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清玉上人のお供や使いで本能寺に行ったことはある。普段なら焦ることもなく、寧ろみっともなく姿をみせぬようにとゆっくり進む道だ。しかも見つからないようになのか白川の足は見知った道から外れ、漕がねば進めぬ生い茂る藪が成真を不安にさせた。時刻は日の出に向かうとはいえ、辺りは暗く、かろうじて人影をおえる程度。月明かりもない朔の夜では白川を見失ってしまえは確実に道がわからなくなるとともに、清玉上人をーー非常時とは言えーーこんな藪の中に入り込ませてしまったのである。
不安になって後ろを振り返ると、しかしそれは杞憂だった。
そこには常日頃沢山の僧侶にかしずかれ、穏やかで凛とした清玉上人の姿はなく、目を血走らせ滝のような汗を流しながら藪をかき分けていたからだ。他の共の僧侶達がなれぬ道に四苦八苦しているにもかかわらず、清玉上人は泥も枝葉で擦り傷を作るのも構わず進んでいる。
どれほど走っただろうか。
おそらく本能寺の敷地内には入ったのだろう。
まだ遠くではあるが武士らきしもの達の声が怒鳴り声が聞こえ、悲鳴や金属の擦れる音も風に乗ってくる。
そこでようやく、白川は止まった。
「しらっ……しら、かわ、さまっ」
ぜぇぜぇと成真は肩で息をしながらその場に崩れ落ちた。頭には濡れる髪もない僧侶の身では、汗はそのままだくだく顔へと流れ地面を濡らした。こんなにも走ったのは生まれて初めてだった。おそらく後ろにいる清玉上人はじめとした僧侶たちも同じだろう。
『ここで待て』
え、と顔を上げたさいに、すでに白川の姿はなかった。
耳で聞こえたというよりは、頭の中に響いたそれに、焦ったのは成真だ。
月明かりもない夜は忍ぶにはいいだろうが、明るくなっていくのは止められない。白んでいく東の空を恨んだのは、初めてだった。
煌々と燃える明かりで、信長公がいる方角こそわかるものの、迂闊にウロウロもできやしない。
もし見つかっても、本能寺の僧侶に紛れられるようにと清玉上人も質素な法衣を纏っているが、彼の顔は見るものが見ればバレてしまう。関係者だからと、浮世から離れたものを問答無用で切り捨てはしないと信じたい。
「どうしました。成真」
「も、もうしわけありませんっ。白川様が、ここで待つようにと」
止まってしまった成真に、先輩の僧侶が声をかける。ここまで迷いなく進んできたのだから当然かもしれない。しかし成真とて白川の後ろを追いかけてきただけなのだ。ここで勝手に動いたり大丈夫だといえるほど彼の心臓は強くない。
しかし、先輩僧侶は怪訝な顔をして、思いもよらぬことを言った。
「白川様、とは誰だ?」
え、と戸惑ったのは成雲だ。誰も何も、ついさっきまで道案内してくれていた小姓である。先頭を走って、皆を、ここまで連れてきてくれたのだ。
「先頭を走っていたのはお前だろう」
「えっ、だって……あの、もしかして暗くて見えませんでしたか? 本能寺が燃えていると、凶事を伝えてくださったのも、白川様で。夜中に走って寺まで見えられまして……信長公のお小姓様で、よ、よくお忍びでこられたさいには寺にもお供でいらっしゃってて……」
しどろもどろと成真は説明する。口が回るわけではない成真にとっては、場所もあいまって冷や汗ものだ。しかし万が一にも、白川が信長公と全く関係ない人物だなんてことはないと不安を打ち消す。何せ成真は白川のおかげで信長公直々に言葉を賜っているのだから。
「信長公がお忍びで来られることはあったが、白川様などというお小姓様は見たことがない」
「そも、門には不審番も居たが、誰も通していないと言っていたぞ。裏門も内から鍵がかかっている。その白川様とやらはどこからきたのだ。塀を越えてきたのか?」
「……それは……」
「そのようなこと。今は些細なことです」
成真は口ごもり俯きそうになったが、それを凛とした声が遮った。誰だと疑う余地はない。今までに見たことがないほど厳しい顔をした清玉上人だ。この場で誰より重要な彼は、一番後方で共の僧侶が守られるように囲われている。いや、そうでもしないと今にも飛び出していきそうでもあるからだろう。
「清玉様」
「誰であれ、その方のおかげで本能寺の……信長様の凶事を知れ、誰にもみつかることなくここまで来ることができました。もしその方が人ではないとするなら御仏のお導きでしょう」
「……ぇ、いえ……あの……」
白川様はーー成真がなお言いかけたその時、ガサっと茂みが動いた。一気に緊張が走り、周りの僧侶たちは清玉上人を隠そうと前に出る。
『すまない。わたしはここまでだ。あとを、頼む』
「白川様っ」
確かに聞こえたのは白川の声だった。降ってきたようなそれに慌てて周りを見渡すも、いくら目を凝らしても誰もみえず、けれど、ずしっと両手に何かの重みを感じた。びっくりしてとっさに投げ捨ててしまわなかったのは奇跡だった。
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