宮澤先生

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宮澤先生

 発達心理学の講義に宮澤が現れた時、新入生ガイダンスで彼が、学生時代にイジメを傍観して苦しんだと言っていたことを思い出した。彼に聞けば新を助ける方法が分かるかもしれない。そんな望みを抱いて、その日の講義が終わった後、研究室の戸を叩いた。  幸い、宮澤は在室だった。 「一人?」  私の後ろを窺うように訊いてくる。 「そうですけど……」  生徒一人だけのために時間を割けないという意味かと思って不安になっていると、宮澤は笑った。 「大抵の学生はゾロゾロ来るから、珍しいなと思って」  それを聞いて安心する。もう少し覚悟した方がいいと言われて以来、宮澤には苦手意識があって、ここに来るのにもかなり勇気がいった。  宮澤は私に椅子を勧めて、ティーバッグで紅茶を淹れてくれた。講義室の冷房が効きすぎていたから、温かい飲み物がありがたかった。 「イジメは男子生徒がやってるの?」  私の説明をひと通り聞いた後、宮澤はそう尋ねた。 「仲が良かったと言っていたので、男の子だと思いこんでしまっていました。でも、言われてみれば、どっちなのか聞いていないです。『いじめている子』『いじめられている子』という言い方をしていたので、もしかしたら女の子なのかも」  反省した。心理実験実習でも、相手から正しく情報を引き出すことの重要性を散々教えられているのに、実践できていなかった。あの時、自分には何もできないと決めつけて、何も聞き出そうとしなかった。 「一言でイジメと言ってもいろいろな種類がある。男女ではイジメの性質が異なることが多いし、仲間うちでの揶揄いの延長線上のものなのか、特定の個人を激しく拒絶するものなのかによっても大きく違う。また、イジメを主導する生徒のクラス内における立ち位置も重要だが、イジメを取り巻く環境も非常に重要だ。他の生徒がイジメにどう関わっているか、教師や保護者など子供たちの周りに相談できる大人がいるか、その大人が相談を受けた時に積極的に解決に動こうとするか」  宮澤はそこまでひと息で話した。まるで講義を受けているようで、メモを取りたいくらいだった。宮澤はマグカップの飲み物をひと口飲んだ後、続けた。 「特に、他の生徒がイジメにどう関わっているか、についてだが、イジメは多層構造を取ると言われている。つまり、いじめる生徒といじめられている生徒を中心として、それに加担する生徒、囃し立てて鼓舞する生徒。その外側に、無関心、あるいはいじめられる方が悪いと考えて傍観する生徒。そして、そのさらに外側に、報復を恐れて見て見ぬ振りをする生徒がいる。見て見ぬふりをする生徒の中には罪悪感に苛まれている者も多く、いじめられている生徒にこっそりと、自分は味方だと示すようなこともある」  私が話についていけているかを確認するような間を空けた後、宮澤はさらに続けた。 「ガイダンスでは少し誤解を与えたかもしれないが、イジメにおける一番の被害者は、無論いじめられている生徒だ。僕のケースでは傍観者が先に不調をきたしたが、それはいじめられていた生徒が、攻撃に対する防御性により優れていたか、あるいは何らかの支えがあったものと思われる。いずれにせよ、イジメにおいて最もケアされるべきは、いじめられている生徒だ」  私は頷いた。もっともな話だ。 「世間では、イジメにおいて、いじめられている生徒以外の全ての生徒を、傍観していただけの生徒も含めて、罪に問うべきだという声がある。だが僕は、岸本さんが心配する通り、罪悪感に苛まれている生徒もまた、ケアされるべき対象だと考えている。その子は、家族に迷惑をかけたくなくて、見て見ぬ振りをしていると言ったんだね?」  肯定した。 「すごく良い子なんです」 「良い子、というのはまた曖昧な表現だ。大人の言うことを聞くから良い子なのか、思いやりがあって良い子なのか、正義感に溢れているのか」 「そうですね。あの子はいつも人を思いやって、自分のことを後回しにしています」 「なるほど。いじめられている生徒とかつて友達だったことも、彼を苦しめている要因だろう。