動物園

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動物園

 私が迂闊だったのだと思う。  家に帰って、動物園に持っていくお弁当用に唐揚げを作って、父親が食べたいと言うからいくつかあげて、それでも十分な量を作ったはずだった。それなのに、翌朝起きたらタッパーごと冷蔵庫から消えていた。 「え、まさか全部食べたの?」  三十個以上は残っていたはずだった。明日持っていくから食べないでね、と確かに念を押したはずだった。 「ああ?」  先に起きていた父親が、ソファーですっとぼけている。 「今日持っていくって言ったよね。何で無いの?」  パニックだった。唐揚げだけじゃなくて、お弁当用に作ってあったポテトサラダも、卵焼きも、タコさんウィンナーも、朝炊けるようにセットしたごはんも、ことごとく消えている。 「ああ、ヤマダさんたちにあげた。美味い美味いってみんな喜んでたぞぉ」 「誰、ヤマダさんって」 「ヤマダさんは、あれだぁ、ジョギングん時に会う人でよぉ」  父親がジョギングをしているなんて初耳だったけど、そう言われればたまに洗濯カゴにビチョビチョのTシャツが入っている。 「何で食べ物なんかあげるわけ?走ってる時にもらったって向こうも迷惑でしょ」 「いやいや、ヤマダさんたちは走ってねえよぉ」  頭が痛くなってきた。 「じゃあ誰なのヤマダさんって」 「だからぁ、住んでんだよぉ、公園によぉ」  ホームレスか。 「信じらんない。お父さんが自分のものあげるのは勝手だけど、何で人が作ったものを持っていくの?」 「お、怒るなよぉ。だって可哀想じゃんよぅ。食うもんなくてよぉ」 「じゃあわたしは可哀想じゃないわけ?」 「だって、ユメは金持ってんだろぉ。また作りゃあいいじゃねぇか」 「そういう問題じゃないよ!」  怒鳴ったところで何の解決にもならないのは分かっていた。こんなところで時間を潰すくらいなら、コンビニにでも走っていって出来合いのものを買ってくる方が遥かにマシだということも。でも、どうしても怒りが収まらなかった。 「お父さんにはわたしのことを大事だって思う気持ちがないわけ?他に困っている人がいたら、娘のことはどうでもよくなるわけ?」 「だ、大事だよぉ、そりゃあ、ユメのことは」 「大事だっていうのはさ、目の前にいない時も、他の人といる時も、その人のことを想うってことだよ。お父さんは、人を大事にすることができないんだよ。お母さんのことも全然大事にしてなかったじゃん!」 「そんなことねえよぉ。俺ぇ、マサミのことも大事にしてたよぉ」 「じゃあ何でお母さんを傷つけるようなことばっかりしたの?お父さんがひどいことばっかりするから、お母さんは病気になったんだよ。お父さんがお母さんを殺したんだよ!」  いくらなんでも言いすぎた、と思った。でも、今さら撤回することはできなかった。  父親はソファーから立ち上がって、台所にいる私の方へ身を乗り出してきた。 「愛してたよぉ。俺は愛してたんだよぉ。マサミを傷つけるつもりなんかなかったんだよぉ」  それを聞いてますます腹が立った。 「愛してたとか軽々しく言わないで」  父親に人を愛せるわけがないと思った。 「そんなこと言うなよぉ。ユメのことだって愛してるよぉ」 「じゃあ、ヤマダさんのことも愛してるんだね。ていうか、会う人会う人全員、愛してるって言うんでしょ。そんなの愛じゃないから。お父さんは結局、自分のことしか好きじゃないんだよ」 「や、野郎は愛さねえよぉ」  脱力した。話が通じなさすぎる。 「もういい。わたしここ出ていくから。お父さんがどこで何しようがもう知らない。この家も売れば?レンヤくんのためにお金が必要なんでしょ?お母さんとの思い出が大事?自分は何にも失わないで、人のものばっかり奪って、都合が良すぎるよ!」 「い、家は売らねえって言ってるだろぉ」  私が出ていくことについてはどうでもいいみたいだ。  自分の部屋に駆け上がって、スーツケースを広げた時、少し冷静になった。出ていくと言ったものの、大学があるからおばあちゃんの家に帰るわけにもいかない。迷いながら、昨日聞いたばかりの叶多の番号にかけた。 『そんなの全然気にしないで』  唐揚げのことをまず謝ると、叶多は思った通りのリアクションを返してきた。 『大丈夫?お父さんと喧嘩した?』  気遣うように訊いてくる。 「もうお父さんと暮らすの無理……」  どうしようもなくて、そう漏らした。 