叶多の拒絶

1/1
前へ
/20ページ
次へ

叶多の拒絶

 六月に入って、実習のグループワークが長引いたり、レポートやら小テストの勉強が忙しかったりで、一週間以上叶多の家に行けない日が続いた。  少し落ち着いた日の晩、陽咲に明日行ってもいいかとメールしたら、すぐに電話がかかってきた。陽咲がマシンガントークで捲したてて言うことには、幸多が叔母さんの家に連れていかれてしまって、実采は学校に行っていないのだという。明日は新の授業参観で、実采を一人で家に置いていきたくない叶多が、実采に明日は学校に行けと言うわ、実采が嫌だと言うわ、新は授業参観に来るなと言うわで、揉めて大変なのらしい。私が行ったら邪魔なのかと思ったらそうではなくて、むしろ来て実采に構ってやってほしいと頼まれた。その話の流れで、明日は叶多の家に泊まることになった。  自宅に寄ってから叶多の家に行くと遠回りになるので、泊まるための荷物を持って大学に行った。それが良くなかった。 「ゆーちんじゃん。お泊まり?」  大きめのリュックを背負って帰ろうとしているところを吉木に見つかって、声をかけられた。地べたに座って友達と喋っていたようだ。 「途中まで一緒に行こーぜ」  立ち上がってお尻をはたいている。叶多の家に泊まることを知られたら面倒だと思ったけど、拒む理由が思いつかなかった。 「んで、どこ行くの?」  吉木は本当に何でもズケズケ聞いてくる。 「カナタくんの家」  仕方なく正直に答えた。帰り道が一緒だから、隠してもどうせバレるだろう。変に隠してごちゃごちゃ言われるよりは、今言ってしまった方がマシだと思った。 「マジかよ。あ、じゃあ俺も行く」  さも名案だというように吉木が手を叩く。とりあえず聞き流した。 「マチョコちゃん一緒じゃないの珍しいね」  吉木と話しているといつも睨まれるのに、今日はその視線がない。 「あー、あいつはこの後の講義も取ってるからさ。つか、いつも一緒にいるわけじゃねーよ?サークルも違げーし」 「そうなんだ」  少し意外だった。 「そうだぜ?俺は軽音部だけど、マチョコは山岳部だし」 「へぇ、山登るんだ。ボーリングも上手だったし、マチョコちゃんって結構体育会系なんだね」 「体育会系つーか、まあ、あいつも頑張ってんだよ」  吉木が独り言のように言う。 「あのさ、マチョコちゃんと付き合ってるわけではないの?」  気になっていた疑問をぶつけてみた。 「そんなわけねーじゃん。告られたけどフッたし」  千尋の推理通りだ。 「それなのに一緒にいるの?」 「だって、友達のままでいいってゆーからよ」  それが何か?という口ぶりだ。 「ひどいことしてるね」 「それ、ゆーちんが言う?」  笑われた。何のことか分からなくて、反応に困る。 「まーいいけど。ゆーちんはサークルどこ?」  吉木もそれ以上は言わず、話題を変えた。 「サークルは入ってないんだ」 「え?何で?」  何でと言われても。 「別に、入りたいサークルもないし」 「せっかく大学入ったのにもったいねー。あ、軽音部来る?」  断った。楽器には興味がない。  会話が途切れたかと思ったら、吉木がまた口を開いた。 「答えたくなかったらいーけどさ、ゆーちん中学ん時転校したじゃん。何で転校したの」  語尾を上げない訊き方だ。そのくらいのデリカシーはあるのらしい。 「お母さんの実家に行ってたの。親がうまく行ってなくてさ」  隠すこともないかと思って事実を伝えた。 「そーなんだ。親はヨリ戻したの?」  駅の改札を抜けて階段を降りる私を追いかけるようにして、吉木がさらに尋ねてくる。 「ううん。お母さん死んじゃって」  吉木は少し絶句したようだった。 「ゆーちんがあんま笑わなくなったのって、そのせい?」  少しの間の後で、吉木はそんなことを言った。 「昔はさ、いつももっと笑ってただろ。本栖恵梨香にどんなに嫌み言われてもニコニコしててさ。