叶多の叔母さん

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叶多の叔母さん

 土曜日は、叶多の叔母さんが幸多を連れて家に来るという。叔母さんはすっかり幸多を引き取る気でいて、幸多の荷物を回収するのが目的らしい。幸多を連れてくるのは、叶多がそうするよう頼んだからだそうだ。  叶多は、初めは幸多を手放すことを拒否していたけど、今は幸多自身にどうしたいか決めさせるつもりみたいだと、陽咲が苦々しげに教えてくれた。  そんな場に部外者の私がいたら邪魔なだけだろうと思ったけど、陽咲にいてほしいと懇願された。叶多は叔母さんのことを嫌っていて、会う度に突っかかってしまうのらしく、私がいれば少しは落ち着いて話ができるかもしれないから、ということだった。叶多も、私に来るなとは言わなかった。  それで、余計な口は出すまいと心に誓って、昼過ぎに叶多の家に行った。  陽咲と実采に出迎えられながら家に上がった時、二階から「俺に構ってないでさっさとユメさんのところに行ったらいいだろ!」と新が怒鳴っているのが聞こえた。 「お兄ちゃんがしつこいからキレてる」  少し驚いた私に、陽咲がいつものことのように説明した。叶多は、粘るのかと思いきや、あっさりと切り上げて降りてきた。 「おはよう」  新の態度を引きずる様子もなく、穏やかな表情だ。  実采にTシャツの裾を引っ張られて軽く屈むと、 「兄ちゃんね、コウタのもの全部、鞄に入れちゃったの」 と耳打ちしてきた。 「まだコウタを叔母さんの家にやるって決めたわけじゃないよ」  聞こえたようで、叶多が実采の頭に手を置いて諭すように言う。 「でも、コウタがそっちの方が幸せなんだったら、その方がいいだろ?」  叶多に問われて、実采が助けを求めるように私を見上げてきた。 「ちょっと。ミコト困ってんじゃん」  陽咲が実采の肩を抱き寄せて声を尖らせる。  台所に行くと、ダイニングテーブルの実采の席に食べかけのお皿が残っていた。ミートスパゲッティのようだ。 「ごめん、食事中だったんだね」  実采の食事を邪魔してしまったことに気づいて謝ると、陽咲は苦笑いして手を振った。 「こいつがダラダラ食べてんのが悪いんだよ。もう、早く食べないと叔母ちゃん来ちゃうよ」  椅子に座らされて、実采はうんざりしたようにため息をついた。 「ミコトくん、ミートスパゲッティは好きじゃないの?」  可哀想になって声をかける。 「好きじゃないっていうか、カレー以外の時は絶対文句言うの、こいつ」と陽咲。 「そんなことねーし。姉ちゃんはいっつもこれなんだよ」  実采が負けじと言い返す。 「じゃあ何なら文句ないわけ?」  陽咲に訊かれて、「唐揚げ」と実采が即答する。 「唐揚げは油が跳ねて怖いから作らないって言ってるでしょ」  ピシャリと撥ねつけられて、実采がむくれる。 「今度作ってあげようか?」  私がそう言ったら、実采はパッと表情を明るくした。可愛い。 「唐揚げだったら俺がまた作ってやるよ」  奥に引っこんでいた叶多が台所にやって来て、実采の頭をぐりぐり撫でた。 「兄ちゃんのは硬いもん」 「あの時はちょっと失敗しただけだよ」 「いつもじゃん」と憎まれ口を叩いた実采は、叶多を見て、「あっ」と声をあげた。 「どっか行くの?」  叶多の尻ポケットにお財布が入っているのに気づいたようだ。 「目ざといな。ケーキ屋、一緒に行く?」 「行く!チョコレートのがいい」 「はいはい。コウタが好きなイチゴのケーキも買ってこような。行くんだったらそれ食べちゃいな」  叶多に言われて、実采はあっという間にパスタを平らげた。私も誘われたけど断った。ケーキ屋にはいい思い出がない。 「お兄ちゃんだって、コウタに戻ってきてほしいくせに」  叶多たちが出かけた後、陽咲がボソッと呟いた。  呼び鈴が鳴ったのは、帰ってきた叶多とお皿を洗っている時だった。お茶の間で掃除機をかけていた陽咲が玄関へとすっ飛んでいく。叶多も手についた泡をもどかしそうに洗い落としている。  ガラス戸が開く音の後、すぐにパタパタパタと廊下を走る足音がして、台所に幸多が顔を出した。 