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 町の小さな博物館に展示されている二本の簪。先端付近に真っ赤な玉が着いたそれは、特別厳重に置かれていた。私はふと疑問に思った。どうして数ある展示物の中たったこれだけこんなに大切に保管されているのだろう。簪なんて他に幾らでもあるではないか。化石や鎧や兜など、もっと他にここへ置くべきものがあったのではないか。その疑問を解消するべく、私はこの博物館の管理人に話しかけた。 「なぜこの簪はこのような保管方法を取られているのでしょうか。どうして他の何でもなく簪をお選びになったのか不思議でなりません。」 その言葉を聞くと、管理人は数秒間顔をしかめて躊躇ってから重い口を開いた。 「良いでしょう。この滅多に人の来ない博物館に貴方が立ち寄って下さったのも何かのご縁。特別にお教え致します。」 管理人が言うにはこうだった。  遡ること350年。時は江戸の世。吉原の町にて。ここは大坂新町、京都島原と並ぶ日本有数の遊郭街。今日はとりわけ騒がしい人魂が出来ていた。彼らの話すには今日の早朝に心中事件が起こったらしい。男女共に20歳という若さだったという。一体どうしてこんな事件が起こったのだろうか。  事件当日から約15年前。江戸のはずれの小さな村にそれは貧しい一家があった。毎日のように借金取りに追われる日々。遂に一家は娘を身売りに出すことにした。娘の名は梅と言った。彼女は幼いながらも家族の為に少しでも役に立とうと両親の行う畑仕事の手伝いに勤しんでいた。そんな彼女の唯一の心の拠り所は毎日早朝に遊びに来る男の子の存在だった。その男の子の名は三郎と言った。彼女と同い年でとても賢く人懐っこい男の子だった。ただ、彼は先祖代々続く武士の子だったので梅のような身分の人間と話すことなぞ到底許される訳がない。だから、毎朝家族でいちばんの早起きをしてこっそりと彼女の下に通っていたのである。ある日は草むらで野良犬を追いかけて、ある日は二人一緒に虫を捕まえて花を摘んだ。そしてまたある日はかけっこやら鬼ごっこやらした。雨が上がって空に大きな七色の橋がかかった日には思いっきり泥遊びをして真っ黒になった。そんな二人の無邪気な幸せは、大人たちの手によっていとも簡単に奪われてしまったのだ。  梅がいなくなる事を三郎が知ったのは彼女が身売りに出される前日だった。その日は、梅の五歳になる誕生日だった。昨晩から降っていた雨がようやく止み始め、お宝のように美しく光る朝露が草花の上で輝く朝だった。梅は、いつものように遊びに来た三郎に静かに口を開いた。 「明日、私はここにいないんだ。ごめんね。」 突然の告白に理解が追い付かない三郎を前に梅は声を振り絞った。 「私ね、今日、身売り、出されるの。」 梅の顔を見ると目を真っ赤に泣き腫らした跡があった。更に梅は続けた。 「でもね、いつか絶対あたし三郎ちゃんのお嫁さんになるって決めたの。だからー」 そこまで言って遂に梅が堪えていた大粒の涙をこぼした瞬間、それまで黙りこくっていた三郎が初めて口を開いた。 「おれが迎えに行く。約束だ。」 泣きじゃくる梅を前に優しく包み込むような声で三郎はそう言った。その声は、梅が今まで一度も聞いた事がないくらい芯のこもったとても力強い声だった。  間も無くして梅は二、三人の大きな男達に無理矢理腕を掴まれ、引っ張られていった。連れて行かれる間、梅は一切の抵抗をしなかった。着いた地はそう、吉原である。梅は、生まれて一度も村から出た事が無かった。人で溢れかえる華やかな吉原に梅はすぐに虜になった。しかし、そのイメージは一瞬にして壊されることになる。毎日の過酷な重労働。子供だからと言って容赦はされない。