籠城と膝枕

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籠城と膝枕

 叶多の家の呼び鈴を鳴らすと、新が出迎えてくれた。私の顔を見て、無言でペコリと頭を下げてくる。  少し遅れて陽咲も出てきた。 「ごめんね。こないだお兄ちゃんがあんなこと言ったばっかりなのに」 「ううん。わたしが約束破ったから、ミコトくんを傷つけちゃったね」  家に上がって陽咲の後について習字部屋に行くと、部屋の前に叶多が立っていた。気まずそうな顔で、目を合わせずに「ごめん」と謝ってくる。 「ミコト、ユメちゃん来てくれたよ」  陽咲が部屋の中に呼びかけている。 「嘘だ」  中から実采の声がする。 「嘘じゃないって。いいから開けて」  陽咲が戸をバンバンと叩く。 「ミコトくん。金曜日は、来るって言ったのに約束破ってごめんね」  私が来たことを信じてもらおうと思って呼びかけた。返事が聞こえるまで少し間が空いた。 「ユメちゃんは、俺のことなんかどうでもいいんだ」  実采の声は、聞いているこっちの胸が痛くなるくらい、悲痛な寂しさを帯びていた。 「ミコト。ユメちゃんは家族じゃないんだ。わがままばっかり言って困らせたらダメだろ。いいから早く開けろ」  叶多が叱りつけるように言う。 「そんな言い方」  軽く咎めると、叶多は少したじろいだようだった。 「ねえ、ミコトくん。わたしがどれくらいミコトくんのことを可愛いと思ってるか知らないでしょ」  考えるような間が空いた後、「どれくらい?」と探るような声がした。 「うーん、ここからだとうまく伝えられないかな」 「どうして?」 「だって、ギューッてしたいもん」  また少し間が空いた。やがて、そっと引き戸が開いた。 「兄ちゃんたちはダメ!」  手を入れて大きく開けようとした叶多に向かって実采が叫ぶ。 「ユメちゃんだけ!」 「ミコト、いい加減にーー」 「分かった。ミコトくん、お邪魔するね」  叶多の声を遮って、戸の隙間をくぐるようにして部屋に入った。  実采が戸を閉めて、つっかえ棒を設置して開かないようにする。 「朝からここにいたの?」  そう尋ねたら頷いた。 「そしたらお腹空いたでしょ」  既に十七時をまわっている。 「ううん。俺は用意周到なんだ」  その言葉の意味するところはすぐに分かった。 「すごい。ちゃんと食べるもの用意してるんだね。飲み物も」  食パンやお菓子、ペットボトルの水が置かれている。実采一人だったら数日は持ちそうだ。 「布団だってあるし、ゲームだって、パソコンだってあるよ」  順番に指差して実采が説明する。 「すごい、快適だね。トイレは大丈夫なの?」  そう尋ねたら、実采は恥ずかしそうに小さい声で何やらごにょごにょ言った。聞き取れなくて聞き返したら、実采は繰り返す代わりに部屋の奥を指さした。見るとオムツのパックが置かれている。ちゃんとお尻拭きまである。 「なるほど。賢い」 「これぐらい当たり前だよ。ロージョーなんだから」 「ロージョー?あ、篭城してるんだ、ミコトくん。すごいね、一人で」 「一人じゃないよ。ユメちゃんもここで暮らそう」  私を見上げる瞳が、拒絶しないで、というように心細そうに揺れている。  実采の小さな身体を抱きしめた。 「今日は朝から何してたの?」  身体を離してそう尋ねると、座ってというように手を下に引っ張られた。正座した私の膝の上に、いつものように背中をべったりくっつけて座ってくる。 「ゲームして、YouTube見て、あと、時代劇見た」 「へえ。ミコトくん、時代劇見るんだ」 「見るよ。あのね、篭城するんだけどね、負け戦になってお城を取られちゃいそうになったら、火をつけて燃やしちゃうんだよ。お城の価値を下げるためなんだ」 「そうなんだ。それで篭城なんて難しい言葉知ってるんだね」 「うん。こないだも兄ちゃんと一緒に時代劇見たよ」 「へえ、カナタくんと?」 「うん、二人で見た。それでね、二人でお昼ごはん食べたの」 「そう。何食べたの?」 「お蕎麦。時代劇でお蕎麦食べてたから」 「美味しかった?」 「うん。でも兄ちゃんは本当は寝てる時間なの。だから、眠いって言ってちょっとしか食べなかった」  しょんぼりしたように、実采は声を沈ませた。 「カナタくんと二人で過ごせて良かったね」  そう言ったら、大きく頷いた。 「でも、兄ちゃん分かってないんだ。学校で嫌なことあるのかとか、いじめられてるのかとか、そんなことばっかり聞いてくる。俺、学校が嫌で休んだんじゃないのに」  叶多が心配する気持ちも分かる。 「どうしてお休みしたの?」  私の問いに、実采はすぐには答えなかった。私の腕を自分の身体の前に持ってきて、ギュッと抱えこんだ。 