眠り姫

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「さぁ、ご主人の目をじっと見つめてごらんなさい」  夕月は涼やかな声で言う。  聡美はぎょっとして夕月の顔をまじまじと見返した。 「死者の目は真実を語ります。さぁ……見るのです」  気がつけば聡美は椅子からふらりと立ち上がっていた。体が自分の意思に反して、まるで操られているかのように動く。  聡美の体はゆっくりと二歩歩き、そして、夫の死体の傍にがくりと膝をついた。カッと見開かれたままの夫の目。聡美の頭が前に傾ぐ。夫の瞳と真っ直ぐに視線が合う格好となる。  もう動かないはずの夫の目が赤黒い光を放った。  背筋に凍るような冷たいものが走り、肌が粟立つ。  くらり、と、めまいがして、世界が回った。目の前が暗くなる。  気がつけば聡美は薄暗い空間にぽつりと一人佇んでいた。  人一人がやっと通れるほどの狭い通路が前にも後ろにも続いている。  どうすればいいか分からず、とにかく聡美は呆然と歩き出す。行く手で通路は何度も折れ曲がる。まるで迷路のように。  ここは眠り姫の展示会場のテントの中なのではないか、と聡美はふと気がついた。  そして、その次の瞬間、背後に気配を感じた。  足を止め、おそるおそる振り返る。  青みを帯びた薄暗闇を背負ってシルエットが浮かび上がっていた。十二単衣をまとって、髪の長い……。  聡美は息を呑んだ。  眠り姫はずっ、ずっ、ずっ……と、着物の裾を引きずりながら近づいてくる。  近づくにつれ、首から上がゆっくりと光に照らされていくかのように、顔の部分だけが徐々にはっきりと目の前に現れてきていた。  血と泥に塗れた顔。青白い唇。見開かれた目の中心には漆黒の虚な瞳。  とてもよく知っている顔……かつての恋人が死んだ時の顔。 「ヒィッ……!」  聡美は悲鳴を上げて弾かれたように走り出した。  布で仕切られた通路を何度も何度も曲がり、息が切れるほどに走り続ける。永遠とも思える時間だった。  だが、やがて通路は突然に途切れた。  テントの中央の展示部屋に出たのだ。ガラスのケースが置かれている。壊れたはずなのに、綺麗に元通りになっている。  聡美はケースに駆け寄った。中を覗き込む。  煌が横たわっていた。目を見開いている……死んだ時と同じように。しかし、その瞳は明らかに意思を持って聡美を見つめ返している……そう感じられた。 「さ、と、み……」  煌の唇が動き、掠れた声が溢れた。 「なんで……! なんで生きてるの?!」  聡美は叫んだ。 「殺したはずなのに……!」  は、は、は、は、は、は……。  ねっとりした笑い声が聞こえる。ガラスケースの中で煌の死体が笑っているのだ。 「俺はお前のことなど愛していなかった……」  煌の唇はそれ自体がひとつの生き物のようにぐにゃぐにゃと動き、言葉を紡ぎ出す。 「俺が本当に愛していたのはあいつだけだ……しかし、あいつはお前を心から愛していた。自分と同じ名を持つお前を。だから俺は身を引いたのだ」  死人の告白を聡美は震えながら聞いた。瞬きすらしない煌の刺すような視線から逃れようとしても目を逸らすことができない。 「なのに……数年ぶりに再会した時、お前はあいつを裏切り俺に近づいた。俺も……お前を受け入れた。あいつが愛したお前を俺のものとすることで俺をあいつに近づけたかった……今、思えば歪んだ愛情だ。現にきっとあいつはお前ばかりでなく俺にも裏切られたと思い込んだのだろう。あいつが行方をくらましたのは、俺たちの裏切りにショックを受けたためだと思ったよ……」 ――夫は私を愛していなかった。そんな事は初めから分かっていた。  聡美は思う。 ――煌が愛していたのは彼だけだ。そんなことは分かっていた……。ずっと気がつかないふりをしていただけだ。 「あいつを傷つけたお前を許せなかったし、俺は俺自身も許せなかった。全てを投げ打ってでもいつかお前に復讐するため……そう思ってお前と結婚した。それに加え、常に俺の心には疑惑が渦巻いていた。行方不明になったあいつはもしかしたらお前に殺されたのではないか、と……。お前はそれくらいの事はする女だ。だから、俺はあの人形……眠り姫を作った」  煌の死体が語る話は徐々に核心に近づいていた。 「眠り姫は本当に俺の最高傑作だった。顔も体もあいつの面影を追い求めて作り込み、それを花のような着物で幾重にも包み込んだ。あいつが帰ってきたかのようだった。ついにあいつが俺のものになったんだと思えた。生死も性別も超えた存在……それが「眠り姫」だった。俺はさらにあいつに宛てて俺の想いを打ち明けた手紙を綴り、それを眠り姫の胸元に差し込んだ。その時だった……。人形が突然、魂を宿し生気を帯びたように感じられたのだ。眠り姫は生きているんじゃないか……もう少し待てば目を覚ますんじゃないか……。半ば本気でそう思えてならなかった」  煌の言葉には次第に熱がこもってきた。青白いはずの肌にかすかに赤味がさしたかのようにさえ見える。 「お前にもきっと分かったはずだ。俺が眠り姫を作った意味が……。お前の反応を見れば真実が明らかになるんじゃないかと思った。案の定、お前は眠り姫を見て衝撃を受けたようだった。そればかりか眠り姫に対して異常なまでの恐怖心を見せた。あの人形はもしかして本当に生きているのでないかという強迫観念だ。それとともに、お前が俺を見る目には憎悪と猜疑心が宿るようになった。俺がお前の犯行に勘づいたことが分かったのだろうな。やはりお前があいつを殺したのだという確信が俺の中で強くなった。そして、今朝、眠り姫が盗まれたという報道があったことで、お前の恐怖心と憎悪は頂点に達した。盗んだのは俺自身だ。眠り姫をつかって、混乱したお前に全てを白状させようとしたのだ。だが、お前の恐怖と妄想は俺の予想を遥かに超えて強かった。目を覚ました眠り姫が俺と共謀してお前を殺しにくるのではないかと疑い……その結果……ついに俺を毒殺してしまったのだ」  聡美は震えながら煌の瞳を見続けた。  何も言うことができない。  煌の瞳には聡美は映っていない。そこに映し出されているのは眠り姫だった。  煌の瞳の中の眠り姫は聡美を見ている。  口がゆっくりと動く。  ゆ、る、さ、な、い……。眠り姫はそう言っていた。  聡美は悲鳴を上げた。  遠のく意識の中で、夕月の声がした。 「ね? 死者の瞳は真実を語るでしょう? 生きてる人は嘘ばっかりなんだから……。じゃあ、眠り姫に宿った幽鬼……里深一郎(さとみいちろう)さんの魂は私があの世に連れていくね」
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