知恵の樹

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知恵の樹

 この星には、知恵の樹と呼ばれる大樹があった。無数の太い根が、一つの巨大な瑰麗(かいれい)な水晶に纏わりついている不思議な樹である。この星の古代人は、宇宙から来た『天人』たちから、これは知恵を人類に授ける力を持つと教えられ、人間はこの樹を神木として崇めた。地球人の文明史はここから始まった。  人々は山川草木にまつわる不可解な事象を神々の力によるものと仮定した。古代文明はアニミズムより始まり、それを中心に祭祀が始まった。祭祀は徐々に洗練化され、社会が変化してゆくと、時代とともに人々は祭祀のやり方を変え、神々の姿を変え、自らの集団のあり方を変えた。そうしたなか、いつしか人々は互いに殴り合うようになった。自分たちが正しく、相手は邪教徒だと考えたのだ。こうして歴史とともに宗教戦争は複雑化し、巨大化していった。  古代人の経済は物々交換から始まった。物々交換の不便さを学んだ人類は貝殻や稲などで欲しいものとの価値の釣り合いを図り、共通通貨を生み始めた。人々は経済を一種のゼロサムゲームと思い込み、自分を豊かにするためは、他者から物を奪取せねばならぬと考え始めた。こうして土地をめぐる争いが生まれた。土地を広げ、自国を理想郷にし、理想郷の体制を維持するために奴隷制度を生み出した。反乱の根を摘み取るために敵国の男子は皆殺しとなった。こうした戦を続けるうちに自国の大義名分が必要になり、これが愛国心を生み出た。巨大な愛の幻影の始まりであった。  こうしたなか、争いの絶えぬ歴史に倦んだ一部の賢人たちは、地球の高山に棲まうようになった天人たちに度々謁見した。天人の力は常軌を逸しており、その神の如き力を行使すれば、人類を滅ぼすことなど造作もなかった。だが天人たちはまるで人間を我が子のように見守り、彼らの要求にできる範囲に於いて応えてやった。 『我々の争いを止めてほしい。争いを止めるにはどうすれば良いか?』  賢人たちがこうした言葉を口にしない時代はなかった。天人たちは、能う限り仲介者となって、こうした争いの調停に入った。  しかし、人類史は一つの分岐点を迎えた。化学が生まれたのである。  化学は星の命を犠牲にしてあらゆる武器を生み出して戦争の役に立った。化学はこれまでの思想をも塗り替え、前進的だと断定する存在を肯定し、前時代的だと推測しうる存在を軽蔑し始めた。『前時代的な存在』の烙印を押された魔法を使う魔法族はこれに反発した。化学的な力に奢る者たちを機械族と称し、『簡便な物ばかりに頼る堕落した存在』と蔑み、劣等種として彼らを排した。  こうして現代は、機械族と魔法族の二大派閥がおのもおのも(おの)が思想を尊び、(おの)が信条こそ真理だと宣言して、敵国の悪を剔抉(てっけつ)せしめんと気焰を吐く修羅の世界となった。この二大派閥による『真理戦争』は凄惨を極め、世界は澆季混濁(ぎょうきこんだく)の様相を呈し、人間の血が迸ることのない日など一日たりともあり得なかった。    戦火に包まれる市街地を見下ろす天人たちは、燃え盛る炎に悶絶する衆生を哀れんで深いため息を吐いた。 「……結局、今回もダメでしたね、ソフィア」  都市を覆う烈火の刃が、夜の曇天の下腹を肉色に照らすのが、ソフィアの潤んだ冥の照覧(※)の瞳にも美しく反映していた。火の粉とともに風に乗ってあたりに漂う人間の死臭が、この星の輪廻転生システムの様相の一片を、個体として完結した一顆明珠(いっかみょうしゅ)の存在たる彼女にも伝えている。 「四六億年もの時間をかけて、私たちは地球人を見守ってきました。しかしソフィア、彼らはかつての自分たちと同じ歴史を辿っている。……このままでは地球人に未来はないでしょう。残された時間はもうありません」 「それでも、すべての人間が愚劣な存在とは言えない。私は人間をまだ信じていたい」  ソフィアがその場で浮遊を始めた。 「また行くのですか?」 「ああ。この星には、自分たちの運命を切り拓く人間が存在する。私は彼らの保護者となって、彼らの成長を見守りたい。そのために、救える命を一つでも多く救わねばならない」  ソフィアがその場から飛び立つと、火の光沢を受けた葡萄酒色の衣が闇夜の空の彼方へと消えた。  このとき、彼女の向かった先で待ち構えていた一人の地球人との出逢いが、ソフィアの運命を分けた。 冥の照覧……神仏が人間の心や行いをすべて見通していること。
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