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前編「ほかの女に手を出すほど、幸せ」
部屋に女を連れこむと、必ず言われる。
「部屋じゅうに絵が飾ってあるのね。好きなの?」
「ああ、うん」
俺はてきとうに返事をして、この子とヤルかどうか考える。ヤる、と決めたらさっさと歯ブラシを渡す。
「この歯ブラシ、使うかどうかは、きみが決めてよ」
その気がある女の子は笑って歯ブラシを受け取る。ダメなら玄関へ逆もどりだ。
でも、予測もしない反応をした女がひとりだけいた。
『いらない。自分の歯ブラシを持ってきたから』
そう言ったのは、高野翠(たかの みどり)。専門学校時代のカノジョだ。
別れてからも、俺は翠の絵が売りに出されると買っている。
だから部屋には、十年ぶんの愛情と後悔と罪悪感が並んでいる――。
その専門学校では、生徒が描いてきた課題を並べて先生が講評する。へたくそな生徒が真っ先に呼ばれる。俺と翠は不動のワンツーだった。
「なんでこんなにへたくそなのかなあ。もう、やめたい」
翠はよくそう言った。
「翠はうまいよ」
ほめてやっても彼女は口をとがらせる。変なの。褒めれば、たいていの女は機嫌がよくなるんだが……。
ポンポンと翠の頭を軽くたたいて、
「個別指導を頼めばいいだろ。翠ならうまくなるよ」
お前は金があるし、と言おうとして、さすがに止めた。
翠は専門学校オーナーの身内だ。本人はバレていないつもりだが、クラス中が知っている。
金、コネ、才能。翠は何でも持っている。こいつをカノジョにしたら、俺のグレードも上がるんじゃないか? 俺は即、行動した。
女を落とすのは得意だ。でも付き合いはじめてから、だんだん翠が憎くなってきた。
苦労もしないで、何でも持っている女。だからじわじわと翠を締めつけた。
『別の構図のほうがいいよ。デッサンもくるってる』
『この色づかいはひどいなー。画材、使いすぎじゃね?』
はじめは言い返していた翠が、だんだんしゃべらなくなった。
翠が黙るたびに俺は捨てられるんじゃないかと不安がつのり、どんどんきついことを言うようになった。
そしてある夜、翠はぱたりと絵筆を落とした。
『もう描けない』
それを聞いて、飛びあがりたいほどにうれしかった。
翠は絵をやめる。もう描かない。どこにも行かない、ずっと俺のそばにいてくれるんだろう。俺はもう孤独じゃない。翠が絵を捨てて、そばにいてくれるから――。
でも俺は、念には念を入れるタイプだ。周囲にも翠の不調を言いふらした。
『翠さ、今ちょっと描けなくて。ああ、大丈夫、俺がついてるし、少し休むだけでいいと思うよ』
翠は部屋から出なくなり、笑わなくなった。それはつまり、翠を独占できるという事だった。
幸せだ。
他の女に手を出すほど、幸せだった。
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