「兄ちゃんといたかったから」  やがて小さな声でぽつりと言った。 「そっか」  相槌を打つ。それっきり黙ってしまって、横からそっと顔を覗きこむと、実采は声も出さずに泣いていた。 「どしたの、ミコトくん」  彼の頰に顔を寄せると、実采の涙が私の顎を濡らした。この子は、わがままを言っているように見えて、いつも我慢している。  実采はついに声をあげて泣き出してしまった。  抱き上げて、正面から抱きしめた。頭を撫でて、背中をさすった。少しでもこの子の寂しさを癒やしてあげられないかと。  実采はしばらく泣いていた。苦しそうにしゃくりあげながら、私にしがみついて泣いていた。その身体が熱くて、熱があるのではないかと心配になるほどだった。 「兄ちゃんは、俺のこと嫌いなんだ」  嗚咽が収まった後、実采は淡々と言った。 「俺がいつもわがまま言って困らせるから。コウタが連れてかれちゃったのも、俺のせいだから」  陽咲も、叔母さんが幸多を連れていってしまったのだと言っていた。詳しい事情は知らないけれど。 「カナタくんがミコトくんのことを好きじゃないなんてことは、絶対にないよ。こんな可愛いミコトくんのこと、大好きに決まってるでしょ」  実采の柔らかい頬を両手で包みこんで、涙でいっぱいの目に言って聞かせた。  実采は、それには応えず私の膝から降りた。ただの気休めに感じただろうかと思いながらその背中を目で追うと、彼は書道作品が並んでいる壁の前に立って、上の方を見上げた。そこには叶多たち兄弟の名前が並んでいる。 「俺、よそからもらわれてきたんだよ、きっと。だって、俺だけ仲間外れだもん」  どういう意味か分からなくて、その先を待った。でも、実采はそこでまた泣き出してしまった。 「ミコトくん。どこも仲間外れじゃないでしょ」  そばに行って、その手を取って話しかけた。 「だって、兄ちゃん、困ってたもん。名前の由来を聞く宿題が出た時、兄ちゃん、俺の名前の意味、答えられなかったもん」  またしゃくりあげていて苦しそうだ。 「それは悲しかったね。でも、だからって仲間外れってことにはならないでしょ?」  背中をさすりながらそう言ったら、実采は首を大きく横に振った。 「俺だけ仲間外れだよ。俺だけ違うもん。みんな、名前がタで終わるのに、俺だけ、ミコトだもん」  口を尖らせて、そう主張する。カナタ、ヒナタ、アラタ、ミコト、コウタ……。 『どうしてミコトくんだけ違うの?』  この部屋で、叶多のお母さんに尋ねたことがある。あの頃実采はよちよち歩きをしていて、幸多は生まれたばかりだった。 「ミコトくん、わたしそれ知ってるよ。ミコトくんのお母さんから聞いたことあるよ」  そう言ったら、実采は涙の溜まった目を大きく見開いて、こちらを見つめてきた。濡れたまつ毛から雫がこぼれ落ちて、真っ赤な頬を流れていく。 「ミコトくんが生まれた時ね、すっごく可愛かったんだって。お兄ちゃんたちももちろん可愛かったけど、ミコトくんは特別可愛かったんだって。もう可愛くて可愛くて、お兄ちゃんとお姉ちゃんも一緒になって、きっとすっごく甘やかしちゃうと思ったんだって」  叶多のお母さんの、幸せそうな口ぶりを覚えている。懸命に歩く実采を見つめる、愛情に満ちた眼差しも。 「ミコトくんの名前の二つめの漢字は、掴み取るっていう意味なんだって。甘えっぱなしの子にならないように。自分から掴み取れる子になるようにって、そう願って、お母さんはミコトくんにこの名前を付けたんだって」  実采の名前を指し示しながら、そう説明した。 「タで終わる名前にこだわってるつもりはなかったって言ってたよ。ミコトくんの名前を付けてから、そういえばって思ったけど、仲間外れだなんて思わせないくらいみんなが可愛がるから大丈夫なんだって、そう言ってミコトくんのお母さん、笑ってた」  私がこの話を覚えていたのは、実采の未来に想いを馳せたからだ。優しさしか存在しない世界で生きていくことを信じて、とても温かい気持ちになったからだ。家に帰れば永遠に分かり合えない両親の、終わることのない言い争いを聞かされる日々の中で、優しい世界があることを信じて、心が癒されたのだ。 「その話、ホント?」  目をぱちくりさせてそう確認してくる実采に、大きく頷くことで応えた。 「そっかぁ」  実采は小さな肩いっぱいに深呼吸をして、少しの間自分の名前を見上げていたかと思うと、腕で涙を拭った。 「兄ちゃん、怒ってるかなぁ」  心配そうに訊いてくる。 「篭城、おしまいにするの?」  そう尋ねたら、こくりと頷いた。 「カナタくんはミコトくんのことを心配してるだけだよ。安心させてあげよう」  実采は再び頷いて、入口にかけていた棒を外した。戸を引き開けて、わっと声をあげる。 