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「撫子」
自分の名前を呼ばれるたびに、いたたまれない気持ちになる。恥ずかしさに、今この場から消えてなくなりたいとさえ思ってしまう。
容姿も性格も、華やかな名前には申し訳ないくらい、地味である自覚がある。一体全体、名付けた親たちはどういうつもりだったのだろうか。自分たちの平凡な容姿と人生を思えば、娘が「撫子」の名前を持て余すだろうと、容易に想像がつきそうなものだけど。
だが、そんな両親に対する恨み言を言う気概も勇気も、撫子は持ち合わせていなかった。口に出した途端、悲しそうな顔をするであろう両親を思うと、そんなことは言えない。事あるごとに、胸の内で文句を言っているだけである。
「撫子さん」
「はい」
呼ばれて即座に返事をし、呼んだ相手を目で探す。
前言撤回するようだが、この人が「撫子さん」と呼ぶのを聞くたびに、心が浮き立つ。
「こっちの生地の成形、任せてもいい?」
寝かせておいたタルト生地を指さしながらその人が言うので、撫子は飛び上がらんばかりに「はい!」ともう一度返事をした。
篠山小太郎。
パリで修業し、日本に戻って小さな店を開いたが、その緻密ながら優しい味わいのケーキは、日本国内に留まらず、世界的にも評価が高い。
撫子は彼の店で働いている。
最初は誰の店かも知らずに入った撫子だが、今ではそんな世界的パティシエの一番弟子である。
製菓専門学校を出たばかりの撫子が、なぜそのような有名なパティシエの店に入れたのかと言うと、何のことはない、当時彼は無名で、たまたま店のオープニングスタッフを募集していたからだ。
人づきあいがあまり得意ではない為、大きな店より、こじんまりした個人の店を希望していた撫子には、好条件だった。
それでも数人は応募者がいたと思う。
どうして自分が選ばれたのかは分からない。
専門学校で自分が褒められたことと言えば、作業の丁寧さだけであるが、これだって「もう少し手際よくやれば、言うことなし」と注釈付きだった。そもそも試験と思われるのは面接だけで、作業を披露する機会は与えられていない。
首を傾げながらも、採用されたのは事実で、初出勤当日、恐る恐る店のドアを開けると、店長は笑顔で迎えてくれた。
「篠山です。よろしくね」
笑顔で言う店長は、一見すると撫子と同年代に見えた。茶色がかった髪は少しくせっ毛で毛先が跳ねている、それを無理やり帽子の中に押し込んだようで、それがまた幼く見えた。
いやいや、それでも年上だろう。
そう思いながらも、撫子は「かわいい」と思ってしまった。面接のときにも会っているはずなのだが、相手の顔を見る余裕はなかったらしい。
これはモテるだろうな。アイドルさながらの人を惹きつける笑顔を見ながら、撫子はなぜかがっかりしてしまった。自分とは正反対の位置にいる人だ。
それが撫子が店長に抱いた第一印象だった。
これはまだ、この店が世界的に有名ではなかった頃のはなし。
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