そして、話を聞く限りでは、教師は無関心なのだろうね」  同意した。このところ、教師という職業の在り方に課題感を抱いている。 「情報量が少ないのと、僕自身もまだ答えを探しているところだから、これ、という解決策を、今ここで提示することはできない。だが、傾聴ーー話を聞いて共感すること。無理に為になることを言おうとしなくていいし、解決に向けて行動を起こす義務を感じる必要もない。ただ、彼の心に寄り添うこと。それが、現状、君が彼のためにできる最善のことではないかと思う」  宮澤はそう締めくくった。お礼を述べる私に、また何かあればいつでも相談に乗ると言ってくれた。 「先生は、どうして発達心理学を専門にされているんですか?」  ずっと不思議に思っていたことを尋ねてみた。  発達心理学というのは、胎児期から老年期まで、人の生涯における発達的変化を、心に焦点を当てて研究する学問だ。イジメの問題に向き合うなら、社会心理学や集団心理学など、もっと適した分野があるように思えた。 「イジメに限定せず、人の攻撃性が形成される過程について、理解を深めたいと思ったからだよ」  私の質問に対して、宮澤は端的に答えた。自分の興味の対象を明確に表現できることを、尊敬するとともに羨ましく感じた。 「岸本さんは将来何がしたいの?」  マグカップの中身がなくなったのか、宮澤は私に問いを残して、立ち上がって小型冷蔵庫の方へと歩いていった。有名なココア風味の麦芽系粉末をマグカップに振りかけている姿が、普段の彼からはかけ離れていて、少しおかしかった。 「まだはっきりとは決めていないんですけど、カウンセラーに向いてるんじゃないかって友達に言われて、スクールカウンセラーに興味が出てきたところです」  マグカップを手に戻ってきた宮澤にそう答えた。 「そう。なんでスクール?」  牛乳をスプーンでかき混ぜながら、さらに訊いてくる。 「イジメに限らず、周りに気軽に相談できる大人がいなくて苦しんでいる子供って、多いと思うんです。本当は教師が相談相手になるのが理想的だと思いますけど、忙しくてなかなか手が回らないのが現状だと思うので、スクールカウンセラーとしてサポートできたらと」  新のこともそうだけど、実采の言っていた自分の名前の由来を知る授業も、教師や周りの大人がもう少しケアすることはできなかったのかと残念に思う。陽咲も、生理が止まって誰にも相談できなくて怖かったと言っていた。親身になって話を聞いてくれる大人がいれば、一人で苦しむことはなかったはずだ。  そして、私自身の経験を振り返ってみると、眠れない夜を過ごしていた中学生の頃、保健室の先生が寄り添ってくれたことのありがたさを、今になって身に沁みて感じている。昼休みの間何も言わずに寝かせてくれて、午後の授業に出る私を、しんどくなったらいつでも戻っておいでと、優しい笑顔で送り出してくれた。 「まあ、向いてないとは言わないよ」  私の答えを、宮澤は歯切れ悪く受け止めた。 「臨床ももちろん大事だ。ただ、一個人の印象として言わせてもらえば、君は研究にも適性があるように思ったけどね」  思いもよらないことを言われて面食らった。私が研究なんて。 「でもわたし、頭良くないし、数学とか全然なので……」 「数学は確かに解析に必要だから頑張らなきゃだけどね」  宮澤は微かに笑みを浮かべたけど、すぐに真顔になった。 「頭の良さなんて曖昧なもので、自分の可能性を狭めるのはナンセンスだよ」  叱られたように感じて、背筋がピンと伸びる。 「君は、人のことを心配するのは良いけど、自分の問題にもちゃんと向き合ってる?」  何のことか分からなくて首を傾げたら、宮澤は躊躇うようにこめかみを掻いた。 「こんなことを言うのは適切ではないのだけど、僕も入学試験の採点に関わって、君の小論文を読ませてもらった」  そこまで言われても、すぐには思い出せなかった。入学試験を受けたのはたった数ヶ月前のことなのに、遥か遠い昔に思えた。 「あっ」  すっかり忘れていた。入学試験の小論文のテーマは、心理学を志す動機についてだった。私は迷った挙句、本当のことを書いたのだ。 「思い出した?」  頷く。 