「籠城してたのか」  ドアの前に立っていた叶多が、実采を抱き上げた。 「根性があるな、ミコトは」  そう言って笑いかけている。 「ごめんな、名前のこと。そんな風に思ってるなんて知らなかった。ユメちゃんが覚えててくれて良かったな」  叶多は実采を降ろすと、しゃがんで目線を合わせた。 「コウタのことは、ミコトは何も悪くないよ。連れていかれたのは、ミコトのせいじゃない。俺が夜勤を始めたからだ」  部屋の前でずっと聞いていたのらしい。 「コウタが夜泣くようになって、ミコトも寝れなくてしんどかったよな。寂しい思いをさせるのは分かってたよ。でも俺な、昼間に働くのはもう嫌だったんだ。去年ミコトが熱出した時、どうしても仕事休めなくて、誰にもミコトのこと頼めなくて、独りぼっちにさせちゃったことがあっただろ。あんなことはもう二度としたくなかった。ミコトのせいじゃなくて、俺が、耐えられなかったんだよ」  私のところからは実采の表情は見えない。でも、その背中は、叶多が真剣な顔で話すのを、じっと聞いている。 「コウタはまだ小さいし、父さんと母さんのことを覚えてないのが可哀想で、ついついいっぱい構うけど、ミコトのことだっていつも大事に思ってるよ。ミコトと二人でゆっくり過ごせて、俺も楽しかったよ」  叶多に優しい顔で見つめられて、実采がギュッと両手を握りしめた。 「俺だって、」  それは、耳を澄ませないと聞き取れないほどの小さな声だった。 「お父さんとお母さんのこと、覚えてない。学童から帰る時、みんなお父さんとかお母さんが迎えにくるけど、俺だけ、アラタ兄ちゃんなの」  言いながらまたしゃくりあげている。その身体を叶多が抱きしめた。 「寂しいな。でも、学童が終わる時間になったら、アラタがすぐに迎えにきてくれるだろ。あいつも学童に行ってたから、ミコトの気持ちが分かるんだよ。だから、ミコトが少しでも寂しい思いをしないように、早めに行ってくれてるんだよ。あんな優しい兄ちゃん、どこを探してもいないよ」  身体を離して、実采の涙を手の平で拭いながら叶多は続けた。 「覚えてないって言うけど、ミコトは母さんの膝に座るのが好きだったんだよ。だからユメちゃんの膝に座ると落ち着くんだろ」  嗚咽で上下する実采の背中を、叶多がポンポンと叩く。 「泣くようなことなんて何にもないだろ。ここにいる人はみんなミコトの味方だよ。姉ちゃんなんかミコトのためにカレー作るって今材料買いに行ってるんだ。……あ、帰ってきたかな?」  叶多の言う通り、玄関でガラス戸が開く音がした。実采が、部屋の外に顔を出して玄関の方向を見つめる。 「おはよ。やっと会えたね」  向こうの方から陽咲の声がして、足音が近づいてくる。 「何泣いてんの、ミコト」  買い物袋を手に提げた陽咲が現れて、実采の頭をポンポンと叩いた。 「姉ちゃん、ごめんね」  実采が陽咲に抱きつく。朝から一悶着あったのだろう。 「おいで。カレー作るの手伝ってくれる?」  実采が大きく頷く。陽咲がその頭を撫でながら、私をチラッと見た。そして、しゃがんだままの叶多に視線を移す。 「お兄ちゃんは、ユメちゃんと話すことあるよね」 「え?いや……」  叶多が言葉を濁しながら立ち上がる。 「あるよね?」  有無を言わせない口調でそう繰り返した陽咲に圧されるようにして、叶多が部屋の中に後ずさってきた。少しふらついたようにも見えた。 「さ、行こ」  陽咲は実采を連れて台所の方へ行ってしまった。叶多と二人、習字部屋に残される。  何をどこから話そうかと思っていると、叶多が崩れ落ちるようにその場に座りこんだ。 「だ、大丈夫?」  慌てて近寄った私を、問題ない、というように手で制してくる。 「ただの寝不足」  叶多が端的に原因を述べる。 「じゃあ横になる?布団こっちに持ってこようか?」 「ううん、今横になったら起き上がれない気がする」  今日も仕事に行くつもりなのだ。 「ごめん、ユメちゃん。こないだは言いすぎた。余裕がなくてどうかしてたんだ。申し訳なかった」  眩しそうに私を見上げて、謝ってくる。 「でも、本当に巻きこむ気はないんだよ。今さら何言ってるんだって思われるかもしれないけど……」 「わたし、巻きこまれたなんて思ってないよ」  叶多の前に膝をついて座った。 「むしろ、わたしの方こそ出しゃばってごめん。カナタくんがわたしを遠ざけようとしてるの、分かってたんだけど、」  それでも私がここに来るのをやめなかったのは、陽咲や実采のことが可愛いという以上に。 「カナタくんに会いたかったの」  叶多にもう来るなと言われて初めて、そのことを自覚したのだ。 「じゃあどうしてこっちに戻ってきた時、すぐに会いに来なかったの」  語尾を上げずに叶多が問う。 「それは……」  訳を説明しようとして少し迷った私に、叶多が固い微笑みを向けた。 