『ユメちゃん、今、家?』  そう問われて肯定した。電話の向こうで幸多のはしゃぐ声が聞こえている。 『じゃあ迎えにいくよ。お父さんに挨拶したいし』 「え、でも……」 『大丈夫。すぐ行くから待ってて』  そんな優しい声とともに電話が切れた。申し訳ない気持ちが胸の中に広がっていく。叶多の負担にはなりたくないのに。  荷造りをしていると、下でガタゴトと物音がした。かと思うと、玄関のドアが開け閉めされる音がした。窓から見下ろすと、父親がガニ股で歩いていくのが見えた。方角的に叶多とすれ違うことはないだろう。やっぱり父親は私のことなんでどうでもいいのだな、と悲しい気持ちになった。  インターホンが鳴ったのは、一階に降りて顔を洗っている時だった。出迎えた私に微笑みかけてきた叶多は、自転車を飛ばしてきたらしく、汗だくで息を切らしている。 「大変だったね」  父親が出かけてしまったことを告げて謝る私に、叶多は思いやりの言葉をかけてくれた。  じんわりと目頭が熱くなって、彼の手を取って家の中に引き入れた。叶多の後ろでゆっくりとドアが閉まる。その胸に顔をうずめた。彼の上下する胸の中で、心臓がドクドクと鼓動を打っている。 「俺、汗臭いでしょ」  叶多が私の頭に手を置いて言う。おでこを押しつけるようにして首を横に振った。 「カナタくんの匂い、好き」  抱きしめてくれることを期待したけど、叶多は私の頭から手を降ろしてしまった。 「そんなこと言われたら俺、どうしようもなくなるよ」  引かれたかと思って顔を上げると、頬を掴まれた。叶多が顔を寄せてくる。 「え?なっ……」  唇に確かな感触があった。 「こないだちゃんとできなかったから」  至近距離で見つめられて、もっと求めている自分に気づく。 「お、おお弁当、何とかしないと」 「ヒナタに頼んだから大丈夫だよ」 「で、でも、コウタくんたち待ってるでしょ」 「そうだね」  叶多は小さく息をついて、私の頰から手を離した。 「どうする?しばらく俺んち来る?荷物持ってく?」 「あ、う、うん、ぅ上から持ってくる」  急にキスされたせいで、我ながら動揺丸出しの声だ。叶多に笑われて、ますます顔が熱くなる。 「上がってもいい?荷物持つよ」 「あ、おね、お願い」  頭の中が真っ白だ。 「な、何かもう、カナタくんのせいで、全部忘れた」 「あはは、ごめんね」  ギクシャクと思うように動かない足で何とか二階に上がった時、父親の部屋が目に入った。恵梨香と行為に及んでいた光景を思い出して、スンと冷静になった。 「さすがに部屋に入るのはやめとくね?」  後ろで叶多が確認するように言った。 「別にいいのに」  遠慮しているのかと思ってそう返したら、 「ユメちゃんさ、俺のこと男だって分かってる?」 と、当たり前のことを訊いてきた。振り向くと、立ち止まって苦笑いを浮かべている。 「うん。そりゃ、そうでしょ」 「そうでしょ、じゃなくてさ」  苦笑いを引っこめて、彼は真剣な表情になった。 「俺、ユメちゃんと、キスの先もしたいって思ってるよ」 「え?」  びっくりして訊き返した私に、叶多は慌てたように両手を振った。 「今はしないよ。今はまだしないけどさ、ユメちゃんもちょっとは弁えてくれないと困るっていう話」  あの汚らわしく思えた行為が、急に生々しく自分の身に迫ってきた気がして、叶多の前から逃げ出したくなった。 「わたし、カナタくんとそういうことするのは……、無理かも」  逃げ出さない代わりに、声に出してそう呟いていた。 「そっか」  叶多は、にっこりと受け止めてくれた。 「変なこと言ってごめん。忘れて」  あっさりと撤回して、何もなかったみたいにその話を終わらせた。  大学の教科書も詰めたら結構な荷物になった。叶多は、スーツケースに入りきらなかった分を自転車のカゴに載せて、そこにも載せきれなかった分を肩に担いで、自転車を押して歩いた。家に向かいながら、彼は仕事のこととか一緒に働いている人の話をしてくれたけど、私がスーツケースを引いているからか、何となく私から距離を取って歩いているように感じた。  梅雨空が、どんよりと分厚い雲を浮かべていた。  案の定、実采は私が唐揚げを持ってこなかったことを知ると怒った。約束していたのだから、実采が腹を立てるのは当然だ。父親に対してまたムクムクと怒りが込みあげてくる。  