「すごくぶっちゃけたことを書いたのを思い出しました……」  受かったことで記憶から抜け落ちていたけど、私はあの時、受からなくても構わないと思っていた。  宮澤は、まっすぐに私の目を見つめてきた。 「僕は、岸本優芽という人間に会ってみたいと思った。だからといって採点に手心を加えたりはしていないけどね」  宮澤の眼差しに射すくめられて、この場から逃げ出したくなった。本心を知られていることが恐ろしくて。 「君は自分の心を知りたがっていた。研究の原動力は、知りたいという探究心だよ。だから、研究に適性があるのではないかと思った。それだけだ。強いるつもりはないし、忘れてくれて構わない」  宮澤は、それ以上突っこんだ話をする気はないというように、マグカップをゆっくりと傾けた。 「もう、諦めたので」  変に期待されたくなくて、私は話を蒸し返した。 「忘れることにしたんです。母が死んでも泣けなかったこととか、父を見て笑いたくなったこととか。そんなこと考えてる時間ないし、考えたって仕方ないし」  言い訳がましくなっていることを自覚しながら、浅く息を吸ってさらに続けた。 「もう父と暮らすのもやめたんです。向き合おうと努力したって、しんどくなるだけだから。そんなことにエネルギーを使うくらいなら、もっと有意義なことに使いたいし」  宮澤の前で、自分の言動を正当化したくて必死になった。そんな私を、彼はしばらく黙って見ていた。 「だから君はもう少し覚悟した方がいいと言ったんだ」  ひりつくような沈黙の後で、宮澤は口を開いた。 「逃げこめる場所を見つけたのなら、それは悪いことじゃない。でも、逃げてばかりでは君はいつまで経ってもつらいままだ。誰の心にも本当の意味で寄り添うことはできないよ」  腹が立った。何も知らないくせに。 「じゃあどうしたら良いんですか?わたしの母は、父のせいでボロボロになって死んだんですよ。わたしにもボロボロになって死ねって言うんですか?先生は父に会ったことがないから分からないんです。父は人間じゃない」  自分の声が、まるでお母さんみたいだった。お母さんも、いつもこんな風にヒステリックに喚いていた。 「すみません」  少し冷静になって、声を荒げたことを詫びた。 「お父さんはそんなにひどい人なの?」  宮澤は話を終わらせてくれなかった。 「はい。常識が通用しない人なんです」  小論文にどこまで書いたか、詳細には思い出せない。 「わたしの名前、優しい芽って書くんですけど。この名前をつけたのは父で。父は、優しさが循環してみんなが幸せになるっていうのを理想にしていて、わたしに優しさを始める人になれと。そこまでは、まあ、良いんです」  お母さんも、父親のそういう考え方に惹かれたと言っていた。 「ただ、父は優しさの意味を履き違えていて。目の前に困っている人がいたら、何をおいても力にならなきゃいけないと思うみたいで。例えばアクセサリーを欲しがっている女の人がいたら、勝手に母のものをあげてしまうし、お金に困っている人がいたら、勝手に娘のお金を渡してしまうし、もうめちゃくちゃなんです」  紅茶で喉を潤して、私はさらに続けた。 「母は、父に何とか常識を教えようとしてたけど、何を言っても伝わらなくて。挙げ句の果てに父は、わたしが中学生の時に、わたしの同級生を妊娠させてしまって。それも、好きだからとかじゃなくて、寂しがっていたから慰めてやったんだって」  本当にめちゃくちゃなんです、と繰り返した。 「それはひどいお父さんだね」  宮澤の相槌に、今度はなぜか父親を弁護したくなった。 「父はあまり自分の母親に愛されずに育ったみたいで、そういうところに原因があるのかもしれません。学校で作ったお菓子を母親にあげたら喜んでもらえたからっていう理由でケーキ職人になったような人で。父はとにかく目の前の人を喜ばせたいんです。その場にいない人のことは見えなくなっちゃうんです。たとえそれが家族でも。多分、人を愛することができない人なんです」  その代わり、目の前の人間に対してはあまりにも献身的で、私は幼い頃、父親に愛されていると信じこんでいた。 「君のお母さんは、お父さんのことをどう思っていたのかな」  宮澤が静かに問いを発した。 