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「うちの人の魂を迎えにきたの?」
ダイニングテーブルを挟んで向かい合った少女・夕月に向かって聡美は言った。
死神だという話を頭から信じたわけではなかった。しかし、彼女には現世の理を超越するようなただならぬ雰囲気が漂っている。それに、その頭に突き出した二本の角も作り物ではなさそうである。
死神を名乗る彼女の目の前では、今、ガラスのコップの中、薄緑色の液体と氷が蛍光灯の明かりを反射してきらきらと光を放っていた。
死神にお茶出してくれる家なんて初めて、と夕月は邪気の無い顔で笑いながら、テーブルのすぐ横に転がる岩立煌の死体にちらりと視線を送った。
「見たところ、お宅のご主人はね、まだ死にたてでしょ? 私はそういう魂は担当してないの。まぁこうして居合わせたのも何かの縁だからついでにご主人の魂も私が連れていってあげますけど……。とにかく、死んでからもしばらくこの世にとどまって幽鬼に変化してしまっているような、そんな訳ありの死者をあの世に連れて行くのが私の役目。その幽鬼の気配を感じて追いかけてきたらこの家にたどりついたってわけ」
そう言って、上目遣いに聡美を見た。
「……心当たりがありますか? 貴女は私の存在を認識し、しかも私が死神ということも否定せず受け入れてくださってる。つまり霊感がお有りのようだし」
全てを見透かすような瞳だった。
聡美はしばし戸惑うように目を泳がせたが、意を決したように唇を開いた。
「主人が……何かよくないものに取り憑かれているのは薄々感じていました」
「よくないもの? もしかして、それが……さっき貴女が叫んでいた【眠り姫】?」
「はい……主人は人形作家なんです。主人がちょうど一週間前に発表した新作の名前が【眠り姫】です」
聡美は一拍子おいて、ごくりと息をのみこむ。顔の色が青白かった。
「あの人形を作り始めてから主人はおかしいんです……目が血走って、ぶつぶつとひとりごとが多くなり、酒量も増えました。何よりも私と目を合わそうとしませんでした。まるで私を避けているような……。そのくせ、真夜中にふと私が目を覚ますと主人が暗闇でじっと私の顔を覗き込んでいるのです。どうしたの? と訊くと、なんでもない、とだけ答えて背中を向けてしまいます。そんな調子が制作中ずっと続きました。けれど、ある日徹夜でアトリエにこもりきりになったかと思うと、翌朝早く、あの人は急に私を呼んだのです。不思議なことでした。今まで夫は私を含め誰も自分のアトリエに入れたことはなかったのですから。
アトリエは行くと完成した人形……眠り姫が横たわっていました。
眠り姫を前にして、あの人は私に訊きました。これをどう思う? と……。美しいわ、まるで生きてるみたい、と私は答えました。その時、人形の瞼がわずかに動きました。そう……確かに動いたんです。見間違えだろう、と思われるかもしれません。でも私は見ました。瞼の縁に植えられた繊細な睫毛が微かに震えるのを……。眠り姫は生きている……! 私にはそう思えて仕方がありませんでした」
そう言ってから、聡美は両手で顔を覆った。
「眠り姫が主人を殺したんです! 眠り姫が盗難にあったですって? そんなのは嘘です! あの人形は自分から展示ケースを抜け出してここまでやってきたのよ! そうして次は私を殺そうとしている! 近くから私を見張っているに違いないの! お願い……! 私を助けて! 人形の魂をあの世に連れて行って!」
白い指の間から透き通った涙の粒と啜り泣きの声が零れ落ちた。
「なるほど……あなたはあの人形に魂が宿っていると考えるのね」
夕月は泣きじゃくる聡美に穏やかに笑いかけた。
「……こんなことを言っても信じてくれないんでしょうね。きっと頭がおかしい女だと思っているのね」
聡美は真っ赤に泣きはらした目を恨みがましげに聡美に向けてくる。
「別に信じないわけじゃない。モノに魂が宿ってあやかしとなることも珍しいことじゃないから。でも、それには何か理由があるはず……。なぜご主人が眠り姫をつくったのか……。それを知りたいの。そうね……まずは教えてほしい。貴女はなぜ人形作家のご主人と結婚したのか、を」
「そこから……ですか?」
「人形がご主人に続いて貴女も殺そうとしているのなら、貴女とご主人の関係性にきっかけがあるかもしれないからね」
「……分かりました」
少し戸惑ってから聡美は岩立煌との結婚に至るまでの経緯を簡単に話し出した。
聡美と煌はもともと美大の同級生だった。
聡美と煌は、もう一人の男友達(「仮にSと呼ばせてください」と聡美は言った)を加えて、三人組でいつも仲が良く、学校だけでなくどこに行くのも大抵は三人一緒だった。
そのうちにSと聡美との間には友情を越えた感情が芽生えた。Sが聡美の恋人になるまでに時間はかからなかった。煌は二人の仲を祝福してくれたが、どこか寂しそうで、やがて煌の方から自然と二人から離れていった。
今思えば煌も密かに聡美の事を想ってくれていたのだろう。
卒業してからも二人の交際は続いていたが、煌とは何年も会うことはなかった。ただ、煌がアートの世界で成功して次第に有名になっていく様子は雑誌やテレビで伝わってきていた。
再会したのは卒業してから五年後のことだ。
ある画廊で開かれていた煌の個展にSと二人で訪れたのだ。ちょうど在廊していた煌は突然現れた旧友達の姿に驚くとともに歓迎してくれた。
再び三人で会い、時々食事などもするようになった。
そうしているうちに、今度は聡美は自分の今の恋人であるSよりも煌に強く惹かれている自分に気がついた。この頃、聡美は恋人の束縛の強さにうんざりしかけていたのだ。
やがて聡美はSの目を盗んで煌に接近した。
煌も聡美を受け入れてくれた。
幾度となく二人きりの逢瀬を交わし、煌は「僕の愛する者を傷つける存在を決して許さない」とも言ってくれた。
恋人の束縛に傷ついていた自分を心から思いやってくれているからこその言葉に違いなかった。
聡美は喜びに震え、自分の愛情を全て煌に捧げようと決意したのだった。
「そうして私はSと別れて岩立煌と結婚しました」
「……ありがとう。大体は分かったわ。ところで貴女の元彼はその後どうしたの?」
「…………知りません。もうずっと会っていない……というか、今は音信不通なんです。誰も彼の居場所を知らなくて、ほぼ行方不明の状態です……」
聡美はそう言って視線を下に落とす。何か嫌なことを思い出したかのように、眉間に深い皺が刻まれた。
夕月は特にそれについては聞き返さず「なるほど」と一言呟いて頷いただけだった。
「それじゃあ・……少し手伝ってくれますか?」
夕月は立ち上がる。
「手伝うって何を?」
聡美は怪訝な顔をした。
「人形に……眠り姫に会うのですよ」
夕月はにっこりと微笑んだ。
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