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部屋のインターフォンが鳴って、頭によぎった離婚の二文字を慌てて取り払う。
香史を部屋へ招き入れると、我慢できないといった様子で私の身体を抱き寄せて唇を寄せてくる。
香史のそれがいかにも芝居がかっていて、ドラマのワンシーンを見るようにどこか俯瞰でそれを受け入れつつ自分も演技をする。
そうすることで無理矢理に高め合った感情をぶつけ合う事ができるのだ。偽りの幸せを形造り、軽薄な愛が私を満たしていく。
「前にあげた財布いくらで売れた?」
一仕事を終えたように、裸でベッドに腰掛けて電子タバコを咥える香史に聞いた。
「二万くらい」
私はベッドから起きあがり、クローゼットを開けた。
「これ、いい値段すると思うよ。限定品」
夫の金で買ったブランド物の鞄を手渡す。
要らなくなった物を香史に渡してそれを彼がフリマアプリで売るというのがいつからか決まりになっていた。
「それ売ったお金で私に何かプレゼントしてよ」
「由奈はなんでも買えるだろ?」
「香史が選んだ物が欲しいのよ。なんでもいいから、安物でもなんでも」
香史は納得したというように優しく頷いた。
渡してくれた香史からのプレゼントは思い掛けない物だった。
離婚届と婚姻届。二枚の紙をベッド横のテーブルに置いた。婚姻届の欄には香史の情報がすでに埋まっていた。
「由奈が欲しいものってこれだろ?」
「冗談でしょ?」
私が平静を装いながらそう聞くと、香史はそれまでの真剣な表情を崩して、笑い出した。
「うん。冗談。どう? 俺にしてはシャレが効いてた?」
大きく笑った後、私に向けていた目を逸らした香史の表情に、捉えようのない気持ちを見た気がした。
本気だったのだろうか。香史がこんな事を冗談でするはずがない。
私の反応を見て、私を気遣って、今の関係を壊したくなくて、香史は冗談と言ったのではないか。
そう思った瞬間、私の中の何かが壊れる音がして、私の中から夫の姿が消えたような感覚に陥った。
若さなんて関係ない。これ以上ない贅沢もした。これから先は香史と二人で苦労するのも悪くないかもしれない。
本当は愛情だけがあれば他には何も要らなかった。そんな簡単な事に今の今まで気付かないふりをしていた自分はどうしようもなく馬鹿だった。
私は香史を強く抱き締めた後、ポールペンを探した。
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