5人が本棚に入れています
本棚に追加
「そういえば名前聞いてなかったよね?」
唐突に陽花が聞いてきた。
「そうだっけ? えっと、こう……」
「こう?」
しまった、と慌てて口を噤む。俺はいつもどうでもいい女を相手にした時、偽名を使う癖があった。
ついこの間まで、香史と名乗って金持ちの人妻と遊んでいたからついそう名乗ってしまいそうになった。
人妻の由奈に、冗談で離婚届と婚姻届を渡すと真に受けて、夫と別れる、なんて言い出したからあの時は焦った。その場をなんとかやり過ごして俺は逃げた。
いい財布だったのに惜しい。人妻は面倒を起こさないから楽だと思ったのが間違いだった。
その前は風俗嬢の女だ。その時は確か栄太と名乗っていた。金はあるし、何より献身的だった。姉が事故に会ったと嘘をついてやると涙を流して同情してきた。あの時は笑いを堪えるので必死だった。
しばらくは良かったのに、あいつは俺の事を家に縛るようになった。大事な弟だとか訳のわからないことを言い出し、俺を軟禁しようとしたのだ。思い出すだけでも恐ろしい。
だが、今回は今までとは違う。本名を名乗るつもりだった。それぐらい陽花は魅力的だったし、病的に惹かれていた。
一つ大袈裟に咳払いをしてから、
「宏輝だよ」と取り繕う。
「宏輝?」
陽花が俺の名前を繰り返した時、目の前に分かれ道が見えた。
「そこ左だね」
俺はそう言いながら、もう一人の女を思い出していた。今日みたいにナンパで捕まえた女だ。
平凡なOLの女など相手にしたのが失敗だった。容姿も平凡、金もそこそこ、声を掛けたのがそもそも間違いだった。
職業を偽り、仕事を辞めたと嘘を吐いても微塵も疑いもしない馬鹿だった。
予想よりも早く金が底をついた事に俺は苛立った。その上「仕事見つかりそう?」なんて憐れみの目であの女は俺を見やがった。怒りをぶつけると、翔也、翔也と女は泣きすがった。それがまた鬱陶しくて、暴言を吐いて出ていった。あれは俺らしくなかったと反省した。
そのどれもが今日、陽花に出会う為の失敗だったと思えば良い過程だ。
ガタン、と音を立てて車体が一瞬何かに乗り上げた音がした。
前に意識を遣ると、別れ道を右側に曲がっていた。
「そっちじゃないよ。間違えてる左だよ」
「大丈夫。前に来たことあるんだ。この先に絶景があるの」
陽花は笑いながら言った。
砂利を転がす音が早くなって、ガタガタと車が揺れている。舗装されていない道の先にグイグイと進んでいく。
「それにね間違ってるのはわたしじゃないよ」
何のことかわからず隣を見遣った。
「宏輝じゃないでしょ?」
アクセルを思い切り踏み込む音がする。目の前がいつの間にか崖になっていた。
死……。
頭に急激に浮かんだ文字を掻き消す。
状況が飲み込めない俺は、何も言えずただ、ハンドルを握る女の顔を見ていた。
「やっぱりわたし、あなたのその歪んだ顔が好き」
女の言葉を最後に、身体がふわりと宙に浮いた。
「あなたの名前は翔也でしょう?」
最初のコメントを投稿しよう!