花影

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 ええ、そうです。週に一回、お隣の消毒をしていました。  お隣の一番上の息子さんが花影病に罹ったとわかってからうちが引っ越すまで毎週欠かさずに。    ええ、存じ上げております。  うちにも風に乗ってお隣から青い鱗粉が飛んできましたから。  テイトリアは勝利を司る女神様。  今まさに敵と戦わんとする勇敢な戦士の頭上を、あるいは悪政に声をあげんとする民の頭上を舞い飛び勝利の祝福を与える。夜空を思わせる濃紺の(はね)からはキラキラと青い鱗粉が舞い落ちる。  テイリヤ蝶はテイトリアの使い。  テイリヤ蝶の幼虫は糸を吐いて自らを包む(まゆ)を作り、その中でさなぎになって羽化します。繭から作られる美しい青色の糸も、羽化して成虫になったテイリヤ蝶の翅から取れる青い鱗粉もずいぶんな高値で取引されるとか。  そのテイリヤ蝶の青い鱗粉が入り込んで来るんです。風に乗ってお隣から娘の部屋の窓に。  お隣がテイリヤ蝶を育てていたのは娘の部屋と塀をはさんですぐのところにある小屋でしたから。  つまりはね、うちにお隣の空気が風に乗って運ばれてきてるってことなんですよ。  お隣の息子さんが罹っている花影の〝タネ〟。あれがうちにも飛んできているかもしれないってことなんですよ。  もちろんお隣の息子さんが花影かもしれないという噂を聞いてすぐに娘の部屋は変えました。うちの中でお隣から一番遠い部屋に。  でもね、その部屋にも入り込んでくるんですよ。気が付くと床や家具に青い鱗粉が付いているんです。毎日毎日、拭き掃除をしているのに青い鱗粉が付いているんですよ。  つまりね、お隣の息子さんの〝タネ〟がお隣からうちで一番遠い娘の部屋にも入り込んでくるかもしれないんですよ。  ですから、消毒をしたんです。  テイリヤ蝶が幼虫のときも成虫のときも簡単に死んでしまうほど弱い生き物だということは知っています。人がかいがいしく世話をしてやらなければ食事もままならず餓死してしまうほど弱い。  消毒液を浴びれば死んでしまうこともあるでしょう。  でもねえ、弁護士先生。  それは可哀想だと消毒をやめてしまって、うちの娘が花影に罹ったらどうするんです。  繭から糸を取り出すにはまだ蛹のうちに鍋で煮てほぐさなくちゃならない。青い鱗粉を取るにはようやく成虫になったテイリヤ蝶から翅をむしりとらなくちゃならない。  商売のために仕方ないと言って虫の命を奪うのと、娘が病に罹らないために仕方ないと言って虫の命を奪うのと……何が違います?  ***
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