「理由が知りたいんじゃなくて、俺に会いたいなんて嘘だよねって話。俺にまで優しくしてくれることないよ」  話は以上だと言わんばかりに叶多が立ち上がろうとする。 「好き」  引き留めたくて、喉の奥から絞り出した。叶多が動きを止める。 「くだらないって思われても、ままごとみたいだって言われても、わたしは、カナタくんのことが好き」  ありったけの勇気を出した唇が震えている。少しの沈黙の後で、叶多がハハッと乾いた笑い声をあげた。 「冗談でしょ。こんな高校も出てない男なんか」  胡座をかいた足に目を落として、掠れた声で言った。 「そんなの関係ないよ。いや、ちょっとはあるかな。もしカナタくんがすごい大学とか行ってたら、好きだなんて言えなかったかも」  叶多は目を伏せたままだ。 「こっちに戻ってきた時、すぐに会いに来たかった。戻ってくる前からカナタくんにずっと会いたかった。本当だよ。でも、怖かったの。わたし、わたしね、自分の父親のことが恥ずかしくて、カナタくんに知られてドン引きされたらって思ったら、会いに来る勇気が出なくて、それで、カナタくんの家の周りをうろうろしてたの。図書館にいたのも、バッタリ会えたりしないかなって期待してたから。情けないでしょ」  叶多がちらりと視線をよこした。 「お父さんのことって、子供のこと?」  彼の口から発された言葉に、冷水を思いっきり浴びせられたように胸が冷たくなった。 「母さんから聞いた」と叶多は言った。  確かに叶多のお母さんは私の家の事情を知っていた。だから私を快く受け入れてくれていたのだ。でも、叶多が知っているとは思わなかった。 「でもそんなことーー」 「じゃあ、知ってる?」  何かを言いかけた叶多の言葉を遮った。 「お父さんが妊娠させたのは、わたしの小学校の時の同級生で、妊娠した時まだ中二だったんだよ。そういうことをし始めたのは、まだ小学生の時だったのかもしれない」  ヤケクソのような気持ちになって、恥を全部さらした。叶多が今まで、父親のことを知った上で私と接していたのだという事実に、耐えがたいショックを受けていた。 「知ってるよ」  叶多の答えに、胸が張り裂けそうになった。 「ユメちゃん。でも、そんなことで誰もドン引きしたりしないし、ユメちゃんが引け目に感じることもないよ。そうでしょ」  再会して以来、一番、叶多がこちらに歩み寄ってくれているのを感じる。でも、今度は私が、叶多の目を見ることができない。 「俺は兄弟の面倒を見ないといけないからさ。あいつら大きくなるまで時間かかるからさ。だから、俺のことなんか忘れてーー」  そこで叶多が言葉を切ったのは、私の目から涙がこぼれたことに気づいたからだ。何が悲しいのか自分でも分からなかった。お母さんが死んだ時は、涙ひとつ出なかったのに。 「ここで泣かれたら困るよ……」  本当に困り果てた声で、叶多が言う。 「うん、ごめん」  泣き顔を隠すために立ち上がろうとしたら、叶多がこちらに身を乗り出してきて、私の手首を掴んだ。 「俺、ユメちゃんのことが大事なんだ」  叶多がまっすぐに私の目を見てくる。掴まれた手首が痺れるみたいに熱い。 「大事だから巻きこみたくないんだよ。だから、もう俺のことはーー」 「何で」  対する私はみっともないくらいの鼻声だ。 「負けないでって言ってくれたカナタくんが、わたしに諦めろって言うの?好きになってほしいって言ってるわけじゃないのに」  私はもう叶多のことを諦めないと決めたのだ。父親のことを叶多が知っていたことに動揺している場合ではない。叶多に伝えられずに飲みこんだ言葉がたくさんある。私はもう二度と、叶多を諦めたくない。 「そんなの、とっくに好きだよ」  叶多が私から手を離して言った。 「昔から好きなままだよ。この前、くだらないとか言ったのは、自分にそう言い聞かせてたんだ」  叶多は、こちらに身を乗り出していたのを戻して座り直した。呆気に取られた私の視線から逃れるように目を伏せて、こめかみを掻いている。 「あの時、何でユメちゃんの隣に吉木が座ってるんだって、どうして俺だけこんな目に遭わなきゃいけないんだって、思って、思ってしまって、そんな自分が許せなかった。それであんな言い方したけど、ユメちゃんは自由に恋愛とか、サークルに入ったり、大学生らしいことをしたらいいんだよ。俺はさ、何もしてあげられないし、一緒にいたって退屈なだけだ。俺より良い奴なんていくらでもいるでしょ。吉木ーー」 「なめないでよ」  私の強い言葉に、叶多は少し驚いたようだった。 「わたし、カナタくんに何かしてほしくて好きって言ってるんじゃないよ。ただ一緒にいたいだけなの。むしろカナタくんのためにできることがあるんだったら、何でもしてあげたい」  今度は私の方から身を乗り出した。 