そんなゆーちんが、あんまし笑わなくなって、自分のこと知りたいってゆーから、俺、すげー気になってて」  今度は私が絶句した。私がうまく笑えなくなっていることを、この男に見抜かれていた。叶多ではなく、吉木に。 「ゆーちんさ、長谷川に構ってる場合じゃねーだろ。もっとちゃんと自分のことに向き合えよ。俺は、俺だったら、一緒にさ……」  チャラいだけの男かと思っていた。調子のいいことばかり言っているのかと思っていた。でも、それだけではなかったのかもしれない。 「ありがとね」  ありがたいと頭では思うのに、嫌悪感を抱いてしまうのはなぜなのだろう。昔からずっと、私は吉木のことがどうしても苦手だった。  次の言葉が見つからなくて、駅のホームで俯いた。 「そんな困った顔しなくても、無理なら無理って言やぁいいのに」  吉木が笑って肩を組んでくる。こんな話の後でも距離感を変えないのはさすがだなと感心する。 「そーいや心理学の教科書見してよ。すげー興味あるわ」  何事もなかったかのように言う。それで、電車に乗ってから駅に着くまでの間は、お互いの教科書を見せ合って過ごした。 「それ、重そうだけど何入ってんの」  駅を出て歩きながら、吉木が私のリュックを指して訊いてきた。この男といると本当に沈黙が生まれない。 「大したものは入ってないよ。あ、パソコン入ってる。授業で使ったから」 「じゃあ重くね?持つよ」  その申し出を一度は断ったけど、それでも持つと言うので、背負っていたリュックを渡した。 「本気でカナタくんの家までついてくる気?」  もちろん、と肯定してくる。冗談かと思っていた。 「カナタくん夜勤明けで寝てると思うよ」  まだ十六時にもなっていない。今日は新の授業参観だと言っていたけど、帰ってきて寝ているだろう。 「え、ゆーちん、もしかして寝込み襲おうとしてる?」 「そんなわけないじゃん。ヒナちゃんいるし」 「あ、ヒナちゃん会いたい。長谷川よりむしろヒナちゃんに会いてーわ。かわいーし」  何とか思い留まらせようとしたけど無理そうで、陽咲に確認を取ろうとスマホを取り出した。  その時、私の横で吉木が「おう」と声をあげた。スマホから顔を上げると、向こうから叶多が歩いてくるところだった。手に買い物袋を提げている。 「久しぶりだな、長谷川」  声の届く距離まで近づいてから、吉木が呼びかけた。 「吉木か。久しぶり」  叶多は少しやつれているように見えた。私に視線を移して、作ったみたいに微笑んだ。 「今日泊まってくんでしょ。あれユメちゃんの荷物?」  吉木の肩に掛かっているリュックを指して訊いてくるのを肯定した。それで叶多が吉木から引き取ろうとしたけど、吉木は「俺が持つ」と言って渡さなかった。 「ミコトくん学校行ってないって?」  叶多と並んで歩きながらそう尋ねた。 「そうなんだよ。でも今日はちゃんと学童まで行ってる。ユメちゃんに話すネタがないでしょってヒナタに諭されて」 「そっか。じゃあアラタくんの授業参観行けたんだ?」 「うん、今その帰り」  静かだなと思って吉木の方を振り向くと、ニヤリと笑われた。不気味だ。 「吉木も上がってくか?」と叶多に訊かれて、吉木が「おう」と当然のように応じる。  家に着くと陽咲が出迎えてくれた。 「ヒナちゃん!髪黒くしたんだ。雰囲気違うね」  吉木が驚いたように大きな声を出す。何を今頃と思ったけど、吉木はメイドカフェで会って以来かと納得した。私はもうすっかり陽咲の黒髪を見慣れている。 「ユメちゃんと一緒にメイドカフェに来てくれてさ」  何で陽咲のことを知ってるんだという顔をした叶多に、陽咲がそう説明した。  ダイニングテーブルに、叶多と向かい合って座った。私の隣に吉木が腰を下ろす。陽咲はコーヒーを淹れるために調理台に立った。 「しっかし久しぶりだなー、長谷川。中学卒業以来だよな。苦労してんだって?」  吉木が、ヘラヘラと叶多に話しかけた。 「吉木はますますチャラくなったね。すごい金髪」  叶多の返しは少し嫌みっぽく聞こえた。 