好き

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 翌週の月曜日、倫理の授業で吉木と一緒になったけど、彼は私に話しかけて来なかった。私の方も吉木に話しかけなかった。 「吉木くんと何かあった?」  いつもは鬱陶しいくらい話しかけてくる吉木がさっさと教室を後にしたのを不思議に思ったようで、千尋がそう尋ねてきた。それで私は一連の出来事を彼女に話した。 「ひどいよ」  全てを聞き終えた時、千尋は静かに言った。 「ユメちゃんが吉木くんのことを苦手なのってさ、吉木くんの気持ちに応えられないからだよね。たぶんユメちゃんって、人から望まれたことを叶えられないと、自分のことが嫌いになっちゃう人なんだ」  千尋は、まるで私の心の中を見てきたかのように説明した。 「ユメちゃんはさ、吉木くんに好かれてることに昔から気づいてたんだよ。でも応えられないから、吉木くんがチャラいってことにしたんでしょ。自分だけじゃなくて、誰にでも言ってるんだって。だから応えなくても大丈夫だって」  そうでしょ、と千尋が言葉を切る。 「それが本当なら、わたしってひどいね」  ピンと来なくて、他人事みたいに返した。千尋は、頷くことも首を振ることもなく、真剣な表情で再び口を開いた。 「もっとひどいのはさ、吉木くんに付き合おうって言ったことだよ。ユメちゃんさ、そのカナタくんって人のこと好きなんでしょ。でも望みがなくなって、それなら応えてやってもいいやって、ヤケになって吉木くんにそんなこと言ったんだよ」  そうなのだろうか。ますますピンと来ない。 「それってさ、吉木くんに対してもひどいけど、自分に対してもひどいよ。自分のこと全然大事にしてないじゃん。って、自殺しようとした私に言えることじゃないけどさ」  千尋が私の両手を握った。 「私、ユメちゃんのこと大好きだよ。だから、私のためにもさ、もっとちゃんと自分のこと大事にしてよ」  私は自分のことを大事にしていないのだろうか。大事にするには、具体的に何をどうしたら良いのだろう。全然分からない。 「分かった?」  真剣な目で問われて、ゆっくりと頷いた。少なくとも、千尋が私のためを思って何かを伝えようとしてくれたことは分かった。  サークルに出ると言う千尋と別れて帰ろうとしたら、正門の横にマチョコが立っていた。 「お疲れ」  そう声をかけると睨まれた。 「あんたに話があるんだけど」  横を通り過ぎようとした私を、マチョコが唸るような声で引き止めた。彼女から私に話しかけてくるなんて、初めてじゃないだろうか。  先に立って歩くマチョコの後を追いかけて、駅前のカフェに入った。 「あの、話って?」  二人掛けの小型テーブルに向かい合って座った、吉木のことだろうかと思いながら水を向けた。 「ジュンペーから聞いた」  案の定、マチョコはそう言った。 「ジュンペー、全然いつも通りみたいにしてたけど、倫理の時、あんたに話しかけなかったから」  千尋と同じようにマチョコも変だと思ったようだ。 「ジュンペー困ってた。好かれてないって分かってるのに付き合うのって嫌だよなって、あたしに言った。あたし、ジュンペーの気持ちすごい分かる。あんたってマジ最低」  初めてマチョコの顔を正面から見た気がする。メイクがキツいだけで、柔らかい顔立ちをしていた。 「うん。ごめん」  素直に謝った。吉木に対してだけでなく、マチョコに対してもひどいことをした。 「ジュンペーに謝ってよね」 「うん。謝る」 「連絡先知ってんの?」 「知らないけど」 「適当か」  絶妙な間合いでツッコまれた。 「いや、ごめん。適当なつもりで言ったんじゃないんだけど……」 「分かってる。今呼ぶから」 「え、呼ぶの?ここに?」 「適当なつもりじゃないって言ったじゃん、今」 「そうだけど、まだ心の準備が」 「知るか」  すごい勢いでスマホに文字を打ちこんでいる。 「マチョコちゃん、吉木くんのこと本当に好きなんだね」  マチョコの真剣な表情を見て、改めて思った。彼女は目を上げて、それが何か、という顔をした。 「わたしさ、フられたんだよね。多分好きだった人から」 「多分て」 「分かんないんだ。自分の気持ちが分かんなくてさ」 「変なの。