「だから、カナタくんのそばにいさせて」  恥ずかしさも遠慮も捨てて、裸の言葉をぶつけた。叶多の瞳が揺れている。一、二秒ほど見つめ合った後、顔を背けられた。 「ダメだよ、やっぱり。ユメちゃんは知らないんだ。俺が最低な人間だって。ユメちゃんに好きになってもらえるような奴じゃないんだよ」  何が叶多をそんなに頑なにさせるのだろう。知りたくて、でも訊けなくて、凝縮された沈黙が流れた。先に進むことも、後に戻ることもできずに、私は祈るような気持ちで叶多の言葉を待った。  叶多は長いこと逡巡の表情を浮かべていたけど、やがて覚悟を決めたように口を開いた。 「父さんと母さんを轢いた居眠り運転のトラックの運転手だけど、」  そんな風に話し始めた。 「若い男でさ、向こうも足に後遺症を負った。おそらく一生満足には歩けないだろうって。そいつが、一度ここを訪ねてきたことがあるんだよ。たぶん俺の叔母さんが勝手に住所を教えたんだ。松葉杖をついて、両親に支えられて、立つのもやっとって感じで、玄関の前に立ってた」  そこまで淡々と話して、叶多は肩で大きく息をついた。 「俺、そいつを突き飛ばした」  痛みを堪えるような声だった。  ギュッと握りしめた拳がまるで、彼の心を表しているようで、たまらなくなって口を挟もうとしたけど、叶多は止まらずに少し早口になって続けた。 「それだけじゃない。死ねとか、人殺し、とか、思いつく限りの暴言を吐いた。そいつは親が助け起こそうとするのを拒んで、動かない足を引きずって這いつくばるようにして必死に土下座しようとしてた。けど、俺はそいつが持ってきた菓子折りか何かを投げつけて、何も聞かずに戸を閉めた。それっきり、会ってない」  叶多は、自分のしたことにどれだけ傷ついただろう。彼の胸の痛みを想って、また一つ涙がこぼれ落ちた。 「ユメちゃん、言ってたでしょ。名前の通り、優しさの芽になるんだって。マイナスの感情を終わらせて、優しさを始められる人になるんだって。俺はそんなユメちゃんに憧れた。俺もそういう生き方をしたいと思ったし、ユメちゃんが挫けそうになった時に支えられる人になりたかった。でも、俺には無理だよ。俺、そんなできた人間じゃなかったんだ。こんな俺、ユメちゃんに好きになってもらう資格ないんだよ」  叶多が言い終わる前から私は首を横に振っていた。何度も横に振っていた。 「そんな生き方、わたしだってできてないよ。わたしなんか、全然ダメだよ」  父親からの優しさを何度終わらせてきただろう。その形が気に入らないからという理由で。 「昔のわたしは、世間知らずだったし、カナタくんがいつも味方でいてくれてたから、頑張れてただけなんだよ」  叶多は私のことを美化していたのだと思った。  再び静寂が落ちた。台所の方から実采の楽しそうな笑い声が聞こえる。叶多の喉仏が大きく上下した。 「俺のこと、軽蔑しないの?」  叶多は静かにそう尋ねた。 「軽蔑も何も、お父さんとお母さんを死なせた人を許せないのなんて当然でしょ」  私の答えに、叶多がまだ迷うような目をしている。 「今の話を聞いてもまだ、俺のことを好きだって言ってくれるの?」  不意に、さっきマチョコに言われて叶多とのキスを思い浮かべたことを思い出した。 「何回も言わせないで……」  耳まで熱くなる。 「俺、諦めはいい方だけど、諦めないって決めたものには執着するよ。いいの?」  こっちの気も知らないで、叶多がしつこく確認してくる。 「勝手に諦めないでよ」  顔が赤いのを隠したくて頬を覆う。叶多が息だけで笑った。 「うん。諦めはいいはずだったんだけど、ユメちゃんに会うのはつらかった。ミコトが甘えてるの見て、割と本気で嫉妬したりしてさ」 「嘘でしょ。あれはミコトくんのことを独り占めしてるわたしに嫉妬してたんでしょ。すぐにわたしから取り上げてさ」 「いや、取り上げたのは、重くないかなって」 「全然重くないし。ミコトくんって、昔のカナタくんにそっくりで可愛くて仕方がな……」  恥ずかしい発言をしてしまったのではないかと気付いて、途中で言葉を止めた。 「可愛い、ね……」  叶多はなぜか少し落ちこんだようだった。 「あれが重くないなら、ちょっといい?」 「え?」  叶多は隣にやってきたかと思うと、横になって私の膝の上に頭を乗せた。目が合って、照れくさそうに身体の向きを変えている。 「ミコトが時代劇見るのが好きでさ。お殿様が膝枕してもらってるシーンがあったんだけど、半分寝ながら見てたらユメちゃんにしてもらう夢見て。まさか正夢になるとは思わなかったな」 「へ、変な夢……」  ふふ、と叶多が笑う。こっちは心臓バクバクで死にそうだというのに。 「重くない?」 