叶多と勉強

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叶多と勉強

 翌朝は洗濯機の回る音で目が覚めた。時計を見ると六時すぎだった。洗濯物について叶多と取り決めたことを、布団の上でぼんやりと思い出す。毎朝叶多が洗濯機を回す。洗濯してほしいものは、それまでにネットに入れて洗濯カゴに出すこと。洗濯し終わったものはネットのまま返すので、自分で部屋の中か部屋の前のベランダに干すこと。というものだった。  本当にここに居させてもらって良いのだろうか、家族の時間を邪魔しているのではないか、などと考えているうちに目が冴えてしまって、二度寝をしても大学には十分間に合う時間だったけど、身支度を整えて一階に降りた。 「おはよう。起こしちゃった?」  眠そうな目をした叶多が挨拶してくる。 「ううん。カナタくんはずっと起きてたの?」 「結局ね。ヒナタの参考書が面白くて止められなかった」 「まさか最後まで読んだんじゃないよね?」 「いや、返さなきゃいけないから、一通り解いたよ」  何てことないように答える。 「え、等差数列とかも?」 「うん。等差数列は一番簡単だった」  信じられない。 「カナタくんって天才だったの?」  本気で言ったのに、笑われた。 「普通だよ。ちょっと数学が好きだっただけ。久しぶりにやって楽しかった」  謙遜しているつもりもなさそうだ。  ふと、思いついた。 「あのさ、大学で統計学っていうの習ってるんだけど、ほぼほぼ数学なんだよね。良かったら今度一緒に勉強しない?」  叶多が勢いよく頷いたから、びっくりして思わず後ずさった。 「するする。今日何時に帰ってくる?」  前のめりで訊いてくる。寝ない気か。 「きょ、今日は四コマ目まであるから、四時半くらいかな」 「そっか」  早まった自分を恥じるように、叶多はゆっくりとテンションを落として、近づいた分だけ私から離れた。がっかりさせてしまったのが申し訳なくて、軽い気持ちで提案したことを後悔した。 「水曜日は三時過ぎに帰ってこれると思うけど、その時間はまだ寝てるでしょ?」 「起きるよ」  叶多が食い気味に答える。 「統計学って確率とかそういうのでしょ?面白そうだよね」  そう思えるのがすごい。 「無理しないでね。ちゃんと寝てよ?」  釘を刺したけど、届いたかどうかは分からない。さっきまで眠そうだったのに、すっかり目を覚ましてしまっている。  陽咲が罪悪感を抱くのも分かるなと思った。叶多は勉強がしたかったのだ。何不自由なく高校に行ったくせにちゃんと勉強しなかった自分が、心の底から恥ずかしくなった。  その晩、叶多が夜勤に出かけた後、幸多が泣かないことに気がついて陽咲とそっと部屋を覗くと、実采が幸多に寄り添うようにして眠っていた。  彼らの心が変化していこうとしているのが分かって、こうやって子供は成長していくんだなと感慨を覚えた。  叶多が夜勤から帰ってくる時間に合わせて起きれば、案外、叶多と二人になるのは簡単だった。洗濯機を回した後は、二人で朝食を作った。  七時すぎに新が、実采と幸多を引きずるようにして一階に降りてくる。体育委員で早めに登校する新は、あっという間に朝食を済ませて家を出ていく。叶多が、まだ半分寝ている実采と幸多を急きたてながら、朝ごはんを食べさせて、身支度を手伝う。そのうちに陽咲が起きてきて、ご飯をかきこんだ後、実采と幸多を連れて慌ただしく出ていく。というのが、この家のルーチンのようだ。  陽咲たちがいなくなってから私が家を出るまでの三十分足らずの時間も、叶多と二人になれる時間だ。でも、食器を洗ったり洗濯物を干したりしていると、あっという間に家を出る時間が来てしまう。    約束した通り、水曜日は大学から帰った後、叶多と統計学の勉強をした。  叶多は、私がつまづいているところを難なく理解して、分かりやすく解説してくれた。講義を受けた私の方ができないなんて、と情けないやら申し訳ないやらで落ちこんでいると、好きな子と放課後に一緒に勉強してるみたいで俺は楽しいよ、と叶多は笑った。  好きな子、と言うけれど、叶多は依然として私に指一本触れようとしないのだ。
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