「君は、どうしてお母さんがボロボロになるまで諦めなかったのだと思う?」  それを知りたいのは私の方だ。 「君はこう書いていたね。『私は母を母方の祖母の家に連れていった。このまま父と暮らしていれば、母がおかしくなってしまうと思ったからだ。しかし母は父と離れた途端にどんどん弱っていき、ついには帰らぬ人になった』」  耐えきれずに目を伏せた。宮澤の視線を痛いくらい感じる。 「君は、お母さんが亡くなったことに罪悪感を抱いているのではないか?」  責められたように思った。 「わたしはただ、母を守りたかっただけなんです」 「分かっている。君のせいではないと言っているんだ」  宮澤は強い口調で断言した。 「ハインツ・コフートという人を知っているか?オーストリア出身の精神科医で、自己心理学という概念を打ち立てた人だ。日本ではそこまで知名度が高くないが、僕が留学していたアメリカではコフートに影響を受けた精神科医や心理士がたくさんいた。  コフートは、幼少期に十分な愛情を受けずに育った大人は、心ーーコフートは自己愛と表現しているがーー心がうまく育たず、人付き合いに難を抱える傾向があることを指摘した。そして、大人になった後でも心を育て直すことが可能だと考えた。他者との対話と共感によってね。  君のお母さんも、コフートのように、お父さんを育て直そうとしたのかもしれない。ただし、この治療法には弱点があって、カウンセラーが良好な精神状態でないとうまくいかないんだ。患者、すなわちクライアントは、カウンセラーからの働きかけに対して、常に望む反応を返してくれるわけではない。それでもカウンセラーは常に平常心でクライアントと接することが求められるからね」  再び講義が始まったようで、自然と話に聞き入った。 「ただのカウンセラーとクライアントの関係であれば、カウンセラーは外の世界とも繋がりを持っていて、精神を安定させることができる。しかし、君のお母さんの場合は、夫婦として、お父さんからのフィードバックを求めただろう。そして、家族というのは非常に閉じた世界だ。そのような関係性において、大人を育て直すのは難しい。  それでもお母さんが諦めなかったのは、君のためもあるのだろうが、お父さんのことを大事に思っていたからではないのか」  宮澤はそこで言葉を切って、マグカップに口をつけた。 「そして君のお父さんだが、おそらく幼少期の母親との関係性から、一対一以外では他人と関係を築くのが苦手なのかもしれないね」  私は同意を示すために小さく頷いた。  父親はどの仕事場でもうまくいかなかった。ケーキ職人としての腕は確かだったようで、ケーキ屋では長く働いていたが、それでも度々トラブルを起こしていた。一度、父親が働くケーキ屋に連れていかれたことがある。私が熱を出した時のことだ。お母さんから私の看病を頼まれたのに、父親は仕事を断りきれなかったのだ。事務所で寝かされた私は、朦朧とする意識の中で、何度父親がなじられているのを聞いたか分からない。それ以来、ケーキ屋が苦手になってしまった。 「ただね、エーリッヒ・フロムは、愛することを、与えることに喜びを見出すことだと述べているんだ。フロムは、社会心理学や精神分析、哲学を専門にしたドイツ出身の研究者で、新フロイト派とも言われているが、『The Art of Loving』という題名の本を書いたことで有名だ。  この本の中でフロムは、愛は特定の相手との間だけで完結されるべきではなく、最終的には全人類が愛によって包まれるべきだとしている。君のお父さんはある意味で、フロムにとても近い考え方をしているんだよ。優しさを循環させるという考え方自体は、心理学の在り方にも繋がる非常に素晴らしい考え方だ」  そこまで話して、宮澤は私の反応を待つように口を閉じた。私は、宮澤が何を伝えようとしているのか分からずにいた。 「すみません。わたしには難しすぎて理解しきれていないと思います」  心苦しく思いながら、正直に告白した。宮澤は落胆した様子もなく、むしろ満足げに頷いた。 「うん。僕の方も思いつくままに話した。今君が全てを理解することは期待していない。一番伝えたかったのは、もっと自分の内面と向き合って悩めということだ。