「う、うん、大丈夫」  全身が痺れてしまったみたいで、重さを感じる余裕もない。 「初めて会った時のこと、覚えてる?」  ガチガチに緊張している私をよそに、叶多はそんなことを訊いてきた。 「保健室、だったよね」  何とか落ち着いた声を出せた。 「うん。俺、ユメちゃんに女の子だって勘違いされて」 「ごめんね、あの時は」  六年越しに謝る。叶多がまた息だけで笑った。 「それまではさ、全然背が低いのとか気にしてなかったんだけど、あの日からめっちゃ牛乳飲んで、筋トレした」  そこまで傷つけていたとは知らなかった。 「俺ね、あの時にユメちゃんのこと好きになったんだよ」 「え?」  驚きの声をあげた私を、叶多が頭を浮かせてチラリと見上げた。 「知らなかった?」 「し、知るわけないじゃん」  そんなやりとりをして、叶多は声をあげて笑った。 「俺が頭に鉄棒ぶつけてたんこぶができたって言ったら、ユメちゃん、俺の頭に触って、本当だって嬉しそうに笑ってさ。何でそんなに嬉しそうなのって訊いたら、人が笑ってるの見たら幸せな気持ちになって痛みが飛ぶかなあと思ってって」 「……そんな変なこと言ったっけ、わたし」  会話の内容までは覚えていなかった。 「完全に心を鷲掴みにされたよ。だから、悔しかったんだ。ユメちゃんに女の子だって思われたのが」 「だって、可愛かったんだもん。俺男だよって言ってくれたら良かったのに。制服姿見てめちゃめちゃびっくりしたんだからね」  私の恨み言に、叶多がまた笑い声をあげる。 「ユメちゃんが俺のことを覚えててくれて、嬉しいような、忘れててほしかったような、複雑な気分だったな。でも、ユメちゃんに話しかけられて、こんなチャンス二度とないかもって思ったから、勇気を振り絞って家に誘ったんだ」  初耳だった。誰でも気軽に誘っていたのかと思っていた。 「図書館で会った時さ、ユメちゃんに初めて会った時のこと思い出した。あの時も俺、頭にたんこぶができて、ユメちゃんが撫でてくれたでしょ。それで、好きになった気持ちとか、女の子だと思われて悔しかったこととか、男らしくなりたくて筋トレしたこととか、ぶわーって思い出して、そしたら勝手に涙が出た」  そういうことだったのか、と納得した。あの時は、痛くて泣いているのかと思って焦った。 「そんな自分に動揺した。もうそういう感情は捨てたつもりだったから。だから、本当はユメちゃんに会ったら普通に友達として接しようって決めてたのに、必要以上によそよそしくしちゃって」  ごめんね、と謝ってくる叶多に、言葉を返す代わりにその頭を撫でた。 「感情を捨てるなんて」  彼の言葉を拾って呟いた。 「カナタくんが全部背負いこむことないのに」  兄弟のことを一人で抱えてきたのだ。 「でも、俺のせいだから。父さんたちが死んだの」  叶多はそんなことを言った。 「俺、高校入ってバイトしてさ、最初のバイト代を父さんと母さんに渡して、二人で出かけて来なよって言ったんだ。母さんは、コウタがまだ小さいからって渋ってたけど、コウタももう三歳になったし俺たちが面倒見てるから大丈夫だって押し切って、それで、日帰りで温泉に行くくらいならって出かけた。そこで事故に遭ったんだよ」  頭を撫でる手を止めた私を見上げて、叶多は小さく微笑んだ。 「俺がそんなことしなかったら、父さんたちは死ななかったんだよ。叔母さんは、三歳の子供を置いていくなんてって母さんのことを悪く言うけど、俺が悪いんだよ。母さんは、俺の気持ちを汲んで行ってくれたんだ」  悔やむような声が、彼が今も罪悪感に苛まれていることを示している。 「カナタくん、最初のバイト代はお母さんたちのために使うって言ってたもんね。それで、その次に、わたしのところに会いに来てくれるって」  癖になったみたいにまた泣いている。 「メール読んでくれてたんだ」  叶多からのメールにそう書いてあったのだ。 「読んでたよ。鬱陶しいなんて思ったことない。いつも嬉しかったよ。本当は、会いに来てくれるの、待ってた」  私の涙が叶多の頰に落ちた。慌てて拭こうとしたら、手を掴まれた。彼の頰から耳に向かって、雫が流れていく。 「会いに行けなくて、ごめんね」  首を横に振る。ぽたぽたとまた涙が落ちて、鼻を啜りながら上を向いた。謝らなければいけないのは私の方だ。私がメールに返事をしていれば、叶多は一人で抱えこまなかったかもしれないのに。 「あ!」  不意に実采の声がした。部屋の入り口を見ると、もう姿はなく、パタパタと遠ざかる足音が聞こえる。そういえばさっきからカレーの匂いがしている。叶多が跳ね起きて声のした方を見たまま固まっている。 「姉ちゃん、姉ちゃん、あのね、兄ちゃんが、お殿様のヤツやってた」  実采の興奮した声がここまで聞こえてくる。