逃げようにも逃げ場なんて全くなく、そんな働き尽くめの毎日が続いた。いつどんな事があっても、三郎の顔や声やあの時の約束を思い出して必死に努力し続けた。そして、耐えに耐え抜いた梅はとうとう遊女の中でも最高位に当たる花魁にまで登りつめた。  そんなある日、新しいお客が来ると言う知らせが入った。女将が言うにはその人は武士の成り下がりだが、梅を指名する為の金は持っていたらしい。梅はいつもと変わらずお客が部屋へ入って来るのを待っていた。扉が開き、お客の顔を見ると梅は思わず口を覆った。見覚えのある懐かしい顔。来る日も来る日も梅が待ち続けていた顔だった。 「久しぶり。随分遅くなってしまったね。」 梅は涙が止まらなかった。やっとだ。やっと一緒になれる。 「とても綺麗だね。梅とこうしてまた会うことが出来て心から嬉しいよ。」 そうして二人は一心不乱に他愛のない会話を楽しんだ。もうすぐで夜が明けるという頃、突然三郎は今までとは打って変わって深刻そうな顔になった。 「せっかく会えたのに本当にごめん。君に謝らなければいけないことがあるんだ」 「どうしたのですか。」 梅は不安そうに言った。 三郎は言った。 「実は、今日の為に全財産使ってしまったんだ。家も土地も全部売り払って。」 梅は驚いた。しかし、よくよく考えてみれば納得がいく事だった。それほど地位の高い武士ではなかった三郎が、花魁である梅を指名するための金を用意する事なぞ普通なら一生懸けても無理な話だった。しかし、それをこの一夜の為だけに、あの時の約束を果たす為だけに、梅へ自身の一切を捧げてくれたのだった。もう一生三郎と会う事は叶わない。その事実を聞いた梅は絶望した。三郎のことだ。きっとこの店を出た後三郎は死ぬ気なんだろう。そう思った梅は、 「私も一緒に行きます。」 そう口にした。三郎がいない世なんて生きる意味が分からなかった。 「でもー。」 と何とか説得しようとする三郎に梅は、 「あたしのために貴方は全てを投げ出してくれた。だから、あたしも貴方に全てを委ねたいのです。」 そう言った梅の真っ直ぐに自分を見る目には、固い決意が滲み出ていた。二人の胸には心中の二文字が浮かんでいた。あの世に行ったら、もっともっと恵まれた環境で、大人達なんかに妨げられずに、一緒に遊んだあの頃のようにまた二人で幸せになれますように。そんな願いを胸に抱いて、二人は遊郭のニ階から飛び降りた。  その朝は、奇遇にもあの日と同じ朝露が吉原中に弾けていた。  そこまで聞いて、私は口を開いた。 「生まれた環境のせいで引き裂かれてしまった愛。そんな悲しい過去があったのですね。でも、それとこの簪とは直接的な関係が無いようにお見受けしますが。」 管理人は言った。 「その心中の仕方に問題があったのですよ。実は二人の遺体からはそれぞれにこの簪がひとつずつ出てきたのです。どうしてだと思いますか?」 「うーん、全く想像が付きません。」 私は、次に管理人が発した言葉に思わず息を呑んだ。  二人の心中方法はこうだった。 まず、それぞれひとつずつ梅の簪を持ち、玉の付いた部分を喉に押し込んだ。すると、簪は20センチを超える長さなので先端部分が口から飛び出す。そのまま接吻をしてお互いがお互いの喉に簪が突き刺さった状態で飛び降りた。二人の身体が地上に叩きつけられた瞬間、喉に二本の簪が強く食い込むという仕組みだ。よって、飛び降りた筈なのに遺体が二人くっついたまま見つかったので、当時それはそれは不気味がられたらしい。死んでも一緒という途方もなく強い二人の愛が生んだ事件であった。 「なんと、、そうだったんですね。では、ここに来るまでも大切に扱われてきたのですね。」 そう私が言うと、管理人は静かに首を振った。 「いや、実はそうでは無いのですよ。」 「二人の遺体はばらばらに葬られてしまったのです。