「おう。二週間ぶりだな、コウタ。元気にしてたか」  叶多が手を拭きながら声をかけると、幸多はみるみるうちに顔を歪ませて、その場で声をあげて泣き出した。 「あらあら、うちでは泣かなかったのに」  少し遅れて現れた女性が抱き上げようとしたけど、幸多はその手を振り切って、叶多に体当たりをするみたいに抱きついた。 「どうした、コウタ」  真っ赤な顔で泣きわめいている幸多を抱き上げて、叶多が優しく話しかける。 「やだぁ!やだぁぁ!!」  幸多は、叶多の首にしがみついて、泣きじゃくりながら叫んだ。 「叔母ちゃんちは、やだぁぁ!!」 「コウタくんが嫌がることなんて何もしてないでしょう」  女性が困ったように眉を下げた。確かに目元が幸多とよく似ている。 「僕、いい子にするからぁ。ミコト兄ちゃん怒らせないからぁ。だからぁ、僕のこと捨てないで!」 「誰がコウタのこと悪い子だなんて言ったんだよ」  叶多は苦しそうに上下する幸多の背中を優しく撫でた。 「叔母さんはコウタのこと可愛がってくれるだろ。向こうにいた方が美味しいもんいっぱい食べられるし、新しいおもちゃだって買ってもらったんだろ?」  幸多が何度も首を横に振る。 「やだぁ!僕、あっちだと、一人ぼっちだもん!」 「そんなことないだろ。リョウコちゃんだってヒデキくんだっているじゃんか」 「やだぁ!ここがいい!」 「もういいでしょ、お兄ちゃん」  陽咲が、見ていられないというように口を挟む。 「叔母ちゃんも、コウタはここじゃないとダメだって分かったでしょ。これ見ても連れて帰るって言うの?」 「そんな言い方。まるで私が悪いみたいじゃない」  女性はムッとしたように陽咲に言い返した後、私の方を見た。 「お友達?」  叶多と陽咲を交互に見て、そう尋ねている。 「まあ、とりあえず座ってください」  叶多は答えずに椅子を勧めた。 「コウタ、分かったからもう泣くな。もう叔母さんのとこに行かなくていいから」  首に抱きついたままの幸多に、背中をポンポン叩いて言った。幸多がしゃくりあげながら「本当?」と確認する。 「勝手に決めないでちょうだい」  女性は、ため息をつきながら椅子に座って、陽咲が用意した冷たいお茶を一口飲んだ。  床に降ろされて二階の新のところに行っているように言われた幸多は、必死に叶多にしがみついていたけど、実采に「行こ」と手を引かれると、泣きじゃくりながらも意外とすんなり従って、二人で台所を出ていった。 「電話で話した時は、叔母さんにコウタをお願いしようと思ってました」  女性の向かいに腰を下ろして、叶多はそう切り出した。 「そうよね。その方がいいって、あなたも納得したわよね」  女性が、押しつけるような口調で同意する。 「コウタくんだけだったらって、主人も言ってくれてるのよ」 「叔母さん、コウタに何か言いましたか?」  女性の言葉に被せるようにして尋ねた叶多の声は、ゾッとするほど冷たかった。 「俺、至らないところはたくさんあったかもしれないけど、コウタのこと大事に育ててきました。そのコウタが、自分が悪い子だから捨てられたなんて、誰かに吹きこまれたんじゃなきゃ考えるわけがない」 「私何も言ってないわよ」  女性が声を高くして否定する。 「何が何でも私が悪いことにしたいのね、あなたって」 「今まで叔母さんが俺たちにしてきたことを考えると、仕方ないと思いますけど」  叶多が全身に怒りをまとっているのが、横で見ていても分かった。 「俺、叔母さんがコウタに母さんの悪口吹きこんだの、許してないですから。三歳の子供を置いて温泉に行くなんて母親としてありえないとか、何を考えて五人も子供を作ったんだとか、他にもいろいろ言ったそうですね」 「そんなことーー」  女性に反論を許さず、叶多は語気を強めて続けた。 「ヒナタのバイトだって、よく確認もせずにサインして。ヒナタにいい顔をすれば、味方になってもらえると思いましたか?そんなにコウタが欲しいんですか?」 「お兄ちゃん、叔母ちゃんはあたしのためにーー」 「ヒナタは黙ってろ」  怒鳴りつけられて、陽咲が私の横で肩をビクつかせた。 