パジャマのままの実采は、動物園に行かないとか、陽咲が買ってきた冷凍の唐揚げなんか食べないとか、ブツブツ文句を言っていたけど、私が当面ここで過ごすと知って、何とか機嫌を直してくれたようだった。  幸多の方は、兄の不機嫌などどこ吹く風というようにハイテンションで、背中に小さなリュックサックを背負い、首から水筒を提げて、すっかり準備万端だ。左右で違う靴下を履いているようなのが愛らしい。 「コウタくんは動物が好きなの?」  台所とお茶の間を行ったり来たりして陽咲に鬱陶しがられている幸多にそう問いかけると、幸多は肯定して、「アラタ兄ちゃんも好きだよ」と教えてくれた。  それについて詳しく訊きたかったけど、チンと音を立てた電子レンジに気を取られているうちに、幸多はどこかへ行ってしまった。 「ヒナタ、カメラどこにあるか知らない?」  シャワーを浴びてきた叶多が、タオルで頭を拭きながら台所に入ってきて尋ねた。卵焼きを焼いている陽咲が、今度はお前かというようにうんざりした顔をする。 「知らないよ。あたしカメラなんか使わないし」 「そうだよね。どこいったかな。ヒナタは行かないんでしょ?俺のケータイ画質悪いしな……」 「え?ヒナちゃん行かないの?」  驚いて尋ねる。てっきり兄弟全員で行くのかと思っていた。 「姉ちゃん行かないの?何で?何で?」  叶多の後をついてきた実采も驚いている。 「あれ?ミコトに言ってなかったっけか。来週期末テストでさ。さすがに勉強しないと」  後半は私に向けた言葉のようだ。 「そうなんだ。残念だね、ミコトくん」 「姉ちゃんも行かなきゃダメだよ」  また機嫌が悪くなりそうな実采の側に、幸多が駆け寄った。 「姉ちゃんはお勉強だから行けないの。我慢」  弟に言い聞かされて、さすがの実采も何も言えなくなっている。 「後で何の動物見たか教えて。ね?」  綺麗な卵焼きを完成させた陽咲が、実采の坊主頭を撫でた。実采は不承不承といった様子で小さく頷いて、不意に何か良いことを思いついたみたいに目を輝かせた。 「今日の夜みんなで一緒に寝よ。ユメちゃんも」 「それはダメだ」  叶多が必要以上に強い口調で却下して、実采がビクッとなる。叶多が、しまったという顔をして、すぐに実采の方に屈みこんだ。 「俺は一緒に寝るから。な。それでいいだろ。ユメちゃんには、母さんたちの部屋を使ってもらおうな」  優しい声でそう言い聞かせたけど、時既に遅しで、実采は走って台所を出ていってしまった。 「あー、もう。馬鹿」  陽咲に怒られている。 「何想像したわけ?お兄ちゃんの変態」 「変……、いや違、だって一緒に寝るわけにはいかないだろ」  妹に責められて叶多はタジタジだ。  実采はほどなくして新と一緒に戻ってきた。手にカメラを持っていて、機嫌が直っている。 「あ、カメラあった。どこにあったの?」  叶多が新に尋ねる。 「林間学校の荷物に入れてて」 「ああ、貸したな、そういや」 「うん。じゃあ、俺行くね」 「え?もう行くのか?」  叶多と一緒に私も壁にかかっている時計を見上げた。八時半だ。 「確かにもうそんな時間だな」  叶多が納得したように呟いて、尻ポケットから財布を取り出す。 「三千円あれば足りる?」 「いいよ、小学生はタダで入れるし」 「でも昼ごはん食べるだろ」 「いいって。お小遣いあるし、俺がわがままで一人で行くって言ってるんだから」 「アラタ」  叶多が新の腕を掴んで引き留めた。 「遠慮ばっかりすんな。ほら」  千円札を何枚か押しつけている。 「ありがとう」  新は素直に受け取って、先に出かけていった。 「早く行こうよぅ」  幸多がピョンピョンと飛び跳ねている。 「分かった分かった。コウタは靴下探そうな。ミコトは着替えて、雨降るかもしれないからレインコート……」  叶多がバタバタと準備を始めた。 「そっか、もう期末テストの時期か」  一緒におにぎりを握る陽咲に話しかけた。 「忙しいのにお弁当作らせちゃってごめんね」 「ううん。あのややこしいチビ達押しつけて、こっちこそごめんねだよ。お兄ちゃん、アラタにわがまま言わせようキャンペーンしててさ。あたしにもわがまま言えって、テスト近いんだったら行かなくてもいいよって言うから」  話しながらも、陽咲は手際良くおにぎりをお皿に並べていく。 「そっか。だったらカナタくんも何かわがまま言わないとだね」  そう言ったら、陽咲はいたずらっぽく笑った。 「お兄ちゃんは、あたしたちよりもユメちゃんに聞いてほしいんじゃないの?」  返しに困っていると、叶多が子供用のリュックサックを手に戻ってきて、どうかした?