花影

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「損害、ですか」 「まるで汚いモノか何かのようにお隣の住人や家屋を消毒してまわって、家から出るな、息子の面会に行くなと脅して精神的な苦痛を与えた。あなたがやった消毒によってテイリヤ蝶は死に、商売にも影響が出た。商売で得たお金で生計を立てていたんだから当然、生活にも影響が出た。だから、その分の損害を支払ってほしいってわけですよ」  弁護士をじっと見つめて老婦人は唇を引き結んだ。賠償金を支払ってほしいと言われてそうですか、と簡単に言えるほど老婦人の生活も余裕があるわけではないのだ。  身を乗り出すと弁護士はここぞとばかりに〝本来の目的〟を切り出した。 「でもね、間違いを認めて謝ってくれさえすれば許すってお隣さんは言ってるんですよ。だから……」 「どこそこの家で花影が出たってうわさはなんだかんだで広がる。ずいぶんと遠くまで広がるんです」  だから謝って、和解しておしまいにしましょう。そう言おうとしていた弁護士の言葉を老婦人は遮った。 「私が家から出るなと言わなかったとして出歩くお隣を町の人たちはどんな風に見たか。テイリヤ蝶が死ななかったとして花影が出た家で作られた糸や鱗粉を買うような業者がいたかどうか。それにねえ、弁護士先生。うちだって……」  老婦人の言葉を遮ったのは部屋の扉をノックする音。  それと――。 「先生」  顔をのぞかせた若い女の助手の声だった。二十代半ばの助手を見て老婦人はつり上げていた目を伏せるとうつむいた。  弁護士はといえば助手の耳打ちにこっそりため息をついた。この場で、今日のうちに話をまとめてしまいたかったが仕方ない。 「ご婦人、お帰りくださって結構ですよ。あとのことは書簡でやりとりしましょう」  老婦人は驚いた様子で顔をあげた。  でも――。 「娘さん、私らと同業者だったんですね」  そう弁護士が言った瞬間に皺だらけの手で顔を覆って背中を丸めた。 「隠しておいたのに」 「朝、家を出るときのお母様の様子が気になって仕事に行く途中で引き返したんだそうです。戻るとお母様はもういらっしゃらなくて、家の中を探してみたら先生が送った手紙が見つかって……それで慌てて追いかけて来たんだそうですよ」 「優しい娘さんですね」 「……ええ」  助手と弁護士の言葉に老婦人はうつむいたまま、うなずいた。 「それに立派な娘さんだ。年齢から推測すると飛び級している。弁護士になるための試験も一回で合格したのでは?」 「ええ」 「一生懸命に勉強したんでしょうね。立派な娘さんだ。ねえ、ご婦人。娘さんのためにも間違いを認めて、謝って、穏便に済ませましょう」  机に広げていた書類を集めて整えた弁護士は顔をあげた。 「ええ、そうです。一生懸命に勉強してました。必死に勉強してました」  顔をあげた弁護士の目を、顔をあげた老婦人の目が真っ直ぐに見据えた。 「唇を噛んで、必死な顔で勉強していたんですよ、あの子は」
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