0人が本棚に入れています
本棚に追加
優しい声が聞こえた。
――あなたが約束を守ってくれる限り、わたしもあなたとの約束を必ず守ってあげる。
だから自分はコクリ、と。
ひとつ頷きゆっくり目を閉じた。
✳︎
ある朝、目が覚めると自分は蝶々になっていた。以前のことは分からない。
もしかしたら、ずっと前から蝶々だったかもしれないけれど、違う気もする。いや、今はごちゃごちゃ考えることはよそう。
だって、この羽をごらんよ。
こんなに自由に飛べるんだ、些細な問題はすぐにこの空に溶けてしまうだろう。
ある夜、自分は、はたと気が付いた。
おかしい。この羽根は蝶々の、ものではない。
黒く、大きな……そう、自分はいつの間にか立派な鷲になっていた。左右の羽根をめいっぱいに広げる。これ以上嬉しいことはない。なんたって、だ。なんたって蝶々であった頃よりも高く高く飛べ、もっともっと空に近づけるのだ。必死に羽ばたけば、天に届けば、いつかあの青い色でこの羽根を染めることができるだろうか。
あるとき眠りから覚めると、自分はクジラだった。前のことはボンヤリ覚えている。たしか、空を飛べたはずだった。今は到底無理なことだが……それがどうしたというのだ。自分は今や、こんなにも雄大で荘厳な大海原を自由に泳ぐことができる。
まずは考え込むより楽しもうじゃないか。
答えは後ろじゃなく、先にある。
そうやって悠然と進んでいると――あれはなんだろう。ぶく、ぶく、ぶく。
小魚の大群だろうか。
先に黒くて大きなモヤモヤが見えた。
ある日、重たい身体をゆっくり起き上げると、自分はチーターだった。
水中とは違って身体が重くて煩わしいと思い込んでいたが、いざ地を掛けていくとどうだろう。風を切って走ることのなんと素晴らしいことか。夢中になるのにそう時間は掛からなかった。
そして、自分はいつからか、月を捕まえてみたくなって、その脚力をもって必死に追いかけるようになった。こんなにも自由に早く走ることができるのだから、今日こそは、鼻先ぐらい触れることができるかもしれない。
そうやって意気込んでいると――あれはなんだろう。ぞく、ぞく、ぞく。
黒くて大きなかたまりのモヤモヤが近づいてくる。毛が逆立った。月のことなんてスッカリ忘れてしまって本能のまま逃げ出した。
あれは、きっとよくないものだから。
しばしばした目をパチパチする。
どうやら自分は飼い犬という立場らしい。
朝は広い庭を自由に駆け回り、夜は室内の好きな場所で自由に眠る。
ご主人はというと、毎日、手の込んだごはんを作ってくれる。
散歩もどこまででも付き合ってくれるし、お気に入りのボールを持っていけば、一緒に遊んでくれる。芸を披露すれば、彼には自分のように喜びを表す尻尾がないが、代わりに両手でめいっぱい撫で回してくれるのだ。
それから何度目かの冬がやってきた。
そして、気付く。
ああ、あれは――黒くて大きなモヤモヤだ。
あれのことを自分は知っている。
あれがどうしようとしてるのか、知っていた。
あれは自分を飲み込もうとしているのだ。
そんなこと、絶対いやだし、消えたくない。
けれどお構いなしにアレは、何かブツブツ言いながら近づいてきた。
このままでは自由に散歩することも、遊ぶこともできなくなる。
自分は思い切って家をとびだした。
それから幾年経った頃、ふと起き上がると自分は人間だった。人間であると、昔、蝶々や鷲やクジラ、チーターや飼い犬だったときを思い出す。
後には思考があり、その先に言葉がある。
ついに、やったやったのだ!人間だ!自分は歓喜に沸いた。
自分はこれを望んでいた。望んでいたんだ、これであのモヤモヤの正体を調べることができ、他者に協力を仰ぐことかでき、対抗手段を考え、そしてそれを実行することができるんだから。
そうとなれば、さっそく行動だ。
自分は勉学に励み、たくさんの人々と交流し、多くの経験に恵まれた。
ところが。
嗚呼、なぜだ?