と目で問いかけてきた。  降り出しそうな空模様にもかかわらず、動物園は賑わっていた。親に連れられてはしゃいでいる子供たちを見て、実采や幸多が寂しい気持ちにならないことを願った。叶多も似たようなことを思ったのか、「アラタは一人で大丈夫かな」と呟いた。 「コウタ、あっち!ゾウがいるよ!」 「わあ、本当だ!行こ!」  私の心配をよそに、彼らは嬉しそうな声をあげて、駆け出していった。 「ああしてると仲良しな兄弟なんだけどねぇ」  弟たちの背中を目で追いながら、叶多が目を細める。  実采と幸多のそばに行くと、二人とも口をぽかんと開けてゾウを見上げていた。それが可愛くて叶多に教えようと思ったら、叶多も同じ顔をして象を見上げていて、ますますこの兄弟が愛おしくなった。  実采は、写真を撮ってもらう時以外はカメラを手放さなかった。カメラは少し年季の入った大きめのもので、実采が首から提げるには重そうだったから、叶多が途中で何度も持とうかと言ったけど、頑なに譲らなかった。本当に意思がしっかりしている子だなと、微笑ましく思った。  動物の写真を撮るのにひとしきり熱中していた実采は、一度だけ思いついたように私と叶多のことを撮ってくれた。写真に映るために身を寄せた時、叶多がわずかに身を引いた気がして、少しショックだった。  王道の動物をひと通り見て回った後、広場の芝生の上にレジャーシートを敷いてお弁当箱を広げた。朝ごはんを食べ損ねて空腹だったこともあって、陽咲の作った卵焼きが頬が落ちそうなほど美味しかった。  叶多たちと交代でお手洗いに行った帰りに、サル山のところで新を見つけた。声をかけずに通り過ぎようと思ったけど、変な人に絡まれているように見えて、慌てて駆け寄った。  ボロボロの服を身に纏ったボサボサの白髪頭の男が、新に向かって大きな身振りで何やら話している。父親の言っていたホームレスのことが頭をよぎった。 「アラタくん」  男の話を遮って新に声をかけた。新は私に気づいても反応が薄くて、絡まれて困っていたわけではないようだった。でも、だからといってこのまま立ち去るわけにはいかない。 「知り合いの方?」  男を指して新に問いかける。 「いえ。さっき会って、動物のことをいろいろと教えていただいていたところです」  新が丁寧に答えた。何の目的で新に近づいたのだろうと思って男の方を見ると、皺くちゃの顔で笑いかけられた。八十代くらいだろうか。身体つきがガッシリしているから、遠目からはもっと若く見えた。 「姉ちゃんは?坊ちゃんの知り合いかい」  のんびりした口調で尋ねてくる。 「兄の彼女です」  新がすぐに返した。 「姉ちゃんってわけかぁ」  男は顔中の皺をさらに深くした。 「なに、怪しいもんじゃあない。なぁんて言っても、こんな身なりじゃ怪しいやな。わしは、もともとここで飼育員やっとったもんでな。あのサルたちん中にゃあ、わしが育てたのもいるもんで、たまぁにこうして様子を見に来んのよ。したら、この子がえらぁく熱心に眺めとるからな、つい声かけちまったのさぁ」  ゆっくりと話す男の説明を聞いて、男の印象が薄汚い男から世話好きの老人へとシフトする。 「すみません、いろいろと教えてくださっていたんですね」  思いこみで強引に割って入ってしまったことを詫びた。 「いいってことよ。じゃあね、坊ちゃん」 「ありがとうございました」  去っていく老人に向かって新が頭を下げる。 「ごめんね、邪魔しちゃって」  新にも謝りながら、今頃になって足が震えてきて、サル山の柵を掴んだ。 「怖かったんですか?」  見抜かれてしまって、苦笑いを返す。 「アラタくんが変な人に絡まれてるのかと思っちゃって」 「そうだとしても別に……。僕なんか、兄ちゃんの弟だってだけなのに」  助けてもらう筋合いはない、と言いたげだった。 「そうだよね。アラタくん、わたしのこと覚えてないんだもんね」  柵から手を離して、新の方に向き直った。かつてと比べれば身長差がだいぶ縮まったけど、それでもまだ新の背丈は私よりも頭ひとつ分低い。 「わたしはね、アラタくんがちっちゃかった時のこと、よく覚えてるんだ。だから今でもアラタくんのことが可愛くて、放っとけないの。お節介でごめんね」  新はおずおずと顎を引いた。 「カナタくんも、アラタくんのことが可愛くて仕方ないって感じだね」  何とか新との会話を続けようと試みた。 