陽咲の声は聞こえないけど、何か受け答えをしているような間の後で、「そう、膝枕!」と実采が叫んだ。 「ちょっ、ミコ……」  叶多の慌てた様子がおかしくて、思わず吹き出した。戸が開けっぱなしなのに大胆だなとは思っていた。 「やっとユメちゃんの笑った顔見れた」  私の涙を指で拭いてくれながら叶多が言った。 「……わたしが笑わないの、気づいてたの?」  叶多は気づいていないかと思っていた。 「そりゃ気づくよ。吉木に馬鹿にされたけど、俺だって本当はユメちゃんのこと知りたくて、我慢してたんだから」  また泣きそうになって俯いた。 「ごめん、重かったよね。俺、調子に乗っていつまでも頭乗せてたから」  何を勘違いしたのか叶多がまた謝ってくる。ぐっと涙を堪えて顔を上げた。 「お殿様になった気分になれた?」  そう冗談めかして尋ねたら、叶多は照れたように頭を掻いた。 「いや。もっと落ち着くものかと思ってたけど、ドキドキしちゃって」 「普通に話してたじゃん」 「そう?」  じっとこちらを見つめてくる。なぜか、叶多の考えていることが分かった。 「キスしていい?」  それは多分、私もしたいと思ったからだ。  でも。 「見らーー」  足音が近づいてきているから、見られると言おうとしたのに、叶多の顔が近づいてきて、私の口の端に触れた。それと同時くらいに、部屋の入り口にスカートを履いた足が現れたのが見えた。 「カナタくん……」 「あたしだって邪魔したくないけどさ」  陽咲の声に、叶多がビクッとして身を引く。 「お兄ちゃん今日も仕事行くんでしょ。もう結構いい時間だよ」 「え、もうそんな時間?」  ハッとしたように壁にかかった時計を見た。私も一緒に見上げると、十九時をだいぶ過ぎている。 「ヤバ。ユメちゃんどうする?泊まってく?」  自分より先に私の心配をしてくる。 「今日は帰ろうかな。明日の課題をやらなきゃいけないから」 「そっか。じゃあ夕飯食べてってよ。送るから」 「いや、いいよ。カナタくんフラフラじゃん。仕事休みなって言いたいくらい」 「大丈夫、めっちゃ元気出た」 「はいはい、そういうのは後にして。お腹空いたよね、ミコト」  陽咲が割って入って、後からやってきた実采が頷く。台所に向かいながら、叶多が実采に、いつもよりも早く家を出ることの許可を求めている。何としても家まで送ってくれる気だ。叶多も割と頑固だ。  二階にいた新も降りてきて、五人でカレーを食べた。 「ちゃんとユメちゃんに謝ったの?」  陽咲が私の頭越しに叶多に念押しするように尋ねる。私は、いつもは幸多が座っている、陽咲と叶多に挟まれた席だ。 「謝った、つもりだけど」  叶多が歯切れ悪く答える。 「うん、そんなに謝らなくていいのにってくらい謝ってたよ」  私がフォローすると、それならいいけど、と陽咲はひとまず納得したようだ。 「叔母ちゃん、今度の土曜日にコウタ連れてくるんでしょ?」  陽咲に訊かれて、叶多が肯定する。 「コウタ奪還計画だけど、」  陽咲が策士のような言葉を口にした。実采が、ダッカンケイカク?と訊き返す。 「叔母ちゃんはさ、夜、未成年しかいない家に未就学児童を置いておくことを問題にしてるわけじゃん。そしたら、ユメちゃんがいるってことにすれば良くない?」 「そんなことできるわけないだろ」と叶多が一蹴する。 「いや、だから、本当にいる必要はなくてさ、いるってことにすればいいじゃんって話。叔母ちゃんだって、なんだかんだ理屈付けてるだけなんだから」 「無理やり連れ戻したって、コウタが幸せとは限らないだろ」  叶多がカレーを頬張りながらモゴモゴと言い返す。陽咲はムッとしたようだった。 「じゃあどうすんの?」 「どうもしないよ。叔母さんが本気で引き取ってくれるって言うんだったら、その方が良いだろうし」 「はあ?本気で言ってんの?」  陽咲がスプーンをお皿に置いて叶多の方に向き直る。 「お兄ちゃんが言ったんじゃん。兄弟がバラバラになるのは絶対に嫌だって。そのために高校辞めたんじゃなかったの?だいたいお兄ちゃん、叔母ちゃんのこと嫌ってんじゃん。そんな人のところにコウタをやって平気なわけ?」  叶多はゆっくりと口の中のものを咀嚼して、飲みこんでから口を開いた。 「兄弟は一緒にいた方が幸せだって思ってたけど、そうじゃないかもしれないって思い直したんだよ。叔母さん、コウタのこと可愛がってくれるだろ。コウタは顔つきがあっちの方の血筋だもんな。向こうでは泣いてないって言うし」 「だからって、はいどうぞって渡すわけ?信じらんない。コウタが可哀想」 「俺だってコウタを手放すのは本意じゃないよ。でもーー」 「邪魔になったんだ、コウタのこと。そうだよね、お兄ちゃんだってしんどいよね。