「叔母さんはコウタが可愛いんでしょうね。コウタはヒデキくんが小さい頃にそっくりだし、素直だ。でも、アラタやミコトまで引き取る余裕はなくて、それで勝手にアラタたちを施設に預けようとしたこともありましたね。後見人だからって、俺たちの気持ちを蔑ろにするにも程がある」 「こっちだって好きで後見人になったわけじゃないわよ」  叶多よりも強い口調で、女性が言い返した。 「いきなり五人の子供の面倒を見ることになったのよ。それでも私は一生懸命責任を果たそうとしたわ。それなのにあなたは、文句ばかりで感謝の言葉一つないんだから」 「感謝?何を感謝しろっていうんですか?俺は十八歳になるのが待ち遠しかった。早く叔母さんの監視下から抜け出したかったから」 「じゃあいいじゃないの。もう抜け出したんだから。好き好んでヒナタちゃんたちのことも引き受けちゃって。あなたみたいな子供に後見人が務まるとは思えないけど」 「コウタはまだ叔母さんが後見人のままじゃないか。コウタを返せよ。もう俺たちのことは放っといてくれよ!」  叶多の声は懇願にも似た響きを帯びていて、女性は発しようとした言葉を、お茶とともに飲みこんだようだった。テーブルの上にコップを置いた後、静かに口を開いた。 「あなたって、兄さんにそっくりね」  その声はいくらか落ち着いていた。それだけでなく、少しだけ温かみのあるものに感じられた。 「あなたのお父さんも、そうやって自分の主張を絶対に曲げなくて、しょっちゅう喧嘩したわ」  女性の言葉に、叶多の硬直した身体から力が抜けていくのが見えた。 「ごめん」  叶多はテーブルの上で握りしめていた手を、膝の上に移した。 「こんなひどいこと言うつもりじゃなかった」  そう謝って、小さく頭を下げた。それからお茶をゆっくりと口の中に含み、喉仏を上下させて、深く息を吐いた。 「叔母さんは俺たちのことを心配してくれてるんだって、分かってる。分かってるからコウタを託そうと思ったんだ。だけど、」  叶多はちらりとこちらに視線をよこした。 「思い出したんだ、俺。ヒナタの隣にいる子ね、俺の中学の時の同級生で、ヒナタたちに対してずっと一方的だった俺に、受け取ることを教えてくれた。それで、思い出したんだ。父さんと母さんはいつもお互いのことを尊重し合ってて、俺はそれを見て育った。そんな両親が好きだったし、すごく憧れてた」  叶多は今、まっすぐに叔母と向き合っていた。 「だから俺は、コウタたちに伝えたい。父さんと母さんがどんな人で、俺たちのことをどういう風に育てようとしてたのか。父さんたちの想いをちゃんと繋げたい。だって、そうじゃないと俺がいる意味がないでしょ」  鼻を啜る音が聞こえた。横を見ると陽咲が顔を歪めていて、その背中に手を当てた。 「でも、これは俺のエゴなのかもしれないとも思う。叔母さんに育ててもらった方がコウタは幸せなのかもしれないって思う気持ちもあって、俺、どうしたらいいのかーー」 「兄さんは、ホノカさんに会って変わったわ」  迷いを口にする叶多を遮って、女性が言った。 「あなたが生まれて数ヶ月くらいの時に、私、あなたに会いにいったのよ。まだこの家を建てる前で、狭いアパートの部屋だったけど、兄さんはとても幸せそうで、この人こんな顔して笑うんだって、初めて知った」  女性は優しい眼差しで叶多のことを見つめた。 「あなたのことを抱かせてもらったわ。赤ちゃんを抱っこするのなんて初めてだったから、おっかなびっくりよ。まだ首もちゃんとは座ってなくて、簡単に壊れちゃいそうで。そんな私の気も知らずに、あなたは笑いかけてきたの。本当に可愛かった」  女性は少しの間目を閉じて、その時のことを思い出しているようだった。 「私、あなたの中にまだあの赤ちゃんを見てるのね。しなくていい苦労まで背負いこんでるように思えて、つい手を出したくなったの。でも、余計なお節介だったみたいね」  叶多は、首を縦に振ることも横に振ることもせずに、言葉を探すように目を泳がせている。彼の言葉を待つことなく、女性は続けた。 「コウタくんのこと、目一杯可愛がったのに、あんなに泣かれたら力抜けちゃうわ。