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二人並んで腰かけたベンチ。
時折吹き抜ける風が葉を鳴らし、木陰の光を揺らめかせる。
まだ夏の残るそこは爽やかで、しかし暑くはない。
静かで、幸せな時間だった。
「私ね、きっと貴方を一生許さないと思う」
幾度か秒針が12を回ったころ、香耶は呟くようにそう告げた。
言葉とは裏腹な、穏やかな顔で微笑んだ香耶に、篤は困った顔で笑みを返す。
「それは……怖い話だね」
篤のそんな困り顔に、香耶は目を向けることもなく。ただ、真っ直ぐ前だけを見つめていた。それはまるで篤から目を逸らすように。
「私はほら、嫉妬深い女だから」
「愛情深い人だと思うよ」
「拗らせてるし」
「一途なんだよ」
「根に持つし」
「それは否定しない」
クスクス、と香耶の笑い声が零れた。
ようやく、香耶の目が篤を映した。諦めたような、不貞腐れたような、曖昧な表情が、篤を見ていた。
「否定してよ」
「ちょっと否定できなかったな」
篤は大げさに眉を寄せ、思案するように顎に手をやる。
芝居がかった仕草に、香耶は不満気に鼻を鳴らした、
「まだプリン事件を根に持ってるの?」
「あの時の君はしばらく怖かったからなぁ」
「私の楽しみ奪っちゃうからでしょ」
仕事終わりの大事なリフレッシュだったのに、と唇を尖らせた香耶に、篤は素直にごめんと頭を下げた。
「食べ物の恨みの恐ろしさを知ったよ」
「そうだよ、食べ物の恨みは恐ろしいの」
うっかり食べたプリンの代償は青いカレーだったり、人前で開けられないお弁当だったりと地味ながら大変だった。
「怖いなぁ……」
全部、忘れてくれればいいのに。
それはどこか、祈るような一言だった。
プリンの話をしていないことは、嫌でも分かる。
香耶は下唇を軽く噛むと、小さく首を横に振った。
「……駄目。全部忘れてあげない。言ったでしょ、許さないって」
許さない。
全部忘れない。
今までのどこか諦観の滲む目ではない。
強く、まっすぐに見つめてくるその目に、今度は篤が諦めたように笑った。
「一生のお願いでも?」
それはお願いと言うよりは、確認作業のようだった。
性質の悪いお願いに、香耶は嫌そうに眉をひそめる。
「それ、私何回きいてあげたか覚えてないでしょ」
「3回くらいかな」
「30回はきいたよ」
思い出すように首を傾げ、指を折っていく。
片手を越えた辺りで、篤は白々しい顔で首を振った。
「うっそだぁ」
どこかおどけた様な。
雰囲気ごと、話を逸らそうとするような。
叶わないと知っていても。
敵わないと知っていても。
「本当だよ。だから……最後に1回くらい私の一生のお願いきいてもらうの」
「頑固だなぁ」
1回を強調する香耶に、篤は気まずげに肩を竦めた。
「愛情深くて一途で、根に持つ女だから」
「そういうところだよ」
「貴方が好きなところ?」
「それはちょっと間違ってるかな」
からかう様に笑った香耶に、篤は優しい笑みを浮かべて否定した。
「あれ、おかしいな」
「全部、好きだからね」
目を見開いて、篤を見つめる。
香耶は何度か口を開いて、だが何も言わずに篤から顔を逸らした。
風が何かを攫うように、ふたりの間を通り抜けた。
「……そっか」
絞り出すような一言に、篤は目を眇めて香耶を見ていた。
「そうだよ」
「酷い人」
対して、香耶は震える声を抑えようと必死だった。
忘れてくれなどのたまうくせに。
「ごめんね」
「許さない」
置いていこうとしているくせに。
「愛してる」
「許さない」
もう二度と、言ってくれないくせに。
遠くで音がする。
じわじわと近づいてくる音が何なのか、香耶にはよく分かっている。
「そろそろ、行くね」
音は、終わりの合図だ。
篤はまるで何でもないことのように香耶に告げる。
置いていかないで、と縋った最期のお願いは聞いてもらえなかった。
嘘つきと叫んだ。
嫌いと叫んだ。
あの時、言いたかったことはそんなことではなかったのに。
「……酷い人」
違う。
そんなことが言いたかったわけでもない。
香耶は零れそうになる涙を払って、不格好でも笑って見せた。
「……行ってらっしゃい」
ありがとう、と。
風に解ける篤の背中に囁いた。
朝を告げるアラームを止める。
見慣れた部屋、慣れない景色。
「私も、愛してる」
伝う涙は、とても澄んでいた。
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