「兄ちゃんは僕のこと、いつまでも子供のままだと思ってるから」  拗ねたような顔をしている。 「アラタくんは、大人扱いしてほしいんだ?」 「ていうか、もう僕に構わないでほしいです」 「カナタくんのことが鬱陶しい?」  立て続けに尋ねたら、新は困ったように俯いた。 「そうじゃないけど、ミコトとコウタで大変なのに、僕のことまで気にしてたら、兄ちゃんの身が持たないので」  やっと新の口から本音が聞けた気がした。 「アラタくん、昔から良い子だったよね」  私の言葉に、新はキョトンとした顔でこちらを見た。 「わたしね、五年くらい前、アラタくんの家によく遊びに行かせてもらってたんだ。アラタくん、今のコウタくんよりも小さかったのに、弟が二人もいるから、お母さんに甘えるの我慢してて」  叶多のお母さんはそんな新のことを、ママの大事な大事なアラタちゃんと歌うように言って、抱きしめていたものだった。 「その代わり、カナタくんにはいっつもベッタリだった。カナタくんが何をするのもついていって真似して。カナタくんの方も、アラタくんのことものすごく可愛がってさ。アラタが嬉しかったら俺も嬉しいって言って、何でもあげちゃうの」  ひとりっ子だった私にはそれがとても羨ましかった。そんな感情を持てることも、向けられることも。 「兄ちゃんはいつも一方的なんだ」  新がぽつりと呟いた。 「思い出した。うちに遊びに来てたお姉さんがいたの。ユメちゃんって、確かに呼んでた気がする」  私を見上げて、新は続けた。 「僕だって、兄ちゃんのために何かしたげたい。そのことが兄ちゃんには全然分かってないんだ。兄ちゃんは僕たちのために色んなこと諦めてんのに、わがまま言えって言われたって、そんなの……」  つらそうに眉根を寄せて、言葉を切った。 「カナタくんが我慢してるから、アラタくんも我慢しなきゃって思った?」  そう尋ねたら、新は小さく頷いた。 「だけど兄ちゃん、ユメちゃんといると嬉しそうで、それはそれで、何か分かんないけどムカついた。僕、ユメちゃんが家に来るのも、本当は嫌だった。うちと関係ないくせに引っかきまわすだけの人だって思ってたから」 「ごめん。アラタくんのおうちなのに」  慌てて謝った。  部外者が家に入り浸る嫌悪感を、私も知っている。妊娠した恵梨香が、彼女の母親に家を追い出された後、うちで暮らしていた時期があった。自分のテリトリーが侵されたような気がして、苦痛でたまらなかった。新に同じ思いをさせてしまっていたなんて。 「いや、もう平気なんで。兄ちゃんのそばにいてやってください」  新はそう言って頭を下げてきた。  この子も昔から変わらずに叶多のことが大好きで、その表現の仕方が変化しただけなのだと分かった。 「一方的に感じるかもしれないけど、」  そう切り出したら、新は顔を上げた。 「カナタくんだってアラタくんに助けられてること、たくさんあると思うよ」  私の言葉に、新が首を傾げる。 「カナタくん言ってたよ。授業参観の時にアラタくんが林間学校に行く話を聞いて、アラタくんが三日間もいないの大変だなって思って、そう思っちゃったことに立ち上がれなくなるくらい落ちこんだって。自分がこんなんだからアラタくんに気を遣わせちゃってるのかなって反省したって。カナタくんは、アラタ、アラタって、わたしと話しててもそればっかりだよ」  新の眉間の皺がゆっくりと溶けていった。 「馬鹿だな、兄ちゃん」  新は少しだけ笑って、そう呟いた。 「アラタくんが良い子だから、ついつい頼りすぎちゃうって」 「そんなの、兄弟なんだから……」  新はそこで言葉を切った。それで私も指摘せずに頷いた。叶多と新の間にあるものは決して一方的なものではないと、自分でちゃんと気づいたはずだと思ったから。 「だからね、アラタくん。そんなに遠慮しなくてもいいんじゃないかな。迷惑かけるかもなんて気にしないで、アラタくんがやりたいことを見つけたらいいんだよ」  思いやるのと遠慮は紙一重で、だから大事な人にこそ言葉が必要なのだろう。自分にそれができているかは棚に置いて、そう思った。  新はサル山の方へと目を向けた。何頭ものサルが密集して、あるいは一頭だけ離れて、思い思いのことをしている。 「やりたいこととかは、まだ分からないけど、」  自信なさげな消え入りそうな声で、新は言った。 「動物を見てるのは好きだ。ニホンザルとかは、上下関係がハッキリしてて、人間みたいにクヨクヨ悩んだりしないから、見てて安心する」  新がサルの動きを追うように首を動かすと、耳にかけた髪がパサッと落ちて耳を隠した。