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その洋館は、男が想像していたよりも古びてはいなかった。
山奥に存在するその館は、マニアたちの間では『本物の幽霊屋敷』と噂されていると、男は以前聞いたことがある。
この場所に来ること自体が困難で、いわゆる酷道をひたすら走らなくてはならない。
カーナビも地図もあまり役には立たない。男が館に着いた頃には、すでに真夜中になっていた。
彼は門の前に車を止めると、黒いパーカーのフードをかぶり、ちらりと後部座席の荷物を確認してから、懐中電灯を手に外に出る。
開いていた鉄製の門をくぐり、枯れた噴水の脇を通って男は建物に向かう。
敷地内に植えられた木々は枝を伸ばし、男を歓迎するように風に揺れている。
重そうな木製の玄関扉は開いていた。
男は手早く用事を済ませる予定だったが、興味を惹かれたように建物の中へと入る。
懐中電灯で中を照らすと、まるで管理されているかのように埃もなくきれいな状態だった。だが、人のいる気配はない。
玄関ホールの左右には廊下が伸びており、正面には黄金比のような曲線を描く階段がある。
男は磨かれた真鍮の手すりに触れながら、階段を上る。二階も廊下が左右に伸びている。
男は逡巡したのち、左手側の廊下を進んだ。
つき当たりに、両開きの扉がある。その扉も開いており、男は迷いなくその先に足を踏み入れた。
そこは広間だった。細かい彫刻や細工の施された壁や柱。天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。
奥には幕に隠されているが、ステージもある。
男は感心したようにあちらこちらを懐中電灯で照らしていると、コツコツとヒールの音を響かせながら、赤いバッスルドレスを纏った女がステージの前に現れた。
「あら、お客様?」
女が口を開くとともに、広間にぱっと明かりがともった。
男は息を呑み、思わず声をもらす。
「ここには、誰もいないと……」
男はそう聞いていた。廃墟のはずだと。
女は薄く笑って、
「ええ、いないわ。でも、いるの」
それを聞いて、男はこの館の噂を思い出す。
「まさか――」
「おや、千代子さん。お客さんかい?」
「幽霊?」と問う前に、男の声が後ろから割って入った。
男が振り返ると、ブラウンのスリーピースを着た年若い男が入り口に立っている。
「ええ、正治さん。久々のお客様ね」
正治と呼ばれた男は頷き、立ちすくむ男のそばまで歩いていくと、その肩に手を置く。
「では、お客さん。こちらへどうぞ」
いつの間にか椅子が三脚、広間の中央に現れていた。
正治は男をその椅子まで誘導する。
男は逃げ出そうかとも考えたが、正治の力が思ったよりも強く、従うしかなかった。
男は真ん中の椅子に座らされる。
「何を、するつもりなんだ?」
男に問われた正治は口元に笑みを浮かべた。
「お芝居、ですよ」
どこか冷たく聞こえた声に、男は身を固くした。
「さあさあ、開演の時間よ」
千代子が男の右側に座りながら、せかすように言う。
やれやれといった様子で、正治はその反対側に座った。
やがてゆっくりと広間の明かりが消えていき、舞台の幕が開いた。
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