カタツムリの憂鬱

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 1607年刊行の「四足獣誌」にこう書かれている。「猿はカタツムリを怖がる」と。  それを見たカタツムリが陰で猿を揶揄した。 「猿の旦那はあっしたちカタツムリを怖がっているらしいですぜ」と。実にさまざまな生物たちに吹聴して回ったのだ。猿と名のつく生物以外を見つけては「ちょっと」と声をかけ、嬉しそうにひょいと肩に乗るのだった。その動きの陽気さたるや、今まで一般に語られるカタツムリの遅々とした動きとはうって変わり、躍動していたと言われている。 そのせいだろう。  話はカタツムリの口から語られるたびごとに様相を変えていくことになる。語ること67種目のバクに伝えた話によると、猿はカタツムリの殻を見ただけで泡を吹いて卒倒して、おまけに壊れた蛇口のように失禁してしまう、ということだった。さすがにこの話を最後まで疑っていたバクだったが、カタツムリは満足そうだったので、バクはこんな愛らしいカタツムリを根拠もなく否定するわけにはいかなかったので、「よかったじゃない」と肩でも揉んであげて、気分良く帰ってもらったらしい。  さて、問題はこの話を聞いたすべての動物たちが、猿への評価を著しく低下させたことだった。彼らは猿が視界に入るや否や、情景反射で鼻がふんと鳴るような体になってしまっていた。  しかし、何の根拠もなくカタツムリの言葉をまるまま信用して猿を小馬鹿にするのはあまりにアンフェアだろう。実は、動物たちはカタツムリから話を聞いた時に、念のためにと、カタツムリの気分を下げないように丁寧に出典とページ数と作者を聞き出し、メモしていたのだ。  そして出典をあたってみるとどうだ、実際に「猿はカタツムリを怖がる」旨が記載されているではないか。根拠を確認した動物たちは、水辺でぴちゃぴちゃ水を飲みながら、この話題でもちきりになった。猿と名のつく生物たちが水辺にやってくると、実にさまざまな方向から失笑が漏れることになった。鼻をふんと鳴らすので、なぜか猿がやってくると波がざばざばと立つことになった。ワオキツネザルなどの、キツネか猿か、あるいは「ワオ!」と言うだけの間抜けな生き物なのか判然としない種の猿に対しては、皆、態度を決めかねていたが、それでも明らかな猿たる猿に対してはおおよそそのような具合だった。  さて、事情の飲み込めない猿たる猿。  口の軽いカバが、「君たち猿は、どうやらカタツムリが怖くて怖くてたまらないみたいだね」と思わず言ってしまったことを皮切りに、実際に出典まであたっていて、猿カタツムリ怖い説を信じてやまないさまざまな動物が口々に猿を小馬鹿にしはじめた。  当然のことながら、猿は憤慨する。 「おれたちがカタツムリを怖がるだって?」  まずは当然、話を吹聴したと言うカタツムリに対して憎しみが湧き上がってくる。しかしカタツムリは今この近くにはいないようだ。ここにいたら殻から内臓を引き摺り出してじっくり咀嚼してやるつもりだったが、今ここにいないのでは仕方がない。  怒りの矛先は、自分たち猿を侮辱する動物たちへと向いた。しかしライオンに刃向かっても仕方あるまい。肩や耳を噛みちぎられて失血死するのが関の山である。そこで猿は周りを見渡し、自分を小馬鹿にするに値する動物と、値しない動物とに峻別することにした。  そこで浮かび上がったのが、粋がったビーバーの存在である。猿は思わずこう叫ぶ。 「カバやキリンに言われるのはまだいいが、さすがにビーバーに言われたのはショックだぜ。あんたらビーバーは睾丸が体内に埋まり込んでいると言うではないか。なぜ睾丸が体内に埋め込まれているやつに侮辱されなければならないんだ!」と。  これにはビーバーも顔を真っ赤にして猿を軽蔑する。  睾丸が体内にどうとか、そんな些細な話に怒ったのではなかった。カバやキリンよりも我々ビーバーが低い位置にあると思われていることに憤怒していたのだ。  ビーバーは誓った。猿と名のつく生物を金輪際許すまじ……  糞を壁に向かって撒き散らすカバ、もっと言えば尻尾は排便しない時の尻の蓋であるというなんとも滑稽なものをぶらさげたカバと、首が長いだけのキリンが、我々ビーバーよりも地位が高いと言いやがった。もちろんビーバーは出っ歯で、口がやや開きがちのため、彼の脳内での思考は、口から微かに漏れてしまっていた。この思考の漏れ出しにキリンとカバが怒りを露わにし……。  怒りの連鎖は止まらない。彼らは皆が皆、誰かを憎み、許さないぞと心に誓っている……。  一方、カタツムリはと言うと、憤懣やるかたなし許すまじのスパイラルを作った張本人として、動物たちに吊し上げられそうになっていた。このままでは、叩き割られるのが関の山だ。  姑息な猿たちは特に危険だ。奴らの生半可な知恵ときたら……。  中途半端な知恵を持った状態が一番怖いのだ。猿に限って言えば、自制心と高度な道徳観念が欠如している場合が本当に多い。そこにのこのこ現れようものなら、すぐさま袋叩きに遭うだろう。猿たちは狡猾で、いたぶり方なら何千通りと考えているに違いない。  例えば、殻から引き摺り出して踏み潰したり、殻ごと踏み潰したり、石で磨り潰したり、むやみに高いところから墜落させられたり、投擲を繰り返して疲弊させられたり、猿山の便所に置き去りにされたり、中身を出されて日干しにされたり……。想像しただけで頭がぐしゃりと潰れそうだ。  そうして、カタツムリは晴れの日にはひたすら陰に引きこもり、動物たちが休息する雨の日だけを選んで地上に顔を見せるようになったのだ。  カタツムリは考える。  我々カタツムリをこのような卑屈でじめじめした存在にしたのは「四足獣誌」の作者に違いない。だいたいもって、何を根拠に猿がカタツムリを怖がるなんて書いたのだ。耳目を集めるためだけに、カタツムリを犠牲にし、奇怪めいた妙な嘘を流布するなんて……あっしたちカタツムリは作者を許さないぜ!
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