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「もし、地縛霊になったら、どうなるの?」
「君はこのまま、屋上の縁に立ち続けることになる。他のどこにも行けず、この場所に縛り付けられて、ただひたすら、自分自身と対話することしか出来なくなる。永遠にね」
そんなの嫌だ。心の底から、嫌悪感が沸き上がって来る。全部終わりにしたくて死んだのに。大きな何かを得たいなんて考えたことはなかった。ただ、消えたかっただけなのに。
「……どうやったら、成仏出来るわけ?」
私は、縋るように成仏屋を見た。“成仏屋”なんて、いかにもな名前を名乗っているなら、何とかしてよ。私を助けて。
「だから、さっきから言ってるじゃん。ここから、飛び降りろって。未練がある自殺者の魂が成仏するには、身体が死んだ時と同じ方法で、魂も殺さないといけないんだよ。首吊りなら、首吊りで。入水なら、入水。君の場合は、飛び降りね」
噓でしょ、と思わず叫びそうになる。また、あの感覚を味わうのかと思うと、恐ろしくなる。屋上から落下している間に、感じる風圧。地面に叩きつけられる衝撃。痛いとは思わなかった。だけど、すごく怖かった。地面に横たわりながら、身体がどんどん冷たくなっていくのを待つのが。声を出すことも出来ず、皮肉なくらいに綺麗な空を眺めながら、死んでいくのが。
「あ、もちろん、魂だからって感覚がないなんてことはないからね。痛みも苦痛も、ちゃんと感じるから。それが、運命に逆らって死ぬっていうことなんだよ」
成仏屋が、私の心を見透かしたように、わずかな希望を打ち砕く。
「……どうして、こんな目に遭わないといけないの。どうして……そっと死なせてくれないの」
「そんなこと言われてもねぇ。僕にはどうしようもないからね。だから、さっさと飛んじゃえって言ったんだ。悩む前に終わらせちゃうのが、一番楽だろ?」
成仏屋は、ケラケラと面白そうに笑っている。まるで、コメディ映画でも観ているようだ。
「まぁ、地縛霊になりたいって言うなら、僕だって止めないよ。どうしたいか、自分で考えな」
成仏屋は、屋上の縁に腰掛け、空中に足をぶらつかせている。その様子は、小さな子供がブランコで遊んでいるように見えた。落ちないのならば、と思って、私も真似をして足をぶらぶらさせてみる。こうしてみると、空を歩いているみたいだ。
「……こうやって、空を歩いて、どこか遠くに行けたら良かったのに。逃げて良いよって、言ってくれる人がいれば、私は死ななかった」
私は思わず、ぽつりと漏らした。そしてそのまま、成仏屋に死んだ理由を話し始める。成仏屋に話したってしょうがないのに、他にやることが思いつかなかったのだ。
高校二年生になり、クラス替えをしたら、スクールカーストのトップに所属する女子から目を付けられてしまったこと。それから、陰湿ないじめが始まったこと。話しているうちに、どんどん時間が過ぎていく。言っておきたいことが、たくさん溢れて止まらなかった。成仏屋は薄笑いを浮かべながら、ただ黙って私の話を聞いている。
「高校生にもなって、こんなことになると思わなかった。高校生って、もっと大人で、いじめなんて子供っぽいことしないと思ってたから」
「まあ、現実なんてそんなもんじゃないの? 成熟した子供もいりゃあ、未熟な大人もいるだろ」
成仏屋の言葉に、私は「そうだね」と笑った。言われてみれば、そんなものなのかもしれない。精神の発達と年齢は、必ずしも比例しないのだろう。
「でも、我慢してれば、いつかは終わる。そう思って頑張ってた。大学に行くために、高校に行けば良い。だから、耐えて耐えて、卒業さえすれば……って。でも、頑張れなくなっちゃった」
気が付けば、私は足をぶらつかせるのを忘れていた。空は蝋燭の灯りのように、優しい朱色に揺らめいている。
「君の一番の間違いは、頑張ったことだな。人間は、無駄なところで頑張り過ぎると、僕は常々思ってるよ」
夕焼け色の中で目を細める成仏屋が、心なしか温かく見えた。多分、目の錯覚だろうけど。
「私、とんでもない馬鹿だった」
「ああ、そうだね」
「もう。少しは否定してよ」
私は、むくれたふりをする。遠くから、微かに嗤っているような虫の声が聞こえてきた。
私は、思い切り息を吸い込んだ。砂っぽい運動場の匂いが、身体を通り抜けていく。屋上の縁に立ち上がって、身体を伸ばすと、この世界の支配者になったような気分になった。
「私、この世界が大嫌い。私は、絶対にこの世界を許さないから」
敢えて、成仏屋に聞かせるように言う。これは、私のせめてもの抵抗だ。
「君が許そうと、許すまいと、世界は変わらないよ」
ゆるっとした声で、成仏屋が言う。そんなことわかっている。
「それでも、私は許さない」
ふふっと成仏屋が笑う。やっぱり、死神みたいだ。人間ではあり得ないくらい、笑顔が綺麗だもん。
私は足元を覗き込む。硬いアスファルトが、夕日に照らされて蜜に沈んでいるように見える。今ならいけそうだ。
「じゃあね」
私は、えいっと屋上から飛び降りた。景色が流れていき、地面が襲ってくる。それでも、目を閉じなかった。閉じたくなかった。どん、と全身に衝撃が走る。私はただ、空を見た。大嫌いな世界の空だ。優しく包み込んでくるような大きな空が、許せなくなるくらいに美しかった。段々、視界がぼやけていく。それでも、私は目を閉じずに、美しい空を見つめていた。
成仏屋は屋上の上から、命の最期を見守っていた。地面に横たわる命の魂が、すうっと溶けるように消えていく。
「神崎命の成仏完了、っと」
成仏屋はそう呟いて、伸びをする。吹いてきた風が、ロングコートの裾を揺らした。
「この世界を許さない、か……」
面白い人間だったな、と成仏屋は思う。
(ホント、人間って無駄なところで頑張り過ぎるよなぁ)
かぁ、かぁ、とけたたましい声を上げながら、カラスが成仏屋の頭上を飛んで行く。成仏屋は、その様子を、微笑みながら見つめた。
「さーて、次の仕事に行くかな」
ロングコートの裾を翻し、成仏屋は次の魂の元へと、歩き始めた。
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