心理学部なんじゃないの」 「だから心理学部に入ったんだろうね」  マチョコはスマホをテーブルの上に投げ出して、アイスコーヒーのストローを吸った。 「好きだったって。もう好きじゃないわけ」  どうでもいいけど、というトーンで訊いてくる。マチョコのスマホに吉木から『マジか。秒で行きやす』と、ダッシュしている絵文字付きのメッセージが来たのが見えた。 「分かんないけど、フられたら諦めなきゃいけない気がして。だから、マチョコちゃんのことすごいなって思う」 「馬鹿にしてんの?」 「え、してないよ」  褒めたつもりだったのだけど、気分を害してしまっただろうか。 「まあいいけど」  ムッとした顔をしたのは一瞬のことで、マチョコは鞄から学生証を取り出した。 「あたし、自分の名前が嫌いなんだよね」  そう言って私の前に置いた。マチョコの顔写真の横に、『本間千代子』と書かれている。 「昭和通り越して大正かって。このババくさい名前が嫌で、名前で呼ぶなって周りに言ってて」  恥を晒したみたいに、マチョコはすぐに学生証を鞄の中にしまった。 「そしたら、だいたいみんな本間さんって呼ぶじゃん。あたしもとっつきやすい性格じゃないしさ、名字呼びだと何となく距離が縮まんなくて。だからか知んないけど、あんまりクラスに馴染めなかった」  私と目を合わせずに、アイスコーヒーの氷をストローで混ぜて、カラカラと音を鳴らしている。 「でも、高二の時にジュンペーと同じクラスになって。あいつ、誰にでもグイグイいくじゃん。女子のことも平気で名前で呼ぶ奴だからさ、名前で呼ぶなって言ったら、じゃあ、本間千代子だからマチョコなって。そんで、あいつがそう呼ぶから、みんなもそう呼ぶようになって、何となくクラスの輪に入れて」  それでマチョコなんだなと納得した。 「くだらないと思うでしょ。たったそれだけのことでって。でもあたしにとっては、世界が変わるくらいの出来事だった」  マチョコの言葉に、首を横に振った。 「くだらないなんて思わないよ。素敵な話だなって思った」 「そんないいもんじゃないし。あたし、そんなふうに優しくされたことなかったから、ジュンペーが全てみたいになっちゃってさ。ジュンペーがいないと不安で、ずっとついて回ってた。だから大学も一緒。ストーカーかって。自分でも気持ち悪い」  マチョコは自虐するように片頰を上げて笑った。 「でも、サークルは別のところに入ったんでしょ?」  吉木の言った言葉の意味が今になって分かった。 「さすがにいつまでも一緒ってわけにはいかないし」 「吉木くん言ってたよ。マチョコちゃんのこと、頑張ってるんだって」  そう言ったら、マチョコはまたムッとした顔をした。 「あんたに知ったようなこと言われたくないんだけど。元はと言えば、あんたがジュンペーに最低なことしたから、あたしがあんたを呼び出したんだからね」  立場の違いを主張してくる。 「うん。反省してます。ごめんなさい」 「だいたい、何なの、好きだったかもしれないって。はっきりしろっての」 「はっきりしてるマチョコちゃんがすごいんだと思うけど」 「好きかどうかくらい分かるでしょ普通。他の女と楽しそうに喋ってんの見ると嫌だなとかさ」 「うーん。ないからなぁ、そういうことが」  マチョコは露骨に面倒くさそうな顔をした。 「じゃあ、会ってない時につい考えちゃうとか。触りたいとか、キスしたいとか」 「え?」  動揺した自分に戸惑った。マチョコが少し笑った気がした。 「ほら、想像してみなよ、キスしてるとこ」  叶多とキスなんて。無理だ。絶対無理だ。 「赤くなってんじゃん。ウブかよ」 「知らねー間に仲良くなってんじゃん」  不意に上から声が降ってきた。 「遅いよジュンペー。仲良くなってないし」  マチョコが私の頭の上に向かって文句を言う。 「これでも速攻で来たし。マチョコとゆーちんが喋ってるとこなんか想像つかなかったからさ。心配することなかったな」 「全然喋ってないし。ジュンペー早く来いって思ってたし。ほら、ここ座りなよ」  マチョコが立ち上がって、椅子を勧めている。 「ん。サンキュー」  吉木は勧められるままにマチョコが座っていた椅子に腰を下ろした。 「じゃあ、あたしは帰るけど。ちゃんと話せよ」  私に釘を刺して、マチョコは本当にカフェを出ていった。  吉木と二人になって、途端に気まずくなる。 