いろいろと喋ったのは、そのためのヒントになればと思ってのことだ。  そして、これは大事なことだが、悩むときはまっすぐに悩むんだ。自分の醜い側面に気付いて愕然とすることがあるかもしれない。だが、そういった時に罪悪感のような余計な感情に囚われてはいけないよ。君は何も悪くない。そんなことで自信をなくすのはもったいないことだ。いいね」  念押しするように言われて、つい頷いていた。 「先ほどは、君のお父さんのことを悪く言うようなことをして悪かった。君の本音を知りたかっただけで、真意ではない」  宮澤はそう付け加えて、この話を終わらせた。 「話が長くなってしまったね。試験勉強は順調?」  その口調は、一転して親しみの込もったものに変わっている。 「あ、いえ……。正直、テストがいつからなのかもあやふやです……」  再来週かその次の週のどっちかだったと思うけど。 「大学に入って最初のテストだろう。何か他に気を取られていることでもあるのか?」  そう問われて、いろいろな心当たりが胸をよぎる。叶多の家で暮らすようになって、彼らの生活リズムに慣れる必要があったし、新のことが気がかりだし、このところは陽咲と一緒に数学をやっていた。でも、今一番私が気を取られているのは。 「恋人が最近触らせてくれなくて」  深く考えずに軽いお悩み相談的に呟いたら、マグカップの飲み物を啜っていた宮澤がむせた。 「あ、すみません、変なこと言って。何でもないです」  赤裸々に打ち明けすぎたことに気づいて、顔が熱くなる。 「君が傷つけるようなことでも言ったんじゃないの?」  咳きこみながら訊いてくる。 「そんなことはないと思いますけど……」  思い返しても分からない。叶多に最後に触れたのは、父親の家に迎えに来てくれた時だ。あの時はキスだってしたのに。 「キスより先は無理とは言ったけど、関係ありますかね?」  さらにすごいことを打ち明けている自覚はあったけど、相談に乗ってくれるのなら全部話してしまえという気持ちだった。 「それは、今は無理っていうつもりで言ったの?」  宮澤は平静を取り戻している。彼にはどうでも良いことだろうのに、親身に聞いてくれて優しい。 「ずっと無理っていうつもりです。わたし、父と同級生が、その、行為をしているところを見てしまったことがあって、すごく汚く感じてしまって」 「なるほどね」  宮澤が相槌を打つ。 「それ、君の恋人はちゃんと分かってる?拒絶されたと思って落ちこんでるかもよ」 「そう、なんですかね」  あの時叶多は平気な顔をしていたけど。 「まあ、学生の本分は勉強することだから、推奨する気はないけど、本当に好きなら無理だと決めつけなくてもいいと思うけどね。見るのと実際にするのは違うし。少なくとも、君が触れたいと思っていることは伝えてみたら?」  宮澤の言葉に初めて、自分は叶多にどうしようもなく触れたいのだと自覚した。マチョコの言葉の意味が今になって分かる。彼女は、好きな人には触りたくなるものだと言った。  いつの間にか叶多でいっぱいになっている心が、少し怖いような気もする。  宮澤にお礼を述べて、帰るために椅子に置いていた鞄を取ろうとしたら、手が滑って床に落としてしまった。ドンッと鈍い音がした。 「勉強する気ないね、君」  鞄から飛び出た物を見て、宮澤が笑った。大学の図書室で借りたアガサ・クリスティの小説本だ。 「いやっ、これは、その……」  完全に図星だったので、しどろもどろになる。 「まあ、不安なことを抱えているとミステリー小説が読みたくなる気持ちは分からなくもない。小説の中では問題が解決するからね」  でもちゃんと勉強するように、と釘を刺して、鞄と本を手渡してくれた。  目から鱗が落ちた気分だった。両親が言い争いを始めると、私は自分の部屋に閉じこもって、ミステリー小説を読んでいたものだった。あれは、一種の逃避行動だったのだ。  知らず知らずのうちにいろんなものに頼って生きてきたことを実感する。今度は私が誰かの支えになれるように、まずは自分の問題にきちんと向き合わないといけないなと思った。
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