喉に突き刺さった簪は無惨にも引き抜いて捨てられ、梅は遊女の投げ込み寺へ、三郎は川に放置されました。」 「酷いことをしますね。二人の思いはまたも大人たちの手によって引き裂かれてしまったのですね。」 「そうなんですよ。その時にもっと適切な処理をしてあげていたらー。いや、今そんな事を言ったって無駄ですね。」 「では、やはり祟りがー。」 「そうです。心中事件から100年後のある日。江戸に住むひとりの女の子が失踪するという事件が起こりました。当初、街の人々の間では人さらいにあったのだろうという事で片付けられました。ところが、この事件はそれだけでは終わりませんでした。次の日も、また次の日も小さな子供たちがいなくなってしまったのです。被害に遭った子どものたったひとつの共通点としては、どの子も5歳になる誕生日であったという事です。流石にただの人さらいではないと、江戸の街中で大騒ぎとなりました。江戸の親という親ははその恐怖ゆえに子供を隠し、江戸の街からは子供達の無邪気な声がパタリと止みました。しかし、どうしてでしょうか。やはり五歳になる筈だった子供達が消えてしまうのです。そんな恐ろしい日常が数ヶ月続いたある日。初めて五歳の誕生日にこの悪夢から生き残った子がいました。その子は福という八百屋の娘でした。福の話を聞くには、誕生日の朝、目が覚めると自分と同じくらいの歳の男女が笑顔で立っていたと言います。二人は様々な遊びを知っていました。福は夢中で一緒におはじきやかるた遊び、コマ回しなどをして遊びました。しばらくして、福はふと違和感に気づきました。ここは何処だろう。自宅の部屋にいた筈なのに、あたりを見ると何故か草は覆い茂った草むらでした。あの二人はというと、福の両手を掴んで更に奥へ奥へと歩いて行きます。怖くなった福は、二人に尋ねました。『何処へ行くの。』すると、二人はこう答えたと言います。『みんなが幸せになれる場所だよ。』福は言いました。『あたし、お家に帰る。』次の瞬間、みるみる二人は鬼のような形相になり、『絶対返さない。』と泣きじゃくる福の手を今までとは比べ物にならない強さで引っ張りました。もうだめだと福が諦めかけた時、ギャアアという二人の断末魔の叫びと共に福の手首が光りました。その光は、どんな金銀財宝よりも綺麗に美しく輝いていました。よく見ると、その輝きは福が生まれてからすぐに両親が福の健康と安全を願って作ってくれた腕飾りからのものであると分かりました。そして、その光の余りの眩しさに目を瞑っていた福が次に目を開けると、なんと不思議なことでしょう。いつもと全く同じように自室の片隅に座っていました。変わったことは何一つありませんでした。二本の真っ赤な簪が落ちていたことを除いては。事件はその日を境にパタリと止み、江戸の街には以前のようにまた笑顔が戻りました。」  私は言った。 「その簪がー。」 「そうです。この二本です。」 「なるほど。貴重なお話、ありがとうございました。」 「いえいえ、とんでもございません。ところでですが、初めに言いそびれた事があります。」 「何でしょう。」 なぜだろう、私はぞくぞくと悪寒がした。今まではそんな事を無かった筈なのに。不思議だ。 「実はこの簪、ひとつだけ今も呪いがかかってるのですよ。この簪を見た人はみんな無残な死に方をしているのです。そう、喉に簪が突き刺さってね。」 あまりの衝撃に私は思わず絶句した。 「最初に言った筈です。この博物館に辿り着ける人は滅多にいないと。だから、貴方が初めての被害者です。」 管理人の瞳に笑顔の子供が二人、映ったような気がした。 ー次は誰が来るのでしょうー
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