キミは目玉焼きのキミ

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 あの幸せな時間はもう遠い昔のこと。  彼女は今別の男とホテルに泊まり、俺は彼女らに朝食の皿を給仕するバイトのウェイターだった。  麗美だということはすぐ分かった。別れて時間か経っていたけれど相変わらず綺麗だ。彼女は俺のことが分からなかった、というかこちらを全く見ていない。まあそうだろう、レストランの従業員の顔なんてまじまじと見る必要はないし、そんな暇があったら目の前の男を可愛く見つめているほうが何倍も見返りが多いだろう。  朝食の目玉焼き、いや片仮名でエッグベネディクトが彼女たちのテーブルにある。男の皿は空だったが、麗美のは手つかずだ。  こちらお下げしてもいいですかと聞いて空いた皿に手を伸ばす。男も麗美も頭を軽く動かすだけで一ウェイターに顔を上げることもしない。それでいい、名乗るつもりはない。少なくとも多分俺より成功を収めている男と並び、いまだにバイト生活の自分をかつての恋人に披露する自虐プレイは少しもそそられなかった。  だが何かの連絡が来たのか男はちょっと失礼と麗美に断って中座した。このタイミングで、彼女の前にはまだ手つかずのエッグベネディクトが残っているのに、俺がすぐそばにいるというのにだ。  言葉が届かなくなった距離まで男が去ったとき、俺の自虐心は嗜虐心に置き換わった。 「これ残すんですか、チュウチュウ吸うには調度いい固さですよ」  麗美ははたと動きを止めた。耳から入った言葉が脳に届き、その意味を解して顔をあげる。言葉という目に見えない武器が確かに彼女にヒットした瞬間だった。  もちろん時給で働くバイトとして悠長にその観察をしていた訳じゃない。空いた皿を重ね下膳の用意をしながら目の端で彼女を捉えていた。だってお客様だ。粗相のないように一挙手一投足注視しなければ。 「許さない」  はて、何をだろう。 「お口に合いませんでしたか。申し訳ありませんでした」 「許さない」 「私の接客態度にでしょうか、何か問題ありましたか」  下から睨みつけてくる麗美。凄んだ顔も美人で大好きだった。だからもっと意地悪したくなる。 「ああ、あの食べ方は俺とだけのとっておきだった?」  落としたカトラリーを拾うふりをして、彼女の耳元で囁く。 「教えてやれよ、玉子の黄身で唇ベチョベチョにしながらするキス好きだってこと」  麗美はハァと小さく息を吐き、今度は反対のことを言う。 「許して」  中座した男が席に戻ってきた。先ほどの許してはもう喋るなとの牽制だろう。  麗美は男に甘い笑顔を作る。もうこちらに視線を戻すことはない。  引き際は考えてなかった。  二人きりなら思う存分彼女を困らせたいところだが、男を交えてはそんな気はない。また空気のような存在のバイトに戻ろう、このまま立ち去ればいい。だけど俺の脚は動かなかった。  ある日突然消えたのはお前だ。  俺の財布から金まで抜いて。  許さないって言うのはこっちの方だろ。  もっと復讐してやりたい。  どういう言葉をかけたらどう反応するだろうか、どこまで騒ぎを大きくしようか。だが下手を打つと割のいいこのバイトを失うだろうし、麗美にまだ未練があるように思われても癪に障る。 「幸せそうで良かった」  色々考えた結果俺は笑うことにした。悪意のない、だけど少し淋しそうな顔を作ってポロリと一粒涙をこぼす。  彼女が出ていく前は確かに喧嘩は多かった。主に金銭的なことで。売れる役者を目指し何年も定職につかずの下積み生活を彼女はよくなじっていたが、おかげで見せ場に涙を流すなんて造作もない。 「和田さんの恋人ですか。美男美女でお似合いですね」  男は初めて俺の顔を見た。何が起きたのかわからないキョトンとした顔で。  俺は男の反応を待たず一礼し、両手に空いた皿を持ちその場を去った。  今の誰と尋ねる声、麗美がえーと、前バイト先で一緒だった人でとしどろもどろ説明している。  困っている彼女の声を聞きながらほくそ笑んだ。今の言葉かけはフェイクで本当はもう一つ意地悪をしていたのだ。  落としたカトラリーを拾うふりをした時、空いた皿を触って汚れた指をさり気なく彼女の服で拭った。白いスカートの裾部分に付いたのは玉子の黄色い汚れ。彼女の服装は全身白系統なので、裾の黄色一点付くとまるで彼女自身が目玉焼きみたいだった。  チュウチュウ吸いたい? いやもういい。  俺だってもうあの食べ方はとっくに止めているのだから。  だからもう許すよ、麗美。
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