「すごい金髪って。ヒナちゃんもこんくらいの色だったじゃんね?ゆーちんが一番仲良い友達も金髪だし。相変わらず考え方が優等生なのな」  吉木のははっきり嫌みだ。嫌みを言うくらいなら来なければ良かったのに。 「ユメちゃんと同じ大学なんだって?」  叶多は落ち着いた口調を崩さない。 「西大だよ。え?もしかしてゆーちんがどこに通ってるか知らなかった?」  吉木に挑発するように言われて、叶多が言葉に詰まった。 「え、マジなのかよ。カマかけただけなのに。え、学部も知らねーの?」  吉木が追い討ちをかける。 「どうだっていいじゃんそんなこと」  叶多が吉木に責められているのが不愉快で、口を挟んだ。 「良くねーよ。ゆーちんはさ、サークルも入んねーで長谷川んちの問題に首突っこんでんのに、長谷川はゆーちんのこと何も知らねーのな」 「だから、サークルは入りたいところがないだけだって言ってるでしょ」  私が声を尖らせたのも意に介さず、吉木は叶多に向かって続ける。 「俺はずっとゆーちんのこと知ろうとしてきたからさ、ゆーちんのこと分かるよ。ゆーちんはお前のことが心配で仕方ねーんだよ」  陽咲がちょっと困ったような顔で私たちの前にコーヒーを並べた。 「でもな、それが好意だなんて勘違いすんなよ。俺は小学生の時からゆーちんのこと知ってる。ゆーちんは昔っから、嫌な奴にこそ優しくするような、そんな子だったよ」 「ちょっと、本当に何?やめてよ」  言葉で制止しても、吉木は止まらない。 「お前も苦労してんだろうけど、ゆーちんにだっていろいろあんだよ。お前の問題に巻きこむんじゃねーよ」 「帰って。吉木くんには関係ないでしょ」  力づくで追い出そうと立ち上がった私を、吉木が見上げてきた。 「関係ある。言っただろ、俺はゆーちんが好きだって」  吉木のシャツを掴んだまま固まる。その話はさっき済んだはずなのに、どうしてまた叶多の前で持ち出してくるのだ。  叶多の様子を窺うと、彼は私の視線に気づいて、口元に嘲るような笑みを浮かべた。 「くだらない。それが何なんだよ」  ゾッとするくらい冷たい声だった。 「好きとか嫌いとか、そんなままごと、こっちは付き合ってる暇ないんだよ」  テーブルの上で握り締めた拳が、小さく震えている。 「ユメちゃんも、二度とここに来ないで。来てくれなんて頼んでないし、巻きこむつもりもなかった。こんな言われ方をするのは心外だ」 「ちょっと、お兄ちゃん……?」  陽咲が不安と非難の込もった声で呼びかけたのを、叶多はジロリと睨んだ。 「ヒナタももう連絡するな。いいな」 「何でそうなるわけ?」  妹の声を無視して立ち上がる。 「帰ってくれ。お前らと違って忙しいんでね」  舌打ちをして吉木も立ち上がった。 「行くよ、ゆーちん」  私に声をかけて、さっさと台所を出ていった。  帰りたくなかった。でも、帰るしかないことも分かっていた。叶多は私のことをずっと拒絶していた。それなのに、私が出しゃばり続けていたのだ。 「ごめんね。余計なことばかりして」  私のリュックを拾い上げる叶多の背中に向かって謝った。 「違うって。お兄ちゃん本心じゃないから。ね、そうだよね」  陽咲が間に立とうとする。叶多は応えない。 「ヒナちゃん」  陽咲に向けて首を横に振った。陽咲の目に涙がたまっていく。中途半端に首を突っこむくらいなら、何もするべきではなかったのだ。 「ゆーちん」  玄関の方で吉木が呼ぶ声がする。  叶多がこちらを振り向いて、私にリュックを押しつけてきた。受け取って玄関に向かおうとしたら、腕を掴んで引き寄せられた。痛みを感じるくらいの、強い力だった。 「吉木は、ああ見えて、良い奴だから」  叶多は私の耳元で囁くように言った。 「元気でね、ユメちゃん」  図書館で再会した時と同じ言葉を、あれから何も無かったことにするみたいに、口にするのだ。  私の腕を掴む手から力が抜けて、離れた。肩を押されて玄関に向かいながら、叶多に掴まれた右腕がズキズキと熱を持ち始める。  