「あの、さ。あの、あ、何か飲み物買ってくる?」  核心を切り出せずにカウンターを指差したら笑われた。 「いーよ。付き合うのやっぱナシって話っしょ?」 「や、いや、そうなんだけど、違くて……」  吉木に気を遣うのなんて初めてかもしれない。つくづく私はこの男の気持ちを蔑ろにしてきたのだなと反省する。 「あの、謝りたくて。わたし、吉木くんにすごくひどいことした。してきた。ごめんなさい」 「いーのいーの。何かもう途中で気づいてたし。あ、これ俺、当て馬になるパターンじゃね?って」 「当て馬?」 「好きだろ、長谷川のこと。自分の気持ちに気づいただろ?」  マチョコに変なことを言われたせいで、顔が熱くなった。そんな私を見て、吉木が口元を緩める。 「今でも長谷川はやめとけって思ってるけどさ。しょうがねーじゃん、好きなんだったら。止めねーよ、もう」  あーあ、と声を出してため息をつきながら、手を頭の後ろで組んでいる。 「でも、フラれたし……」  止めねーよも何もないと思って、そう呟く。叶多は、そんなままごとに付き合っている暇はないと言った。 「あれをフラれたとは言わないっしょ。何?諦めちゃうの?」 「だって、もう来るなって言われたんだよ?」 「本心じゃないって、あんなの」 「それにわたし、カナタくんに何もしてあげられないし」  陽咲や実采に懐かれて、良い人間になれた気がしていた。でも、そんなのはまやかしだ。本当の私は、自分のこともよく分からずに、ふらふらと彷徨っている。 「何でそんな自信なくなっちゃったの?」  吉木が不思議そうに言った。 「ゆーちんって、もっと自信あったじゃん。毎朝みんなに元気よく挨拶してさ。本栖恵梨香にうざいとかひどいこと言われてもやめなくてさ。ちゃんと本栖恵梨香にも毎朝声かけて、どんなに嫌なこと言われても笑顔で話しかけてて。勝ったじゃん、そんで。最後には本栖恵梨香と仲良くなってたじゃん」  吉木は私のことを、そんなふうに見ていたのだなと思った。 「俺、正直、ゆーちんって馬鹿なのかなって思ってたよ。話しかけたって、結局嫌な感情ぶつけられるだけなんだから、やめといたらいいのにって」  吉木はテーブルの上に身を取り出して、片肘をついた。 「だからさ、結構俺的には衝撃的だったんだよね。あの本栖恵梨香が、ゆーちんに笑顔を向けてさ、家に遊びにいくって言うの聞いた時。そん時分かったんだ。ゆーちんは馬鹿なんじゃなくて強いんだって。自分のやってることに自信があるんだって」  吉木は、笑おうとしてうまく笑えなかったみたいに目を伏せた。 「俺、それでゆーちんのこと好きになったんだよ」  彼の言葉が、胸の中にざらざらと広がって、澱んでいく。  全てはもう遠い過去のことだ。私がまだ父親のことを好きで、自分の名前に誇りを持っていた頃の。優しさが世界を救うと、本気で信じていた頃の。 「ありがとね」  真実を伝えるわけにもいかなくて、短くお礼の言葉を返した。  吉木は結末を誤解しているのだ。恵梨香は私を受け入れたわけではない。私の父親を好きになっただけだ。  父親は私に、優しさを始められる人になれと言った。世の中はつらいことばかりだけど、ふと誰かに優しくされたら幸せな気持ちになって、また違う誰かに優しくなれる。そうやって幸せな気持ちが広がれば、世界が優しくなるはずだ。だから優芽は最初に優しさを始められる人になれ。そんなことを、繰り返し私に言った。  私はそれを真に受けて、そんな人でありたいと思った。だから、みんなが気持ちよく一日を始められるようにと、毎朝明るくクラスの一人ひとりに挨拶するようにしていたのだ。  恵梨香は、そんな私を鬱陶しいと言った。そう受け取る人がいると思わなくて、私は挨拶を続けた。でもそのうちに恵梨香が本気で迷惑がっていることが分かった。そしたら、恵梨香の他にも言わないだけで不快に思っている人がいるのかもしれないと不安になった。自分が今までしてきたことの全てが間違いだったのではないかという気がして、私は泣きながら、父親にどうしたら良いかと尋ねた。  今になって思えば、父親が私の言ったことを完全に理解していたかどうかは疑わしい。でも、娘のために何かしてやろうと思ったに違いない。当時ケーキ職人だった父親は、ケーキを作ってやるからその子を家に連れてこいと言った。