彼自身がたくさん悩んで疲れてしまったのかもしれない。 「確かに、動物見てると癒されるよね」  私も新と並んでサルたちを眺めた。サル山の中腹で毛繕いをしているのは親子だろうか。山の上の方では時折、キッキッと小競り合いが起きている。 「アラタくんは、人間と動物の違いって何だと思う?」  そんな問いを投げかけたのは、大学の心理学概論の講義での教授の言葉が耳に残っていたからだ。 「動物は喋らないし、感情も持ってないから、そこが違うと思う」  新はスラスラとそう答えた。教授が生徒から引き出した答えも、そのようなものだった。 「うん、わたしもそう思ってたんだけどね」  私の逆接に、新がこちらに視線をよこしたのが分かった。 「わたしね、大学で心理学っていって、人の心について勉強してるんだけど、そうするとよく人間と動物の共通点とか違いの話が出てくるんだ」  その教授の専門は比較心理学だ。それは、人間と動物の行動や認知機能を比較することで、人の心を理解しようとする学問である。 「それで、授業で先生が言ってたんだけどね、昔は動物には感情がないって思われてたけど、今は動物も感情を持ってることが分かってきてるんだって。人間ほど複雑じゃないだろうけど、動物も悩んだりするんだって」  だから動物をいじめてはいけませんよ、と教授は言った。 「じゃあ人間の何が動物と違うのかって話だけど、その先生の考えではね、他人の立場に立って考える能力なんじゃないかって。気を遣ったりするのって、動物にはできないんだろうね。だから、優しくて気遣い屋さんのアラタくんは、動物に惹かれるのかもしれないね。でもさ、」  それはきっと、悪いことばかりではなくて。 「相手の気持ちを知りたいって思ったり、その気持ちに寄り添って泣いたり笑ったりできるのって、わたしは素敵なことだと思うな、なんて」  何だか偉そうに喋ってしまった気がして、最後は冗談めかしてしまった。  新はサル山をじっと眺めていた。これ以上邪魔するのも悪いかと思って立ち去ろうとした時、彼は口を開いた。 「僕は時々、人間をやめたくなる」  小さく吐き出されたその呟きは、こちらの胸に重く響いた。 「人の気持ちとか、何にも考えたくなくなる」  耳を澄ませないと聞き取れないような小さな声で、新は続けた。 「隣のクラスでイジメがあるんだ。四年生までは僕も同じクラスだったんだけど、先生、何にも気付いてなくて、いじめてる子たちといじめられてる子を、また同じクラスにしちゃった」  唐突に始まった打ち明け話に、私は相槌を打つのが精一杯だった。 「僕、気づいてるのに、ずっと見ないふりしてる。先生に言ったりしたら、今よりもっとひどいことになりそうな気がして、そしたら兄ちゃんに迷惑かける気がして、何もできなくて……」  ぽつりと水滴が頰に当たった気がした。すぐに、ぽつぽつと腕にも感じて、雨が降ってきたのを知った。新は気にする様子もなく言葉を続けた。 「クラスが別になって、正直ホッとしたんだ。これでもう見なくて済むって。だけど、見えないとますます気になって。今もひどいことされてるのかなって、ずっと頭から離れなくて。そのいじめられてる子、前仲良かったんだ。お父さんとお母さんが死んだ後、一番仲良くしてくれた子なんだ」  鞄から折り畳み傘を取り出して差しかけた時、初めて雨に気づいたようで、新はそれっきり黙ってしまった。 「それは、つらいね」  情けないことに、それ以外にかける言葉を、私は持ち合わせていなかった。ただ新の隣に立っていることしかできなかった。 「何か鳴ったよ」  新に言われて鞄から携帯を取り出す。叶多が雨が降ってきたのを心配してメールしてきたのだった。 「ごめん、遅くなって。アラタくんに会って話してて」  電話して謝った。 『ああ、アラタお昼食べたって?お弁当残ってるけど』 「訊いてみる」  そんなやりとりをして電話を切った。訊くとお昼はまだだと言うので、新と一緒に叶多たちのところに戻った。戻る途中で、イジメのことを叶多に言わないでほしいと頼まれた。 「アラタ兄ちゃんだ!」  黄色いレインコートを着た幸多が、こちらに気づいて嬉しそうな声をあげる。青いレインコートを着た実采も一緒に駆け寄ってきた。 「アラタ兄ちゃん、ゾウ見た?あのね、鼻ブラブラーンってして、そしたら他のゾウもブラブラーンってして、お話してるみたいだった!」  