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「私はその手の才能はからきしなんで、きっと主人に似たんでしょうね。あの子、リラがとても上手だったんです」
リラは四十数本の弦を爪弾いて奏でる楽器だ。〝女神の歌声〟と称されるほどに美しく繊細な音色がする。
「王都のコンクールで一番になったこともありますし、貴族のお邸に招かれてパーティで演奏したこともあるんですよ。窓辺に置いてあったあの子の楽譜に風に乗ってお隣から飛んできた青い鱗粉が積もっていて、テイトリア様の勝利の祝福ね、なんて言って……」
微笑んで誇らしげに語る老婦人の表情が一瞬、曇ったのは青い鱗粉とともに風に乗ってお隣から飛んできていたかもしれない花影の〝タネ〟のことが頭をよぎったからだろう。
「……上手に弾くんです。それに何より楽しそうに弾く。リラを弾いているときのあの子は本当に楽しそうだったんです」
リラを弾く娘の姿を思い浮かべているのか。そう言って微かに笑む老婦人もまた楽しそうで、過去と思われた美しさが再び咲いたようだった。
でも――。
「お隣を毎週のように消毒してまわるのも限界で、うちは引っ越すことにしたんです。先祖代々の土地を手放すことにしたんです」
そう言った瞬間、口元に笑みの形だけを残して老婦人の目からすーっと光が消えた。
「お隣が花影だってみんな知っているものだから家を売ろうにも買い手がつかない。古いけど広くてしっかりとした造りの、日当たりのいい家だったんですけどね。少しのお金にもなりませんでした」
再び咲いたかに見えた老婦人の美しさはしおれて、枯れてしまった。
「仕方がないから私も働き始めたんです。主人と二人、借金を返すため。あの子にリラを続けさせるため。あの子は優しいから私と主人を見て家のことをやると言ってくれたけど、そんなことはさせられません。手が荒れてしまうと弦に引っ掛かって演奏に支障が出るんですよ」
自身の皺だらけで荒れた手を老婦人はもう一方の手で包み込んだ。
「でも、あの子はリラをやめてしまった。飽きてしまったなんて言っていたけど、あの子は優しい子だから……」
娘の柔らかな手を撫でるかのように、そっと。
「それからのあの子は一生懸命に勉強してました。私が帰ると家のことはもう全部してあるんですよ。洗剤とペンだこであの子の手はすっかり荒れてしまった。あれじゃあ、弦に指が引っ掛かってしまう」
枯れた美しさの代わりに老婦人の目に咲いた感情を見て取って、弁護士は思わずため息を漏らした。
「一生懸命に勉強して、飛び級して、奨学金ももらって、弁護士になって。立派な娘です。立派な娘ですよ。でもねえ、弁護士先生。あの子がリラを続けていたら唇を噛んで必死な顔で勉強して弁護士になることなんてなかったかもしれない。綺麗なドレスを着て、貴族のお邸や大きな舞台で楽しそうにリラを弾いて、拍手をもらっていたかもしれない」
ふと老婦人は顔をあげて助手を見つめた。
「あの子、綺麗だったでしょう?」
老婦人に尋ねられて助手は言い淀んだ。だけど、答えなどどうでもよかったのだろう。
「シミ一つ、影一つない。あの子は花影に罹らなかったんです」
助手の返事を待たずに言って老婦人は再び弁護士に顔を向けた。
「間違いを認めて、なんて言いますけどね、弁護士先生。あとからならなんとでも言えるんですよ。外からならなんとでも言えるんですよ。でもね、あの子は花影に罹らなかった。だったら私がしたことは何一つ、間違ってはいなかったんですよ」
ゆっくりとまばたきを一つ。
「消毒薬のお金も引っ越しのお金も自分たちでどうにかしたんです。お隣の息子さんが花影に罹らなきゃあ、あの子は今も楽しそうにリラを弾いていたかもしれない。だけど、お隣に消毒薬のお金を払え、引っ越しのお金を払えなんて言わなかった。自分たちでどうにかしたんです。だからねえ、弁護士先生。間違いを認めて謝れば許すなんてどの口が言うんですか。私は謝りませんよ。私は、謝られたって許しませんよ」
真っ直ぐに弁護士を見つめて老婦人は静かに言った。
「許さないですよ」
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