あなたが面倒を見ると言うならそうしなさい。ただし、大変になったらいつでも私に相談すること。いいわね」 「え、」  声をあげたのは陽咲だった。 「コウタ返してくれるの?」 「人攫いみたいに言わないでちょうだい。私はただ、あなたたちのことを想って引き取ろうとしただけよ」  陽咲に向かってそう言い返した女性は、横に立つ私の方に視線を移した。 「あなた、お名前は何とおっしゃるの?」  不意を突かれて反応が少し遅れた。 「あ、岸本優芽です。すみません、お邪魔しています」  落ち着きなく挨拶する。 「ユメさんね。カナタとは付き合ってるの?」  肯定していいのか分からなくて叶多の方を見ると、彼は微かに顎を引いた。 「あ、はい……。お付き合いをさせていただいております」  妙にかしこまった言い方になってしまった。 「そう。この人はものすごく頑固だから、苦労するわよ」  真顔で忠告されて、笑うべきか迷いながら、 「し、知っています」 と、我ながら蚊の鳴くような声で返した。ふ、と叶多が笑ったのが分かった。 「それならいいわ。カナタのことをよろしくね」  叶多の叔母さんはそう言って、私に微笑みかけてきた。  私は知っていた。叶多の中にはまだ、叔母に対する根強いわだかまりがあることを。それでも。 「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」  差し出がましいのは承知の上で、深く頭を下げた。  叶多の叔母さんが今までずっと叶多たちのことを守ろうとしてくれたのは、紛れもない事実だろうと思った。そして、きっとこれからもそうであり続けるのだろうと思ったから、私は感謝を伝えずにいられなかった。 「ああ、疲れたぁ」  叔母を玄関まで見送った後、叶多はお茶の間の畳の上に倒れこんで、大の字に寝そべった。幸多と実采に乗っかられて、「ぐえ、重てぇ」と悲鳴をあげている。かと思うと、「コウタ、おかえり!」と、実采ごと幸多の身体を抱きしめた。 「兄ちゃん、遊びに行こ」  さっきあれだけ大泣きしていたのに、幸多はすっかり平常運転だ。 「今から?兄ちゃんもうクタクタだよ。コウタも疲れたろ。明日にしようよ。どこ行きたい?」 「動物園!」  幸多が即答する。 「コウタばっかズルい。俺まだ水族館連れてってもらってないのに」  実采が口を尖らせる。 「水族館はまた今度な。ミコトは食べるもの決めてよ。何食べたい?」  叶多は宥めるように実采の坊主頭をぐりぐり撫でた。 「唐揚げ!ユメちゃんの唐揚げ。明日のお弁当!」 「そりゃまた大変な……」 「いいよ。作ってくるね」  私が屈みこんで請け合ったら、実采は機嫌を直したようだった。 「アラタも何かわがまま言いなよ。何したい?」  台所で水を飲んでいる新に叶多が声をかける。叔母から髪が伸びすぎていると注意されていた。確かに耳が完全に隠れていて今の季節には暑そうだ。 「いいよ、俺は」 「遠慮するなって。何でも言ったらいいんだよ」 「じゃあ、」  新が切り出したから、叶多は意外そうに目を丸くした。 「動物園は、一人で回りたい」  不安げに発された新の望みに、叶多は何かを言い返そうとしたけど、それより先に陽咲が割りこんだ。 「いいよ。アラタだってたまにはゆっくり満喫したいよね」  陽咲に説き伏せられて叶多が渋々承諾すると、新の顔に、困ったような申し訳なさそうな感情とともに、微かに嬉しそうな色が浮かんだように見えた。 「兄ちゃん、ケーキ!」  実采が思い出したように叫ぶ。 「おお、ケーキね。叔母さんに出すのすっかり忘れてたな。みんなで食べるか」 「うん!」  実采と幸多が元気よく返事する。起き上がって台所に行った叶多が、出ていこうとする新を呼び止めた。 「アラタの分も買ってきたよ。食べるだろ?」  当然一緒に食べるものだと信じ切っているような叶多の顔が、新に断られて寂しげに沈む。  弟たちに急かされながら、叶多はしばらくの間、二階に上がっていく新の足音を追うみたいに、階段の方を見つめていた。
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