学ぶたびに奇跡は失われ、交流を深めるたび心は乖離し、経験は臆病者の烙印を押し迫ってくる。
なんて、不自由なのだろう。
大海原や大空や草原の過ぎ去った日々に憧憬を抱かずにはいられなかった。
言葉が通じるのに、話が通じない。
真実は本当のことではないという。
「こんなことなら、別の何かがよかった」
そんな言葉が、まるで硬い殻を破るように、ふいに声にのった。
ときだった。
――キキキィ…!!
古ぼけたドアを開けるような、木の軋む音が聞こえてきた。
ここは鉄骨鉄筋コンクリート造の建物で、窓ガラスが陽光を運び、中が空洞になっている軽い戸しかない。
ということは、この体内に響く音の正体は、例の大きくて黒いモヤモヤの他にない。
「何だって言うんだ」
もうたくさんだった。
自分は自由に生きることができれば、どんな姿だって構わなかったのに、ついに追いつかれてしまった……!
ギギ、ぎぎぎ。大型トラックぐらいかそれ以上の大きさもあるモヤモヤが一挙に自分のいたフロアを占拠したせいで、ここがどこなのか、前後不覚になる。
それと同時だった。
「あなた、『別の何か』といったわね」
それは女の声をしていた。
低くもなく、それでいて高くもない抑揚のない彼女の声が、鼻先に当たるほど真近に届いた。
その声が、黒いモヤモヤから発せられたということに、すぐに気がつくことはできなかった。
「なら、約束はここまでね」
約束。
「約束?」
「ええ、約束よ」
やくそく。
何度もその言葉を噛みしめる。
「あ……」
すると、自分はあることを思い出した。
それは、ずっと知っていたこと。
うんと大昔、飼い犬やチータやクジラ、鷲や蝶々になる遥か前のこと。
自分は一度ヒトだったことがある。
それで、それから――
「交換こ」
ずううん…!!!!
彼女が触れたのか、自分が求めたのか。
自分の身体は、とっくに黒いモヤモヤに覆われていた。
そう意識した途端、彼女が、立ち止まることも振り返ることもせず、自由に地を駆け巡っていることに気が付いた。
それからの彼女は、人の姿で、自由を謳歌し、愛し、そして八方塞がりの、崖っぷちの、壁にぶち当たる人々に手を差し伸べ、自由を与える側に立っていた。
まるで、女神のようだと人々が言う。
天使の踊り子のようだと感嘆した者もいた。
だが、彼女へのどの賛辞も、自分は否定した。
それじゃ、だめだ。
だって、だって、だって……
彼女が自由を欲していれば、求めてくれさえすれば、自分は、また形を保てるのに、ずっと、こうして黒いモヤモヤの形で、彼女を付き纏うだけでなく、また自分にこと葉としこうと、、が、もど、て…、?
「あら、あなた。まだ縛られていたの?」
かの女の声がとおくなる。
「まったく――仕方がないわね。ほら、ここをこうして、えいっ」
軽快な言葉は剪定バサミのように、地に這った根っこを断絶した。
「ほら、あなたはこれで自由に、時間も考えも言葉も欲も見栄も外殻もなにも必要なく、ひよっとすると『生』さえ関係なく、切り離され、自由にあり続けられる姿になった。いいえ、姿なんて言ったらまた形作ってしまうわね」
そしてさいごに、彼女は目一杯の笑顔を、もう宙に溶けかけ紐解かれかけているモノに、言の葉を紡ぐのだった。
「約束通り、あなたはあなたの、私は私の自由を手に入れた。だから――おめでとう、そしてさようなら。」
おわり。
最初のコメントを投稿しよう!