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後編「卑屈で崇高な、俺の願い」
その二月は、学生のグループ展が企画されていた。専門学校が所有するギャラリーに絵を並べてもらえる。
「池田くん、作品は持ってきた?」
「ああ。どこに掛ければいいの」
俺は白梅にウグイスを描いた作品を持ってきた。構図も色も翠(みどり)の旧作をそっくりパクった。和風のテーマを軽いタッチで仕上げたもので、翠の絵のなかで一番気に入っている。
壁に掛けようとしたとき、ふと、視線を感じた。
外を見る。ギャラリーと外を区切っているのは、大きなガラス窓だけだ。
「……あ」
声が出た。
暗い雪雲の下に、翠がいた。髪はぼさぼさ、化粧なしで目だけがギラギラしていた。後ろから声がした。
「池田くん。あれ、高野さんでしょ。なんか痩せちゃってひどい顔ね」
同級生の、たぶん二回くらいヤッた女。いつヤったのかさえ覚えていない。
俺の目は翠にくぎ付けだ。全身に興奮が湧き上がってきた。いっそ、叫びたいくらいだ。
『見ろよ、あれが俺のカノジョだよ、俺を見捨てない唯一の女だよ!』
世界は完璧になった。翠・俺・絵がつながった。
「俺、ちょっと翠を連れてくるよ――」
そう言った時、どこからか子供が現れた。子供が翠のコートを引っ張る。翠は子供に気づいて話しはじめた。
信じられない。
チビと話すうちに翠から熱が消えてゆく。ギラギラしていた目が凪(なぎ)になり、熱風がおさまっていく。
俺が必死で編み上げたクモの巣は、あんなチビに破られてしまった。翠は子どもといっしょに歩き去っていく――俺から。
「みどり」
あわてて追いかけようとしたが、さっきの女に声をかけられた。
「池田くん、絵の場所はここでいいの?」
「ああ、うん。そこで――」
いいよ、と言いかけて、俺は言葉を失った。
壁にかかった絵には、ゴーヤみたいな不格好な小鳥が描かれていた。
さっきまでウグイスに見えたのに。
今はもうトゲトゲのにがいゴーヤにしか見えない。
ゴーヤは、白梅の枝からみっともなく落ちかけていた。悲鳴が聞こえるようだった。
『終わったよ、終わったんだ』
俺のゴーヤは春を告げずに、恋の終わりを宣告していた。
気が付くと、部屋は静かだった。ソファにはまだ、歯ブラシを持った女の子が座っていた。
「ねえ、この絵、誰が描いたのよ?」
俺はどうしようもなくなって、笑った。
「元カノが描いた。男が、一生に一度だけ会うような女だよ」
ばあん! と大きな音を立てて部屋のドアが閉まった。俺は大声で笑いながら、壁をおおうたくさんの絵を一枚ずつ指でなぞっていく。
桜並木の絵。
苺とエプロン。
ピアノと蝶。
犬と虹。
そして白梅とウグイス。ふっくらした緑色の鳥が、春を呼んでいる。
なあ、翠。
今でも、きみの絵が好きだ。絵だけじゃない。おかしくなるまで、俺を愛してくれたきみが好きだ。
二度と会えないが、今でも俺は、きみのものなんだ。
永遠に、俺はきみのもの――。
身体にじんわりと熱が戻ってきた。
今、きみは幸せだろうか――いとしいひと。
おれの願いは、たったひとつだ。
永遠に、俺をゆるさないでくれ。
俺を――覚えていてくれ、翠。
【了】
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