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「ごめんね。お母さん、花影に罹るのが怖くて……凄く、凄く、怖くて……」
ごめんねと繰り返す老婦人の背中を迎えに来た娘がそっと抱きしめた。二十代半ばの、助手と同じ年頃の娘だ。
老婦人に〝あの子、綺麗だったでしょう?〟と聞かれた助手が言い淀んだのも仕方がない。平々凡々な、よく言えば気の優しそうな、綺麗というよりはどちらかと言うと可愛らしい雰囲気の女性だ。
過去には美しく咲き誇っていただろう老婦人には少しも似ていない。リラの腕前だけでなく顔立ちも父親に似たのかもしれない。
「最後まで言わなかったな」
花影に罹るのが怖かった、ごめんねと繰り返し、娘に支えられて帰っていく老婦人を見送りながら弁護士は呟いた。
「そうですね、最後まで謝るって言いませんでしたね。そんなに間違いを認めるのが嫌なんでしょうか。謝るのが嫌なんでしょうか。賠償金をぽんと支払えるほど生活にゆとりがあるわけじゃないでしょうに」
困り顔でため息をつく助手の言葉に弁護士は首を横に振った。
「いや、違う。誰が花影に罹るのが怖かったのかってことだ」
老婦人が恐れていたのは娘が花影に罹ることだ。うちの娘が花影に罹ったらどうするんですかと弁護士の前で繰り返した。
でも――。
「娘の前では一度も言わなかった」
花影に罹るのが怖かったと言うばかりで、誰が花影に罹るのが怖かったのかは決して言わなかったのだ。
腕組みをしてため息をつく弁護士に助手は〝あ……!〟と声をあげた。
「どうするんですか、先生」
「どうするもこうするもないさ。あのご婦人も言っていただろ。あとからならなんとでも言える。外からならなんとでも言えるって」
お隣を消毒なんてしなくても老婦人の娘は花影に罹らなかったかもしれない。引っ越さなくても花影に罹らなかったかもしれない。リラを続けていても演奏者になんてなれなかったかもしれない。
今となってはもうわからない。
「だから俺たちはあとから、外から、無責任にどうこう言うだけだ」
そう言い捨ててきびすを返しながらも弁護士の表情は晴れない。眉間に皺が寄っていた。
「長引きそうですね」
助手の言葉に弁護士は首を横に振った。
「あのご婦人が謝ったとしても結局は長引いたさ」
弁護士の答えに助手は首を傾げた。
「依頼人はお隣の奥さん、花影に罹った息子さんの母親だ。あのご婦人と同じように〝母親〟なんだ」
花影が原因で視力を失った息子は今も施設で暮らしている。本人が家族に遠慮しているのもあるが娘が――花影に罹った息子の妹が兄が家に帰ってくることを拒んでいるのだ。
その妹は老婦人一家が引っ越す前から、もう十数年も家から出ていない。
「謝ってさえくれれば許すなんて言っても、実際にそうなったとしても、誠意が足りないだとか、何が悪かったのかわかってないだとか言って結局、許さないんだ」
真っ直ぐに見つめる老婦人の目に咲き誇った感情を思い出して弁護士は額を押さえた。
「許せないんだよ、あの人たちは」
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