幸多が手振りを交えて一生懸命に説明している。 「そっか。それはすごいな」  新の相槌に、幸多が満足げに大きく頷く。 「アラタ兄ちゃん、俺いっぱい写真撮った。後で一緒に見よ」  実采が幸多に負けじと話しかける。 「うん。後で見せて」  そんな短い返しに、実采も満足げだ。 「ユメちゃんと話してたのか」  叶多が新に傘を差しかけながら尋ねる。 「うん。俺が変な人に絡まれてると思ってユメちゃんが助けてくれた」 「絡まれたのか!?」 「ううん。わたしの勘違いだった」 「それなら良かったけど、ユメちゃんも無茶したらダメ……今ユメちゃんって言った!?」  新の呼び方の変化に気づいて驚いたようだ。 「ユメちゃんのこと思い出したから。それよりお弁当は?お腹空いた」 「ああ、うん。屋根があるところに行こうか」 「兄ちゃんたちまで来なくて良いよ。雨降ってきたけど、まだ動物見て回りたいでしょ?」  後半は実采と幸多に向けた言葉だ。 「ううん、アラタ兄ちゃんと一緒がいい!」  実采と幸多が口を揃えて言う。 「俺もアラタと一緒がいい」  叶多も彼らの口調を真似して言った。  アハハ、と新が声をあげて笑う。その弾けるような笑顔を見ながら、苦しんでいる新に何も言ってあげられなかった自分の非力さを、一人噛み締めていた。  午後は新も一緒に五人で回った。閉園時間まで過ごした後、叶多の家に帰って、陽咲が作ってくれた夕飯を食べた。幸多たちを追いかけまわしたりしたわけではないのに、倒れこみたいくらいヘトヘトで、叶多たちはすごいなと改めて思った。  お風呂に入って、用意してもらった二階の部屋で早々と寝ようとしていたら、泣きそうな顔をした陽咲がやってきた。 「数学がまったく分かりません」  胸に数IIの教科書を抱きしめている。  受験に使ったし、と甘く見たのが間違いだった。そういえば私は数学が大の苦手だった。 「ね。なんでここがプラスになるか分かんないでしょ?」 「本当だね……」  陽咲の部屋で、二人で途方に暮れた。サインとコサインが並ぶ数式を見ているだけで、意識が遠のきそうになる。 「お兄ちゃんは数学得意だったけど、一年生の時に高校辞めてるからなぁ」 「カナタくん数学得意だったんだ?」 「うん、いっつも満点だったし。あー、どうしよ。公式も覚えられる気がしない。咲いたコスモス、コスモス咲いた?」  懐かしい語呂合わせの呪文を唱えている。部屋のドアがそっと開いた。 「もうちょっと抑えて。起きちゃう」  叶多がドアの隙間から顔だけ出して口に人差し指を当てる。一緒に寝るという実采との約束から抜け出してきたようだ。 「あ、ごめん」  陽咲が素直に謝る。 「数学?」  叶多が覗きこんで尋ねた。 「そ。何でここがプラスになるのかって話」  陽咲の言葉に、近くまでやって来てさらに覗きこむ。 「ふーん、三角関数か」 「お兄ちゃん習ったことないでしょ」 「ないけど、面白そうだなと思ってたよ。あ、これ見ていい?」  床に打ち捨てられている数IIBの参考書を拾い上げて叶多が言った。陽咲が興味なさそうに頷くと、私たちから少し離れたところに腰を下ろして、参考書を開いた。 「てか、数IIもだけど、数Bもやばいの。等差数列」  鞄の奥の方から教科書を引っ張り出して、陽咲が焦った声を出す。兄の存在などそっちのけだ。 「等差数列、って何だっけ?」  数Bは習ったけど受験に使わなかったからな、と自分で自分に言い訳をしている。 「こういうの」  教科書を広げて見せてくれた。Σをはじめとするギリシャ文字が、まるで暗号文書のようだ。 「数学のテストは、いつ?」  コメントを控えて、代わりにそう尋ねた。 「木曜日」 「それまで一緒に勉強しよっか」  まさにそれは、私も復習しなければいけない分野だった。心理学部の必修科目である心理統計学を理解する上で、Σが何なのかを思い出す必要があった。  ただ、そう提案したはいいものの、ヘトヘトで全く頭が回らず、見ているそばから数式がグニャグニャとねじ曲がっていく。 「ヒナタ、これ借りてってもいい?」  叶多の声に、ハッと我に返った。 「良いわけないでしょ。テスト勉強に使うし」 「そっか。一晩借りたかっただけなんだけど」  叶多は立ち上がって参考書を陽咲に返した。 「一晩で読み終わると思ってんの?嫌味?」 「そんなつもりはないけど。そういえば、さっき言ってたプラスがどうとかは解決した?」 