せっかくユメちゃんと……、ん、今のはナシ」  陽咲がバツの悪そうな顔をして取り消す。  食卓がシンとした。口を出すのも躊躇われて、居たたまれない気持ちでカレーを口に運び続けた。  早々と食べ終わった新が、隣に座る実采に早く食べろというように目配せをして、お皿を下げて二階に上がっていった。本当に気を遣ってばかりの子だ。 「大丈夫だから、ゆっくり食べな」  同じく食べ終わった叶多が、実采の肩に手を置いて優しく声をかける。 「ユメちゃんも、ゆっくり食べて。俺、シャワー浴びて着替えてくる」  そう言い置いて、台所を出ていった。二階に上がる足音がするから、新に何かフォローしに行ったのかもしれない。 「ごめん、変なこと言って」  叶多がいなくなってから、陽咲が謝ってきた。 「本当は嬉しいんだよ。あのアホ兄がやっと自分の気持ちに素直になったかって。なのに、余計なこと言っちゃう自分が本当に嫌だ……」  見るからに落ちこんでいる。宥めながら、ん?と思った。 「ていうか、素直になったって。気づいてたの?」  叶多は私に気があるような素振りを全く見せなかったのに。 「気づいてたに決まってんじゃん。ミコトだって分かってたよね?お兄ちゃんがユメちゃんのこと好きなのバレバレだったもんね?」  陽咲に問いかけられて、黙って食べていた実采が大きく頷く。 「だって兄ちゃん、ユメちゃんがいる時ちょっと機嫌良かった」  なんと。実采まで知っていたなんて。 「でも兄ちゃん素直じゃないから。見捨てないでやって」  実采がそんなおませなことを言うので、思わず笑ってしまった。何で笑うの、と実采がむくれて、慌てて謝る。この子だって真剣に叶多のことを想っているのだ。 「ミコトは、コウタに戻ってきてほしくない?」  カレーを口に運んだ実采に、陽咲が尋ねた。実采がモグモグしながら首を傾げる。 「あんたの大事な弟でしょうが」と陽咲。 「だってコウタうるさいんだもん」 「静かになって寂しいとか思わないの?」 「思わねーし」  悪態をつきながら、少し困っているようにも見える。 「ミコトくんも、カナタくんとおんなじかな?」  助け舟のつもりでそう声をかけた。 「素直じゃないだけかな?」  笑いかけると、実采はモジモジして黙ってしまった。否定しないのは、そういうことだろう。 「まったく、兄弟揃って面倒くさい奴らだな」  陽咲が呆れたようにため息をついた。  帰りは、ツナギを着た叶多が自転車を押しながら家まで送ってくれた。 「ヒナタに悪気はないんだ」 と、開口一番妹を庇ってから、叶多は私のことを質問攻めにした。転校した先での話を一通り訊いた後は、大学について、授業の内容から交友関係に至るまで詳細に知りたがった。千尋の話をしたら、いい友達だねと言ってくれた。  思い出話もした。叶多と同じ思い出を共有していることが確認できて、嬉しかった。  父親の記憶が正しかったことも証明された。『俺が愛をあげるから負けないで』と言ってくれた時のことを、叶多は恥ずかしそうに回想した。声変わりの最中でうまく声が出せなくて、伝えたいことがどんどん溜まっていって、一番伝えたいことだけを端的に言葉にしたらそうなったのだと、叶多は説明した。  その後はまた、今の私の話に戻った。叶多に興味を持ってもらえるのが嬉しくて、訊かれるままに話したけど、「どうして心理学部を選んだの?」という問いにだけは、本当のことを打ち明けることができなかった。「面白そうだと思ったから」という作り物の答えを返した私に、叶多は「そっか」とだけ言って、それ以上追及しなかった。 「みんなどうやってやりたいことを見つけるんだろうと思って」  追及しない代わりに叶多はそんな疑問を口にした。 「アラタの授業参観に行ったら、教室に将来の夢っていう作文が貼り出されててさ、アラタの奴、中学出たら働いて俺とヒナタに恩返しするって書いてた」  笑っているような息遣いに、笑うことで他の感情を抑えているのが分かった。 「それでベンチに座りこんでたの?」  私の父親に目撃されていたことを知って、叶多は「みっともないとこ見られちゃったな」と苦笑いした。 「授業参観の後に林間学校の説明会があったんだけど、アラタが三日間もいないの大変だなって思っちゃって。俺が頼りすぎてるからアラタがあんなに気を遣うようになったのかなとか考えて、凹んだ」  気持ちを整理してから帰りたかったんだ、と付け足した。 「アラタくん、やりたいこと見つけられるといいね」  気の利いた言葉が見つからなくて、ただ叶多の想いをなぞった。  叶多は、そんな私の手を取って、反対側の手で押す自転車のペダルに足をぶつけながら、ゆっくりと歩いた。
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