのだろうか。
「君は、絶対に落ちないよ」
私は、弾かれたように声の主を見た。整ってはいるが、くりっとした丸い目のせいで幼く見える顔。そこに付いている唇が、私の額に触れてしまいそうになっている。
「さっきから、距離感バグってるんだよ……!」
思わず、ビンタしようとすると、少年は私の腕をぱっと掴んだ。
「暴力はんたーい」
少年は笑みを浮かべて言った。でも、その笑顔は幼い顔には似合わない、冷ややかなもので、ぞっとしてしまう。私は、振り上げていた腕から力を抜く。少年は、やれやれといった調子で、私の腕を放した。この少年は何者なのだろう。見た感じ、私とあまり歳は変わらなそうだ。高校生、といったところか。真夏だというのに、真っ黒なロングコートを着ていて、頭がおかしいんじゃないかと思う。
「君さぁ、少しは落ち着きな? さっきも言ったけど、君は絶対に落ちないんだから」
「落ちない?」
私は、極力少年の顔だけを見つめて訊き返す。さっき味わった、自分が落下していく感覚が鮮明に残っている今、下を見てしまったら冷静でいられる気がしない。
「そう。君は、自分の意思でここから飛び降りない限り、落ちることはない。だから……飛び降りて?」
「は……?」
満面の笑みで信じられないことを言う少年を、私はまじまじと見つめる。真夏にロングコートという、狂った格好をしているにも関わらず、汗をかいている様子すらない少年を見て、寒気すら覚えた。
「そんなこと、出来るわけ……」
「勘違いしないで欲しいなぁ。僕は、君を助けるために言ってるんだよ?」
少年は、面倒くさそうに頭を掻く。
「僕は、成仏屋。神崎命。――君はもう、死んでいる」
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