1人が本棚に入れています
本棚に追加
朝の改札は、オフィスへと足早に向かうサラリーマンやOLでごった返している。いわしの群れのように一定方向へと向かう彼らを、時折ニュースで見ていたときは、自分がその群れの一員になるとは思っていなかった。
ピッという軽い音を鳴らし改札を出ると、目の前の女性が何か落とした。急いで拾うと定期入れのようだった。
「あの、すみません!これ落としましたよ。」
振り向いた女性はどこか嬉しそうな顔をしていた。
「それ、差し上げます。ご活用ください。」
私が唖然としていると、その女性はいわしオフィスワーカーの群れに紛れてあっという間に見えなくなってしまった。
差し上げますって…他人の定期をもらってもどうしようもない。この混雑の中駅員に届けるのは骨が折れるし、会社に遅刻もしたくない。帰りに駅員に届けようと、とりあえずトートバックの内ポケットへ入れた。
ベトナムやら中国やらの様々な国の領収書を整理して出張費の明細を作成したり、住宅手当ての支給に必要な書類を営業部の社員に催促したりしているうちに、その日の仕事は終わった。
拾った定期入れのことを思い出したのは、特に見たくもないTVのニュースを流し、1Kの部屋に狭苦しく置かれているベッドの上でごろごろしていた時だった。
悪いかな、と思いつつ好奇心で拾った定期の名前を見てみた。
「ミナミ リエ」
目を疑った。なぜならそれは、わたしの名前だったからだ。
念の為、高校生の時から使っている自分のいつもの定期入れを取り出してみた。中身はきちんと入っており、名前は「ミナミ リエ」となっていた。
一体どういうことだ。たまたま同姓同名だったのだろうか。そんな偶然があるのか。私は拾った定期をよく見ようと、定期入れから取り出した。
いつもの定期とデザインは同じようだ。印字されている名前も同じ。駅名の欄は、違った。
「○○商社人事部→ 」
私の所属している部署名だ。行き先は書かれていない。日付は今日が使い始めとなっており、期限は半年後だ。
気味が悪い。手のこんだいたずらだろうか。裏面も確認してみた。いつも使っているものと同じように、細かな文字でみっちりと何かが書かれている。
●当社が定めた特定の場所で利用できます。(品○駅)
●記名人以外は利用できません。
●本カードが不要となった場合は、当社が定めた事業者にお返しください。
(電話 03ー〇〇〇〇ー××××)
普通の定期のような内容が続く。しかし四つ目の項目は、奇妙な内容だった。
●あなたのなりたいものを行き先として決めると、そこへとご案内します。
少し、理解に苦しむ。もとい、全然わからない。謎の利用案内はまだ続く。
●行き先(なりたいもの)を決定後、その行き先を心に思い浮かべ本カードをおよそ十秒握りますと、行き先欄に記載されます。なお、記載後の行き先変更はできかねますのでご注意下さい。
●ご利用の際には、快く次の方に拾ってもらってください。行き先が記名人のみならず他の方も幸せにできるものだと、より効果が期待できます。
現代版不幸の手紙の類だろうか。宗教の勧誘の一種だろうか。すべて読み終わったわたしの鼓動はいつもより速かった。
なりたいもの…私は定期を握ったまま、今の会社に入る前の大学時代の自分を思い出した。楽しかった思い出とともに、何回挑戦しても報われなかった苦々しい思いも湧き上がった。親や友達にも「現実を見ろ」と反対された。
もし、あの時の夢を叶えられるなら…。
いや、これはきっと何かのいたずらだ。こんな都合のいいものがあるわけがない。我に返った私は拾得物として明日駅員に届けようと心に決めた。表面は自分の名前が書かれていたので、なんとなく見られたくなく、裏面が見える状態のままで元の定期入れに入れた。
今度は忘れないよう、いつも着るジャケットのポケットに入れた。
次の日の朝、幾人かにぶつかりつつ、いつものいわしの群れのような人混みから、ぐいっと体をひねり出し、駅の窓口へと向かった。
「すみません…あれ…?」
何でしょうか、と疲れた顔できく駅員に、何でもありません、と謝り私は窓口から離れた。
昨日の定期入れがない。きっと落としてしまったのだ。忘れないようにと浅めのポケットに入れたのが仇となった。近くにないかと見回したが、それらしいものは見えなかった。この人混みの中探す気力はなかった。もういいやと、わたしはそのまま、いつもの職場へと向かった。
しかし、その日以来、思い出してしまった夢への想いが、消えなくなってしまった。また辛い思いをするかもしれない、そんな気持ちがなくはなかった。しかし、わたしはまた、挑戦し始めた。
あれから三年程経っただろうか。
もしも、あなたが、そんな定期を見つけたら、握りしめて自分の夢を思い出してみてほしい。その後、落とすのだ。そして、誰かに拾ってもらう。
騙されたと思ってやってみてほしい。
なぜなら、私はこの通り、あなたにこんな物語を届ける、小説家になることができたのだから。
最初のコメントを投稿しよう!