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あなたに触れたい
翌日は、にわか雨に降られながら十五時すぎに帰宅した。
まだ寝ているだろう叶多を起こさないように、そっと玄関のガラス戸を開けた。いつになく静まり返った家の中で、規則的なアラームの音が微かに聞こえている。
アラーム音を辿って習字部屋の前に行くと、叶多が布団で眠っていた。寝込みを襲うようで部屋の中に入るのは憚られたけど、網戸から吹きこむ雨が叶多の髪を濡らしていて、意を決して足を踏み入れた。
音を立てないように窓を閉めて、叶多の枕元で鳴っている目覚まし時計を止めた。起こすべきかどうか迷いながらも、初めて見る彼の寝顔に引きこまれてしまって、少しだけ、とそばに腰を下ろす。
無防備に眠る叶多の頬に触れたい誘惑と戦っていると、あっという間に五分経っていた。
「カナタくん」
何か用事があってアラームを設定していたのだろうと思って、呼びかけた。全く起きる気配がない。
何回か呼んだ後に、肩をゆすってみた。ようやく叶多が薄く目を開ける。私の顔を眩しそうに見上げて、ふんわりと笑った。可愛い。
「アラームが鳴ってたから……」
やましい気持ちを抱えて弁解する私の方に、叶多が手を伸ばしてきた。と思ったら、腕を引っ張られた。びっくりしてされるままになっていると、布団の上に押し倒されて、叶多が覆いかぶさってきた。全身に彼の体温を感じて、途端に鼓動が激しくなる。
「えっ」
唇が触れる寸前に、急に我に返ったみたいに叶多が私から飛び退いた。
「わ、え、ご、ごめん!ホントごめん……どうしよう俺、シャワー浴びてくる。ごめん!」
何度も謝って、逃げるように部屋を出ていってしまった。
彼の熱が残る布団の上で、いつまでも動悸が治まらなかった。
コーヒーを淹れるためにヤカンを火にかけていると、肩にタオルをかけた叶多が台所にやってきた。
「本当に申し訳なかった。最低だ、俺」
深く頭を下げたまま、顔を上げない。私が首を横に振ったのも見えていないようだ。
「座って。コーヒー飲むでしょ?」
そう声をかけると、彼は小さく肩を跳ねさせた。そして、おずおずといった様子で、私から一番遠い椅子に腰を下ろした。
「嫌じゃなかったよ」
台所は暑いくらいなのに、叶多は寒そうに縮こまっている。
「すごくびっくりして、ドキドキしたけど、別に、嫌じゃなかった」
私は繰り返した。叶多ともう二度と、すれ違いたくない。
「カナタくんが最近わたしと距離を置いてるのは、わたしがキスより先は無理って言ったから?」
率直に尋ねたら、叶多は躊躇うようにしながら口を開いた。
「ユメちゃんが嫌がることなんか、絶対したくない。けど俺、舞い上がってるから。ユメちゃんも、俺にあんまり近づかない方がーー」
「わたしは、カナタくんに触れなくて寂しかった」
本音を口にするのは、とても不安で怖い。でも、私はもう叶多に本心を伝えることを諦めないと決めたのだ。
ゆっくりと叶多が顔を上げる。
「ごめんね。わたしがあんなこと言ったから、気を遣わせちゃったね」
やっと目が合ったけど、今度は私が彼に背を向ける。
「わたしさ、お父さんがわたしの同級生とセックスしてるの、見ちゃったことがあるんだ」
淡々とした口調を意識しながら、インスタントコーヒーの粉をすくうスプーンが震えている。昨日宮澤に話した時は、こんなに緊張しなかったのに。
「すごく気持ち悪くて、今でも時々夢に見る。カナタくんの前で自分もあんな風になるのかなって思ったら、わたしーー」
言い終わらないうちに、後ろから抱きしめられていた。
「いい。しなくていいから」
私の耳元で、叶多は囁くように言った。
「言ったでしょ。ユメちゃんがいるだけで、俺、すごく幸せなんだ。だからーー」
「でもね、」
叶多が早口で話を終わらせようとしてくれているのが分かって、遮った。
「でも、大丈夫かもしれないって、思ったの。お父さんたちとは違うし、見るのと実際にするのは違うらしいから……」
恥ずかしさが麻痺したみたいに、つい口を滑らせた。
「らしいって、誰かに言われたの?それ」
叶多が抱きしめる力を強くして聞き咎める。
「昨日ちょっと、用事があって大学の先生のところに行って、話のついでに……」
「先生って、女の先生?」
なぜだろう。叶多に怒られたくなった。