玄関で靴を履くと、吉木にリュックを取り上げられて、左手を掴まれた。吉木の手はひんやりとしていて、振りほどきたい衝動に駆られた。それを我慢して、手を引かれるままに叶多の家を後にした。 「悪かったね、ゆーちん」  しばらく歩いた後、やっと手を離して吉木が謝った。 「あいつだってそりゃ本心じゃないだろうけど、それにしたってあれはひどすぎーー」 「やめて」  叶多を責める言葉をそれ以上聞きたくなくて、強い口調で制したら、吉木は口をつぐんだ。 「吉木くんは、本気でわたしのことが好きなの?」  私の問いに、「好きだよ」と吉木は答えた。  頭の中がひどく混乱していた。好きだと言ってくれるのなら、その気持ちに応えるべきだと思えてきた。 「じゃあ付き合う?」  そう尋ねたら、吉木がふらりと一歩後ずさった。 「でも、ゆーちんは俺のこと好きじゃないよね」  そう返されて、腹が立った。 「いいから付き合おうよ」  重ねて言うと、吉木は私にリュックを差し出してきた。 「次会った時におんなじこと言ってくれたらね」  そんな条件を出して私に背を向ける。そのまま、ひらひらと手を振って帰っていった。  吉木に対して腹が立って仕方がなかった。叶多に掴まれた腕が、いつまでも熱くて、痛くて、たまらなかった。  ぐちゃぐちゃな気持ちのまま家に帰ると、父親がソファーでテレビを見ながら寛いでいた。靴下を床に脱ぎ散らかしている。 「おう」  私に気づいて軽く声をかけてきた。泊まることは伝えたはずなのに、帰ってきたのを何とも感じないようだ。 「ただいま」  いろいろと文句を言いたいのを堪えて、父親の靴下を洗濯カゴに入れにいく。 「そういやぁ、さっきよぅ、あのボーズ見かけたぞ」  そのまま二階の自分の部屋に行こうとしたけど、父親が話しかけてくるので、洗面所からリビングに戻った。 「ボーズ?」 「あー、何つったかなぁ、前にここ来てよぉ」  要領を得ない話にイライラが募る。 「悪いけど疲れてーー」 「ユメのことが好きなーー」  声が被って、疲れているなら、と父親は話を終わらせようとした。 「わたしのことが好きな?」  そんな気になるところで止められても困る。  吉木のことだろうか。いや、吉木をうちに連れてきたことは一度もないはずだ。そもそも、吉木が私のことを好きだなんて父親が知っているわけがない。私ですら今日の今日まで知らなかったのに。 「おう」  おうじゃなくて、と心の中でツッコむ。 「誰のこと?」  父親の座っているソファーに並んで腰かけた。 「何つったっけなぁ、あいつん名前ぇ。度忘れしちまったなぁ。こないだもすれ違ってよぉ。何かこう、ツナギみてぇなの着てよぉ」 「……もしかして、カナタくん?」  私のことが好きな、というのが分からないけど。 「おお、それだ、それ」 「いや、何でお父さんがカナタくんのこと知ってるの?」  私は叶多の家に行くばかりで、自分の家に呼んだことは一度もない。でも、そういえば叶多の方も父親と面識があるような口ぶりだった。 「だからぁ、時々会うんだよぉ。会うといつも挨拶してくれてよぉ。こないだもーー」 「そうじゃなくて、何がきっかけでカナタくんのことを知ったわけ?」  イライラしているのを自覚して、深呼吸をした。 「だからよぉ、前に家の前まで来ただろぉ」  叶多が私を家の前まで送ってくれたことは確かにあった。でも、そんなことくらいでは、この人の記憶には残らないだろう。四年以上も昔の話だ。 「何で覚えてるの?」  質問を変えた。 「そりゃあ、お前ぇ、愛をあげるとか何とか言ってよぅ、忘れらんねぇやぁ」  何の話だ。やっぱり叶多のことではないのだろうか。でも、他に思い当たる人もいない。 「何だよぉ、お前ぇ覚えてねぇのかぁ?」  私が首を傾げたのを見て、父親がニヤニヤした。 「俺ぁはっきり覚えてるぞ。出かけようとしたらよぉ、外でお前がボソボソ喋ってたんだ。