「するわけないじゃん」 「いばらなくても」  陽咲が、どうせ分からないだろ、という顔をしながら、先ほどの問題を叶多に見せた。すると叶多はその問題の解き方をすらすらと説明してみせた。しかし残念なことに、公式を使わない彼の説明は、我々には難解すぎて理解できなかった。  怒った陽咲に追い出された叶多は、隣の新の部屋に行ったようだ。微かに話し声が聞こえてくる。 「すごかったね、カナタくん」  かっこよく思えて陽咲に同意を求めたら、呆れた顔をされた。 「すごいっていうか気持ち悪いでしょ。ちょっと読んだだけで。しかもこんなことも分かんないのかって小馬鹿にする感じでさ。説明も意味分かんないし」 「小馬鹿にはしてないと思うけど、確かに難しかったね」  それからしばらく苦戦して、やっとΣと他のギリシャ文字との関係が分かってきた頃、叶多が新の部屋を出ていく音がした。 「ユメちゃんも、もういいよ。ありがとう」  何も教えられなかった私に陽咲はお礼を言って、数学の参考書を差し出してきた。 「今晩はもう使わないからさ、お兄ちゃんに渡してきてくれない?」 「あ、うん。分かった」  今渡されても叶多ももう寝るのではないかと思ったけど、何も言わずに受け取った。  下に降りて習字部屋に行くと、戸が開いていて叶多がパソコンを操作しているのが見えた。 「寝ないの?」  中に入る前に、そう声をかけた。 「ああ、ユメちゃん。うん、今寝ちゃうと後で寝れなくなるから、もうちょっと起きてるつもり」  明日からの夜勤に向けて生活リズムを調節するのらしい。陽咲もそれを知っていて私に参考書を託してきたのだろう。 「カメラの写真をドライブに取りこんでるんだ」  そばに行った私に叶多はそう説明した。キリンの前で実采と幸多が肩を組んでニカッと歯を見せている写真が、パソコンの画面に映し出されている。 「いい写真だね」 「うん。ミコトがこんなに笑ってる写真は貴重だ」  叶多は満足そうに頷いて、カメラからケーブルを抜いた。 「古いでしょ、このカメラ。父さんが使っててさ。このカメラで撮ると、レンズ越しに父さんたちが見たかったものを届けられる気がして、ずっと使ってるんだ。タブレットで撮った方が画質は綺麗なんだろうけど」  カメラを両手で包みこむように持って、「そのうち壊れるかもしれないけどね」と笑って付け足した。カメラの液晶モニターに床の畳が映っている。 「ちょっと貸して」  叶多の手からカメラを取って、少し離れて構えた。 「おじちゃんとおばちゃんさ、カナタくんのことも見たいんじゃないかな」  モニターに映る叶多は、実物よりも小さく見える。 「頑張りすぎてるんじゃないかって、心配してると思う」  それは私の想いでもあった。でも、私にはこんな風にしか伝えられない。私の言葉で伝えたら、意図しないことまで受け取らせてしまいそうで。 「俺は大丈夫だよ」  叶多は液晶越しににっこりと笑いかけてきた。  抱きしめたい衝動に駆られた。膝立ちのまま近寄ったら、叶多はカメラを返すと思ったようで、手を差し出してきた。それで、カメラを脇に置いて彼の方に手を伸ばすと、目が合った。でも、すぐに逸らされてしまった。 「そういえば、俺に何か用だった?」  取り繕うように叶多が尋ねてくる。  拒絶を感じて手を引っこめた。言葉に詰まって、黙ってカメラを手渡す。 「あ、そうだ」  ここに来た目的を思い出した。 「これ、ヒナちゃんが一晩だけなら貸すって」  数IIBの参考書を見せた。 「ああこれか。ごめんね、ヒナタも自分で貸しに来たらいいのにな」  気まずいような、それでも嬉しさを隠しきれないような顔で、叶多は参考書を受け取った。  長居するのも迷惑だろうと思って腰を浮かせたら、呼び止められた。 「ありがとうね。アラタにいろいろ教えてくれたんでしょ」  さっき新と話したのだろう。 「ユメちゃんに心理学の話をしてもらったって聞いた。アラタの世界を広げてくれてありがとう」  イジメのことまでは聞いていないようだ。首を横に振りながら、叶多に伝えるべきか迷った。 「俺、ユメちゃんがいてくれるだけで幸せだよ」  新のことを考えていて、それが私のためにかけてくれた言葉だと理解するのに時間がかかった。 「疲れたでしょ。ゆっくり休んで」  何も言葉を返せないまま、叶多に寝るように促されて、 「うん。おやすみ」  軽く手を振って、自分の部屋に引き上げた。
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