「男の先生。三十五歳独身の」
「男とそんな話すんなよ」
案の定、彼は怒った。深いため息をついている。
「ユメちゃん可愛いんだから、男は勘違いするよ。それで昨日遅かったの?夜道を一人で歩くのも危ない……うん、分かってる。俺、うるさいこと言ってる」
何だかまた落ちこませてしまったようだ。叶多の腕の中で身体の向きを変えた。一歩後ずさった彼の顔を見上げる。
「嬉しいよ、心配してもらえるの。怒られたくてわざと言ったの。ごめんね。心配させるようなことしないように気をつける」
正直に打ち明けた私の頬を、叶多が軽くつねる。そのまま、顔を近づけてきた。
「あっ」
もう少しで唇が触れるという時に、思わず声をあげた。叶多がピタッと動きを止める。今思い出したのだから仕方がない。
「アラーム鳴ってたよ。何か用事があったんじゃないの?」
叶多は、そんなことか、という顔をした。
「ユメちゃんが帰ってくる前に起きたかったんだよ」
つまらなさそうに言って、そばの椅子を引いてドカッと腰を落とす。拗ねたのか、私と目を合わせようとしない。
「そんな。わたしのために睡眠時間削らないでよ」
「早く寝たから大丈夫だよ」
やっぱりちょっといじけている。
屈んで、その唇にキスをした。離れようとしたら、肩を掴まれた。後ろでヤカンが鳴って、今度こそ離れようとしたら、叶多が私を捕まえたまま立ち上がって火を止めた。
玄関でガラス戸の開く音がするまで、彼は私を解放してくれなかった。
「ただいまー」
陽咲の明るい声を聞いてやっと私を放した叶多は、緊張で膝がガクガクしている私のことを見て笑った。椅子に優しく座らせてくれる。
「おかえり」
台所に現れた陽咲を、何もなかったみたいに笑顔で出迎えている。何でこの人はこんなに余裕なのだろう。
「何これ?」
陽咲がテーブルの上の紙袋に気づいて覗きこむ。叶多も今初めて気がついたようで、私に目で問いかけてきた。
「大学で借りて」
うまく喋れない気がしたから、短く答えた。昨日大学の図書室に行ったのは、アガサ・クリスティの小説を借りるためではなかった。叶多が喜ぶかと思って、高校数学のおさらい的なものから理工学部の学生向けの難しそうなものまで、数学関係の本を適当に借りてきたのだった。本当は又貸しをしてはいけないのだろうけど。
「お兄ちゃん、めっちゃ愛されてんじゃん」
陽咲が兄を茶化す。
「俺のことはいいから、テストどうだったんだよ。お昼は食べたのか」
叶多がぶっきらぼうに返した。要らなかっただろうか。そう思って少し冷静になる。
「友達と食べた。テストのことは聞かないで」
追及を拒むように、陽咲は台所を出て二階へと駆け上がっていってしまった。
「微妙だった?返してこようか?」
紙袋に手を伸ばすと、叶多はそれより早く手に取って、胸に抱きかかえた。
「妹にニヤけた顔見られたくなくて」
その顔でとても喜んでいるのが分かって、ホッとした。
「返すのは夏休み明けで大丈夫だから。夢中になって寝るの忘れちゃダメだよ」
うん、と生返事をしながら紙袋の中をゴソゴソしている。
「俺、ユメちゃんにもらってばかりだね」
ひと通り確認した後、叶多が呟いた。
「ユメちゃんのために俺にできること、何かある?」
私の方こそもらってばかりだと否定しかけて、ふと浮かんだ。
「そういえば、ちょっとお願いがあるんだけど……」
忙しい叶多にこんなことを頼んで良いのか迷いながら。
「お父さんとはもう関わらないつもりだったんだけど、やっぱりもう一回、会ってみようかなって思ってて」
叶多が大きく何度も頷く。
「それでね、もし大変じゃなかったら、一緒に来てくれると、心強いっていうか……」
「もちろん」
即答してくれた。
「むしろ一緒に行かせてほしい。ユメちゃんがうちにいるのに、俺、まだお父さんに挨拶できてないし」
「それは気にしなくていいけど、ありがとう、すごく心強い」
叶多はすぐにでも日にちを決めようとする勢いだったけど、夏休みに入ってからで良いと伝えた。決意を聞いてほしかっただけなのだ。
父親と向き合うよう、私の背中を押したのは宮澤かもしれない。でも、私に前向きなエネルギーを注いでくれるのは叶多だ。本当に、もらってばかりなのは私の方だ。
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