そしたらボーズがよぉ、俺が愛をあげるから負けないで、つったんだよぉ。覚えてねぇかぁ?」  首を横に振る。ただ、負けないで、という言葉は、やっぱり記憶の琴線に触れる。この前、叶多の口から発された時と同じように。 「どんな奴が喋ってんだと思ってよぉ、俺ぇ、そいつんこと追いかけてったんだ」  半信半疑のまま、父親が話を続けるのを聞いていた。 「お前、どういうつもりでユメにあんなこと言ったんだって訊いたらよぉ、あいつ、まず名乗った。思い出したぞ。長谷川叶多。忘れねぇ。ユメのことを好きだって言った奴だからなぁ」  フルネームを出されては、もはや叶多のことであることは疑いようがなかった。 「僕はユメちゃんのことが好きですって、あいつ、俺に向かってはっきりそう言いやがった。ありゃあ嘘のねぇ目だ」  父親が熱っぽく話すのを聞きながら、夢でも見たんじゃないかと思った。叶多は友達だった。一度だけ、手を握ってくれただけの。 『家に帰りたくない』  叶多が家の前まで送ってくれた日、私は叶多に弱音を吐いた。 『家に帰ると、誰にも優しくなれない気持ちになるの』  冷たい雨の降る冬の日だった。手袋をした手で、叶多は私の手をギュッと握った。『負けないで』。あの時叶多は、そう言ってくれたのだっただろうか。 「ユメがこっち戻ってくる前にもよぉ、ボーズにばったり会ってよぉ、俺ぇ、ユメが戻ってくんだって話してよぉ。そうですか良かったですね、なんてぇ、あいつ笑ってよぉ」  そんなの初耳だ。ということは、図書館で会う前から、叶多は私が戻ってきたことを知っていたのだ。私が会いにいくのを待っていたのだろうか。  いや、それはない、とすぐに自答した。もし好意を寄せてくれていたのだとしても、それは遠い昔のことだ。今はもう違う。全てが変わってしまった。 「そうだったんだ」  淡々とそう返した。今となってはどうでもいい。 「何だよぉ、あっさりしてんなぁ。会ってねぇのかよぉ?せっかく好いてくれてんだからよぉ、また仲良くしたらいいだろぉ」 「だったら」  思わず声を荒げてしまった。 「何で今頃になってそんなこと言うの?もっと早く言ってよ。そしたら……」  そしたら何?と冷静にツッコむ自分がいる。何かが変わったとでも言うのだろうか。こんなのはただの八つ当たりだ。 「ごめんよぉ」  父親が口癖のように謝ってくる。 「さっきボーズを見かけて思い出したんだよぅ。あいつ、ベンチに座りこんでてよぉ、死にそうな顔してたぜ。大丈夫かよぉ、あいつ」  確かに叶多はやつれていた。でも、私にはもうどうすることもできない。 「知らないよ。わたしには関係ないし」 「何だよぉ、冷てぇなぁ」  父親が咎めてくるのを無視して二階に上がった。自分の部屋でベッドの上にうつ伏せに倒れこんだ。  忘れよう、忘れようと思うのに、父親の声が耳から離れない。俺が愛をあげるから……。叶多の声で再生されていく。授業で習った【記憶の変容】。こうやって記憶は書き換えられていくのだろうか。それとも、本当にあったことなのだろうか。 『負けないで』  叶多の言葉に背中を押されるようにして、家のドアを開けた私。玄関にいた父親にぶつかりそうになる。その横をすり抜けるようにして、家の中に入る。お母さんがソファーで脱力したように座りこんでいる。 『どうしてヒロアキくんは分かってくれないのかな』  私に気づいたお母さんが、力なく呟く。 『お母さん』  私はお母さんの前に立ちはだかる。 『もうお父さんのことは諦めてよ。こんな毎日もううんざり。わたし、お父さんのこと大嫌い。この家にいたら気が変になりそう』  私の言葉に、お母さんの目から、ひと筋の涙がこぼれる。  どこまでの記憶が正しくて、どこからが作り物なのかは、もう分からなかった。  ただ一つ、はっきりしたことがある。  あの日、私は、お母さんの心を殺したのだ。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加