花影

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「大違いですよ」  王都のすみに建つ粗末な住居兼事務所のせまい一室。そこに用意された質素な木製のテーブルと二脚のイス。  そのイスに背筋を伸ばして座る老婦人を前に壮年の男の弁護士は言った。  下級貴族や商家の子供相手に家庭教師をしていたらしいが、なるほど。老婦人の座り姿を見て弁護士は妙に納得した。 「商売のためにってことはそれで収入を得ていたってことです。生計を立てていたってことです。あなたが消毒薬をばらまいて死なせてしまった分、収入が減って、生計が立ち行かなくなったってことです」  過去には美しく咲き誇っていただろう老婦人は落ちた髪を耳にかけながら弁護士を黙って見つめている。 「それに花影は感染力の弱い病です。お隣の息子さんが罹ったときには治療薬だってできていた。体が弱っているときでなくちゃあ、うつったりはしない。もしうつったとしても相当に体が弱っているときでなくちゃあ、薬ですっかり治るんですよ」 「えぇ、存じ上げております」  ピシャリと老婦人は言った。 「でもねえ、弁護士先生。感染力は弱くてもうつるんですよ。薬があるといっても当時はできたばかりの新しい薬なんですよ。相当に体が弱っているときでなくちゃあ、薬ですっかり治ると言っても相当に体が弱っていたら薬で治らないってことなんですよ」  老婦人はしわだらけの手で顔の右半分を隠して囁いた。 「実際、お隣の息子さんは片目の視力を失ったそうじゃないですか。うちが引っ越したあとに」  花影病は名前のとおり、花の影のような模様が皮膚に浮かぶ感染症だ。  青黒い茎がぐんぐんと伸びて葉をしげらせ、いずれは真っ青な花を咲かせる。花の咲いた場所が手足なら動かなくなり、胸なら心臓や肺の働きが弱くなり、目なら視力を失う。  花の影が浮かんだ皮膚は放っておけばいずれ(ただ)れて二度と治らない。患者はその見た目のせいで昔からずいぶんと忌み嫌われてきた。  手で顔の右半分を隠したまま、老婦人はじろりと弁護士を見つめた。 「感染力は弱い、薬がある、相当に体が弱っているときでなきゃあ、大丈夫なんて……ねえ、弁護士先生。うちの子に病気になるな、ちょっとも体調を崩すなって言うんですか」  ねえ、弁護士先生ともう一度、囁いて老婦人はゆっくりとまばたきを一つした。 「それにねえ、弁護士先生。いくら感染力は弱い、薬がある、相当に体が弱っているときでなきゃあ、大丈夫なんて言っても国の決まりでは花影に罹ったかもしれないとわかったら医者に診せて、役場なり駐在所なりに知らせなきゃいけない。施設に入って治療を受けなきゃいけない」 「その決まりなら廃止になりましたよ」 「ほんの少し前のことでしょう? 今はそうでもあの頃はそういう決まりだったんですよ。でも、お隣の奥さんは医者にも診せなければ役場にも駐在所にも知らせなかった。花影だと薄々わかっていて息子さんを隠したんですよ」 「だから知らせたんですか」  ええ、と答えて老婦人は続けた。 「私だけじゃないと思いますけどね。せまい町ですもの。みんな、薄々わかってましたよ。隠したってわかる。役場や駐在所にも噂は届いていたと思いますよ」  そんな話はどうでもいいとばかりに首を横に一振りして老婦人は睨むような目で弁護士を見つめた。 「あの頃は花影だとわかったら知らせなきゃいけない決まりだった。なのにお隣は薄々わかっていて隠した。息子さんが施設に連れて行かれたあとも面会は禁止されていたのに会いに行ってたんですよ。毎週のように」 「それで消毒をした」 「あそこ(・・・)に入っている人たちはね、こっそりと塀の穴かどこかから抜け出すんですよ」  弁護士の質問を無視して老婦人は押し殺した声で言う。 「抜け出して近くの街の店だのなんだのに入り込む。新しくできたっていう薬のおかげで黒い花の影はすっかり薄くなって一見すると花影だとはわからない。だから店の人も〝いらっしゃいませ〟なんて言って入れてしまう。でも、花影の〝タネ〟は残っている。薬をやめるとすぐに影は黒くなる。全然、治っちゃいないんですよ」  そう言って老婦人は額を押さえ、苛立たし気にため息をついた。過去には美しく咲き誇っていただろう老婦人が一層、老け込む。 「だから、お隣の奥さんが面会から帰ってくるのをうちの角で待ち構えて消毒薬を頭からかけて消毒するんです。うちに〝タネ〟を持ち込まれちゃあ、困りますから」 「それからお隣にあがってあちこち消毒して、まだ五才にもならない娘さんやテイリヤ蝶が飼われている小屋も隅々まで消毒してまわったんですね」 「あちらのおうちはテイリヤ蝶の飼育小屋もあって広いですからね。ずいぶんと骨が折れましたよ」  鼻で息をつく老婦人に悪びれる様子はない。この事務所に呼ばれたわけも老婦人はわかっていないのではなかろうかと弁護士はこっそりため息をついて話を続けた。 「ですからね、あなたがやったことのおかげで損害を(こうむ)ったわけだから賠償金を支払ってほしいって、そういう話なんですよ」
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