私が、父親と恵梨香を引き合わせたのだ。  恵梨香のお母さんはシングルマザーだったから、恵梨香は男親からの愛情を知らずに育ったのだろう。それに、クラスで孤立していたから、友達の家に遊びに行く経験があまりなかったのだと思う。初めて会った私の父親に対して、恵梨香は愛情を求めた。それは、初めのうちは親としての愛情だったけど、次第に異性としての愛情へとエスカレートしていった。  家で二人が性行為をしているのを見たことがある。中学生になったばかりの頃だ。恵梨香が父親の上にまたがって、喘ぎ声をあげていた。その時はまだ、その行為の意味することが分からなかったけど、いけないものを見てしまったような気がして、お母さんに言えなかった。  お母さんは早い段階から気づいていたと思う。中学生になる前から、恵梨香が家に出入りするのをやめさせようとするようになった。父親に懇々と、娘の友達が父親目当てに家に来ている状況がいかに変なことであるかを説明していた。  お母さんは決して、そこに法律を持ち出したりはしなかった。弁護士だからこそ、持ちこみたくなかったのかもしれない。不倫だとか淫行だとかそんな言葉ではなくて、妻を悲しませる行為だとか、大人としての責任だとか、そんな言葉を使って、感情に訴えるやり方で恵梨香との関係を咎めた。  父親は、お母さんの主張を理解しなかった。俺はお前を愛しているのだから、悲しむのはお前の勝手だと言った。恵梨香のことを可哀想な子だと言って、求められたら与えるのが優しさだと言い張った。父親は恵梨香に同情していたのだ。同じように親からの愛情に飢えた身として、共感もしていたのかもしれない。  お母さんと父親の口論は、いつも堂々巡りだった。  そんな日々の中で、私は叶多と出会い、叶多の家に入り浸るようになったのだ。  優しさを始められる人になりたい。父親がどんなに非常識なことをしても、それは呪縛のように私の目標であり続けた。でも、両親が常に言い争っている家では、優しさを始めるのは難しくて、だから私は叶多に弱音を吐いた。家にいると優しくなれない気がするの、と。 「カナタくんね、わたしに、負けないでって言ったの」  私がそう呟くと、吉木は小さく一つ頷いた。 「挫けそうになったわたしに、俺が愛をあげるから負けないでって、そう言ってくれたんだ」  どうして忘れてしまっていたのだろう。思い出すのがつらかった。家を離れなければいけなかったから。それだけでなく、時を経るごとに自分の父親がしたことを理解できるようになって、自分の血が恥ずかしくてたまらなくなったのだ。 「わたし、多分もう、カナタくんのことしか好きになれないと思う」  声に出して言ってみて、自分で納得した。私は、叶多のことが好きだ。友達以上に独占的な感情で。 「うん。だったらもう何も迷うことねーじゃん。自信なくしんてんじゃねーよ」  吉木は、茶化したり詳しく聞き出そうとしたりせずに、ただニッと笑った。吉木を良い奴だと言った叶多の正しさを認識する。 「行きなよ。俺はもうちょいゆっくりしてから帰るわ」  吉木の言葉に背中を押されるようにして、私はカフェを後にした。  スマホを取り出して、陽咲の名前をタップする。彼女はワンコールも鳴らないうちに電話に出た。 『ユメちゃん!?』  焦ったような声だった。 「どうしたの?」  自分の話どころではなくなって、尋ねる。 『それが、ミコトが朝から習字部屋に閉じこもって出てこなくて。あたしさっき学校から帰ってきたんだけど。お兄ちゃんはドアをぶち破ろうとしてる』 「え、ミコトくんは大丈夫なの?」 『元気は元気みたい。ユメちゃんに会えなかったから拗ねてるの。それで……、来てもらうのって、難しいよね……?』  電話の向こうで、ヒナタ、と諌める叶多の声がしている。少し揉めるような話し声の後、陽咲が押し切ったらしい様子が聞こえてきた。 「行くよ。すぐ行くから待ってて」  そう言って電話を切った。  実采の心が繊細なバランスで保たれていることを、私は知っていた。それなのに、自分のことでいっぱいで、実采の気持ちに思いが至らなかった。そんな自分のことが、ほとほと嫌になった。
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